近年、マスコミでも盛んに「格差社会」が喧伝されている。格差社会がもたらす弊害が、各メディアでも何度となく取り沙汰されている。私も三浦展著のベストセラー『格差社会』は読んだ。
しかし、格差社会は今に始まったことではない。日本は遙か昔から天皇を頂点とする階級社会であり、身分差、経済格差は確実に存在していた。それが戦後、国土が焦土と化したどん底の状態から立ち上がろうと、国を挙げて経済成長に邁進した結果、国民経済全体の底上げが実現し、一時的に格差社会の”格差が縮まった”(かに見えた?)為に、それほど問題視されなかっただけのことだと思う。
それが、経済成長が見込めなくなったバブル崩壊期以降、企業はグローバリーゼーションの荒波の中で生き残りをかけるべく真っ先に人件費抑制に動き、雇用創出努力を放棄した。その煽りを受けたのが若い世代だ。現在の30代は”失われた世代”と揶揄されるほど、正規雇用者の比率が低いと言われる。20代にしても、年ごとに就職環境は一定でなく、昨年は団塊世代の大量退職があって新卒や若手の就職率は一時的に好転したが、今年の就職戦線は米国のサブ・プライムローン・ショックもあって、世界経済が急速に縮んだ煽りを受け不透明な状況だ。ひと握りの飛び抜けて優秀な人間や恵まれた階層の人間を除く、大多数の若者が、本人の能力・努力に関係なく、生まれた年の巡り合わせで、社会人としてのスタートを幸先良く切れるか否かが決まってしまう。その不条理に(特に近年の日本では階級社会意識が希薄であっただけに)、若者が落胆しないわけがない。
私も就職には苦労した。殆どの地方には大量に雇用創出できる企業の数が絶対数少ない。私の郷里では民間企業は零細企業が殆どで、雇用も安定的でなく、ボーナスさえ支給がおぼつかない。そんな中で安定した就職先として、官庁・市役所等の公的機関は人気が高かった。それは現在も変わらないだろう。その為採用一次試験倍率は十数倍にも上る。私はそれを2回突破したが2回共就職は叶わなかった。その一番の原因は、雇用段階において、地方独特の地縁・血縁と言ったコネのバックアップが私にはなかったからである。このことは、同じく試験に合格し、公務員の職を得た友人が、親兄弟はおろか親族一同公務員という状況からも類推できる。市役所等はもっとあからさまで、どう見ても成績下位だった同級生がなぜか職を得ていて、その理由を探ったら、親が市会議員であったり、市長の有力な後援者であった。そういう故郷の不誠実に私は見切りをつけて、東京に本拠を置く大手民間企業へ就職した。何の有力なコネも持たない私を、私の能力の可能性だけで判断し、受け入れてくれた会社に対し、私は今でも感謝している。
今、顕在化している格差社会の何が一番の問題かと言えば、大多数の若者に”チャンス”さえ与えないことである。派遣を雇用調整弁とする企業の雇用姿勢が常態化している現状では、正規雇用の機会を一度逃した者には派遣かフリーターの道しか残されておらず、正規雇用で安定した職場と生活を得ることが難しくなっている。ひとつの案としては、一定の試用期間を設けて、その働き次第で正規雇用する仕組みを、労働政策として制度化することが必要なのではないか?雇用創出力のある企業に、毎年一定割合をそうした形で雇用することを義務づけるのである。それを達成しない企業に対しては、法人税課税を強化するなどのペナルティを課す。
就職予備軍に対しては、学童期から(教育課程の段階で)職業教育を徹底することも必要だろう。特に中学生頃から、自分が将来就きたい職業について、どのような準備が必要か考える時間を十分に与える。もちろん誰もが大学に行く必要などない。机上の勉強以外の能力を生かした仕事は幾らでもある。その際、「できるだけ多く稼げるが勝ち」のような拝金主義的な価値観は極力排除すべきで、働くことの意味、多様な職種で構成される社会の意義を考えさせたい。職種ガイドとして、村上龍が監修した職業紹介の本を一冊、小学校の各学級文庫に設置するくらいのことをしても良いだろう。社会科見学の一環で、あらゆる職場の見学の機会も設けたら良い(既に実施はされてはいるが、もっと大規模な形で)。企業も雇用者の子弟を積極的に親の職場に招く機会を設けるべきである。
