現在、上野の国立西洋美術館では
『ベルギー王立美術館展』が開催中である。
会期は12月10日(日)まで。
読売新聞による紹介記事
会期中、計5回の記念講演会が予定されており、
今日はその第1回が、本館地下1階の講堂で行われた。
以下は、その聴講報告(文責はなこ)。
■『ルネサンス期フランドルの都市文化:
ブリュージュからアントウェルペンへ』
講師の河原温氏は首都大学東京助教授で、
ご専門はヨーロッパ中世史、都市社会史とのこと。
今回は第1回ということで、ブリューゲルらを輩出した
フランドル絵画隆盛期に至るまでのベルギーの歴史を
200年に遡って(つまり15~16世紀)講演された。
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15~16世紀のヨーロッパと言えば、
イタリアのルネッサンスがあまりにも有名である。
その中心地は、言わずとしれたフィレンツェ。
同時代、現ベルギー(フランドル)の古都ブリュージュも
フィレンツェに劣らず隆盛を極めていた。
両者には共通点が多い。①商業都市であったこと、
②毛絹織物産業を中心に熟練の職人が多く存在したこと、
③フィレンツェにはメディチ家、
ブリュージュにはブルゴーニュ公国と
文化の大パトロンが存在したこと。
特に15世紀当時のブリュージュは、海に面してはいなかったが、
水路で海と繋がっていた為、ヨーロッパ中の大型船が往来し、
貿易都市として繁栄していた。当然多くの外国人商人も集った。
そうした商人達もまたブリュージュ文化の格好のパトロンとなり、
伝統的な宗教画をはじめ、肖像画、風景画、寓意画を
こぞって求めたのである。
そしてそうした絵画を多く手掛け、画壇の中心にいたのが、
ヤン・ヴァン・ダイクやメムリンク、ダヴィドと言った面々であった。
ブリュージュにおける絵画取引の隆盛は、
15世紀半ばに開店した”パント”と呼ばれる画廊の存在が
大きい。これは元々教会の回廊に絵画を展示し販売したのに
端を発している。
ところが、そのブリュージュの繁栄も思いがけない終焉を迎える。
大パトロンであったブルゴーニュ公国の最後のプリンセス
マリーが、落馬が元で亡くなってしまったのである。
亡くなった当時、彼女は既に結婚しており、
その夫であるマクシミリアンⅠは神聖ローマ帝国に連なる王
であった(後に神聖ローマ帝国皇帝となった)。
マリーの死によって二人の領地はフランス王のものとなり、
15世紀末、ブルゴーニュ公国は事実上消滅した。
これが決定打となって、フランスに嫌気したマクシミリアンⅠは、
フランス宮廷文化の影響の色濃いブリュージュを離れ、
政治的に、より彼に近いアントウェルペンへと居を移した。
そして彼に付き従うように、ブリュージュにいた商人達も
大挙してアントウェルペンへと移動した。
この結果、フランドルの中心は新たにアントウェルペンとなり、
15世紀に僅か9000人であったアントウェルペンの人口は、
16世紀には10万人へと急増したのである。
16世紀、フランドルの中心都市となったアントウェルペンは、
文化都市としても充実する。Painting(絵画)、
Printing(印刷業)、Performance Art(演劇)
といった所謂”発展の3P要素”が、その原動力となった。
さらにこの時代、アート・ディーラーとして、
画家の妻達がその手腕を発揮したという記録が残っている。
この街には300人の画家がいて、パン屋の倍である。
―グッチャルディーニ(イタリアの有力商人)
当時のアントウェルペンでは、クウェンティン・マセイス、
パティニール、ブリューゲル、アントン・フローリス、
と言った画家達が活躍していた。
アントウェルペンを訪ねたドイツを代表する画家デューラーは、
パティニールを「独特の色彩感を持った画家だ」と称えたと言う。
こうしたアントウェルペンの繁栄もまた永遠には続かなかった。
16世紀後半に入って、スペインの宗教的圧力を受け続けた
アントウェルペンは、都市としての自由な空気が失われ、
急速に衰退していったのである。
専門の「都市社会史」の視点から見た、
15~16世紀を通じてのフランドル絵画の特徴は、
宗教画の背景にさりげなく描き込まれた、
驚くほど精緻な当時の都市風景である。
繰り返し描かれて来た鐘楼、クレーンなどは、
都市の繁栄の象徴として描かれものと推察される。
当時の都市生活者たる画家の自負が、
そこから読み取れるのではないか?
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【感想】
大学時代、17世紀オランダの絵画について自分なりに学んだ
つもりだったが、オランダ史上における黄金の世紀と呼ばれる
その繁栄に先立って、隣接するフランドル地方がこれほどまでの
隆盛を見ていたとは知らなかった。自分の浅学を恥じるばかりだ。
17世紀オランダの繁栄の礎が、すべて15、6世紀のフランドル
にあったのである。張り巡らされた水路、盛んな商取引による
海外からの人、物資、文化の流入、それによる都市の繁栄と
豊かな市民生活、活発な文化活動。
これらのすべてが16世紀後半のスペイン支配による圧力から
逃れる為オランダに移住した人々によって、オランダへと
もたらされたのである。
やっぱり繁栄の鍵は、”人”なんだね。
人に伴ってモノも文化も流入して来る。
それによる既存のものとの摩擦でさえ、都市の活力となる。
興味深い話だった。