はなこのアンテナ@無知の知

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韓国周遊~7つの世界遺産を巡る(9)

2007年09月18日 | 韓国周遊旅行(2007年夏)


 3日目。旅も後半に入った。実はこの日から天気に恵まれず、終始雨に祟られた。屋内見学は皆無だったので、ずぶ濡れになりながらの観光だった。正直なところ観光どころではなかった(苦笑)。

 儒城のホテルでの朝食は一般的なビュッフェ・スタイル。久しぶりに朝食で牛乳やフルーツジュースを飲んだ感じだ。ずっと伝統的な韓国料理が続いていたが、ここで一休み。キムチもお休み。何となくお腹がホッとした(笑)。出発前にロビーで寛いでいたら、軍服姿の男女が数人集まって来た。多国籍だ。風貌と言葉から韓国人とフィリピン人と米国人か。合同軍事演習か会議でも行ったのだろう。長閑な温泉地にはおよそ似つかわしくない軍服だが、朝鮮半島が南北に分断されて以来、軍事的緊張はずっと続いているということなのだろう。

 さて今日は大田市から一気にソウルまで北上だ。午前中に水原華城、華城行宮、韓国民俗村、午後に江華山城観光というスケジュールになっているが、時間は移動に殆ど費やされて強行軍は目に見えている。それに追い打ちをかけるように降ったり止んだりの雨。亜熱帯地方のスコールを思わせるような雨は日本でも珍しくなくなったが、韓国も同様なのか。地球温暖化の影響を感じずにはいられない。

 高速道路を2時間余り走っただろうか?やっと最初の目的地水原華城(スウォンファソン)に到着。ここは18世紀末に李氏朝鮮22代正祖(チョンジョ)王が築いた、周囲5.7㎞に及ぶ城塞だ。正祖王は、政争に敗れ非業の死を遂げた父(荘献世子)の為に、その陵(墓)を楊州から水原郊外に移した。その後、父の眠る場所に近い、八達山の麓にあたる現在の地への遷都を目指したが、完工直後に王が病死した為遷都計画は中止され、華城は幻の都となってしまったらしい。

 華城の建設には、高名な学者2人の尽力と37万人もの労力と17年もの歳月が費やされたと言う。ヨーロッパの建築技術を取り入れた設計で、城郭の築造に石材とレンガを併用している点が特徴的だ。朝鮮戦争時に一部が破損・焼失したが、1975年から5年の歳月をかけて修復・復元され、築城時にあった48カ所の建築物のうち、現在も41カ所を見ることができるらしい。

 1周するにはゆうに2~3時間はかかるとされる華城を、悲しいかなパッケージツアーの私達はさわりの部分を見るだけである。しかも雨で足下も悪く、その優美な風景を堪能するにはほど遠い状況だった。「それでも来た記念に」と写真を何枚か撮るので精一杯。以下はその貴重?なショットの一部。
城壁沿いに空心墩と呼ばれる建築物  
空心墩とは、兵士が中に入って敵を見渡せるように作られた望楼の一種で、は華城の最も特異な建築物のひとつと言われる。内部通路は螺旋状になっており、その構造から「サザエ閣」とも呼ばれるらしい。 
■いつかはこの方のようにゆっくりと観光してみたい(*^_^*)⇒水原(スウォン)観光

城壁から遠くに市街地を望む

韓国の国花ムクゲ。日本でも庭木や生垣で見かける身近な花?  

水原華城全体図(リーフレットより)

 実は雨と同じ位手強かったのが中国からの団体ツアー客だった。たまたま居合わせると彼らの口角泡を飛ばす勢いのおしゃべりで、ガイドさんの解説も何度となく中断を余儀なくされるほどだった。見学中の人の前を遠慮会釈なしに団体で横切るなど、とかくマナーの悪さには閉口した。昨年末に長崎のハウステンボスでも同様の憂き目に遭ったのを思い出した。中国は改革開放路線の結果、富裕層が100万人から200万人に倍増したと言われる。その彼ら新興富裕層が海外旅行を楽しむ時代が到来したというわけだ。そうした経緯もあって、彼らの旅先での振る舞いは、洗練にはまだ程遠いのだろう。かつての日本もそうであったかもしれないから、このことで彼らのことは笑えないが…にしてもなあ…(涙)。
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