さらに大学、大学院等の公的高等教育機関は、教育機会均等の原則を貫いて、本当に学びたい学生が学べるよう学費は無料化し、出身家庭の経済環境で教育の機会が損なわれることのないよう考慮すべきである(入学選抜に関しての考慮も必要。国公立に入学する為に塾等の教育費が嵩むようでは本来の機会均等は実現できない。他国の例を参考にすべきか?)。私学との学費の差を縮めようと学費値上げを検討する等、世界の趨勢と逆行するような愚策はすぐさま撤回すべきだ。公器としての公的高等教育機関の役割は、そこで培われた高い能力・技術を社会に還元することにある(故に卒業生は社会の為に大車輪の働きをする義務がある)。その費用が全額税金で賄われるという意味で、怠学者は容赦なく放校するぐらいの措置が許されるだろう。放校された者は税金の無駄遣いをもたらしたとして、一定期間強制的に労働に従事させる(笑)。財源の問題は、官庁の現状の無駄遣いを正せば、幾らでも捻出できるのではないか?
◆ブログ内関連記事:教育に力を入れなければ、この国は確実に駄目になる
日本では変な平等主義がはびこってエリートを忌避する傾向もあるが、他国のエリートと堂々と渡り合えるような能力とプライドを持ったエリートの養成は、特に経済大国としてのプレゼンスを失いつつあるこれからの日本には必要だと思う。経済以外で国際社会に対して日本はどんな貢献ができるのか?天然資源がない日本では人材こそ財産であり、国際貢献の切り札になると思う。
若者が将来の展望を抱けるような社会に変えない限り、若者はお金も使わないし(=消費税収入は増えない。今の若者は日本の産業の中で最も経済波及効果の高い自動車も買わないし、外出も控える傾向が統計的に実証されている)、家庭も持たないし、ましてや子供を持ちたいとも思わないだろう。今日の少子高齢化問題の責任の一端は政治の無策にあることは間違いない。
しかし、格差社会は今に始まったことではない。日本は遙か昔から天皇を頂点とする階級社会であり、身分差、経済格差は確実に存在していた。それが戦後、国土が焦土と化したどん底の状態から立ち上がろうと、国を挙げて経済成長に邁進した結果、国民経済全体の底上げが実現し、一時的に格差社会の”格差が縮まった”(かに見えた?)為に、それほど問題視されなかっただけのことだと思う。
それが、経済成長が見込めなくなったバブル崩壊期以降、企業はグローバリーゼーションの荒波の中で生き残りをかけるべく真っ先に人件費抑制に動き、雇用創出努力を放棄した。その煽りを受けたのが若い世代だ。現在の30代は”失われた世代”と揶揄されるほど、正規雇用者の比率が低いと言われる。20代にしても、年ごとに就職環境は一定でなく、昨年は団塊世代の大量退職があって新卒や若手の就職率は一時的に好転したが、今年の就職戦線は米国のサブ・プライムローン・ショックもあって、世界経済が急速に縮んだ煽りを受け不透明な状況だ。ひと握りの飛び抜けて優秀な人間や恵まれた階層の人間を除く、大多数の若者が、本人の能力・努力に関係なく、生まれた年の巡り合わせで、社会人としてのスタートを幸先良く切れるか否かが決まってしまう。その不条理に(特に近年の日本では階級社会意識が希薄であっただけに)、若者が落胆しないわけがない。
私も就職には苦労した。殆どの地方には大量に雇用創出できる企業の数が絶対数少ない。私の郷里では民間企業は零細企業が殆どで、雇用も安定的でなく、ボーナスさえ支給がおぼつかない。そんな中で安定した就職先として、官庁・市役所等の公的機関は人気が高かった。それは現在も変わらないだろう。その為採用一次試験倍率は十数倍にも上る。私はそれを2回突破したが2回共就職は叶わなかった。その一番の原因は、雇用段階において、地方独特の地縁・血縁と言ったコネのバックアップが私にはなかったからである。このことは、同じく試験に合格し、公務員の職を得た友人が、親兄弟はおろか親族一同公務員という状況からも類推できる。市役所等はもっとあからさまで、どう見ても成績下位だった同級生がなぜか職を得ていて、その理由を探ったら、親が市会議員であったり、市長の有力な後援者であった。そういう故郷の不誠実に私は見切りをつけて、東京に本拠を置く大手民間企業へ就職した。何の有力なコネも持たない私を、私の能力の可能性だけで判断し、受け入れてくれた会社に対し、私は今でも感謝している。
今、顕在化している格差社会の何が一番の問題かと言えば、大多数の若者に”チャンス”さえ与えないことである。派遣を雇用調整弁とする企業の雇用姿勢が常態化している現状では、正規雇用の機会を一度逃した者には派遣かフリーターの道しか残されておらず、正規雇用で安定した職場と生活を得ることが難しくなっている。ひとつの案としては、一定の試用期間を設けて、その働き次第で正規雇用する仕組みを、労働政策として制度化することが必要なのではないか?雇用創出力のある企業に、毎年一定割合をそうした形で雇用することを義務づけるのである。それを達成しない企業に対しては、法人税課税を強化するなどのペナルティを課す。
就職予備軍に対しては、学童期から(教育課程の段階で)職業教育を徹底することも必要だろう。特に中学生頃から、自分が将来就きたい職業について、どのような準備が必要か考える時間を十分に与える。もちろん誰もが大学に行く必要などない。机上の勉強以外の能力を生かした仕事は幾らでもある。その際、「できるだけ多く稼げるが勝ち」のような拝金主義的な価値観は極力排除すべきで、働くことの意味、多様な職種で構成される社会の意義を考えさせたい。職種ガイドとして、村上龍が監修した職業紹介の本を一冊、小学校の各学級文庫に設置するくらいのことをしても良いだろう。社会科見学の一環で、あらゆる職場の見学の機会も設けたら良い(既に実施はされてはいるが、もっと大規模な形で)。企業も雇用者の子弟を積極的に親の職場に招く機会を設けるべきである。
さらに大学、大学院等の公的高等教育機関は、教育機会均等の原則を貫いて、本当に学びたい学生が学べるよう学費は無料化し、出身家庭の経済環境で教育の機会が損なわれることのないよう考慮すべきである(入学選抜に関しての考慮も必要。国公立に入学する為に塾等の教育費が嵩むようでは本来の機会均等は実現できない。他国の例を参考にすべきか?)。私学との学費の差を縮めようと学費値上げを検討する等、世界の趨勢と逆行するような愚策はすぐさま撤回すべきだ。公器としての公的高等教育機関の役割は、そこで培われた高い能力・技術を社会に還元することにある(故に卒業生は社会の為に大車輪の働きをする義務がある)。その費用が全額税金で賄われるという意味で、怠学者は容赦なく放校するぐらいの措置が許されるだろう。放校された者は税金の無駄遣いをもたらしたとして、一定期間強制的に労働に従事させる(笑)。財源の問題は、官庁の現状の無駄遣いを正せば、幾らでも捻出できるのではないか?
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日本では変な平等主義がはびこってエリートを忌避する傾向もあるが、他国のエリートと堂々と渡り合えるような能力とプライドを持ったエリートの養成は、特に経済大国としてのプレゼンスを失いつつあるこれからの日本には必要だと思う。経済以外で国際社会に対して日本はどんな貢献ができるのか?天然資源がない日本では人材こそ財産であり、国際貢献の切り札になると思う。
若者が将来の展望を抱けるような社会に変えない限り、若者はお金も使わないし(=消費税収入は増えない。今の若者は日本の産業の中で最も経済波及効果の高い自動車も買わないし、外出も控える傾向が統計的に実証されている)、家庭も持たないし、ましてや子供を持ちたいとも思わないだろう。今日の少子高齢化問題の責任の一端は政治の無策にあることは間違いない。