現在の浦上天主堂
1945年8月6日の広島に次いで、8月9日に長崎に原爆が投下された。その惨禍は筆舌に尽くしがたいものであっただろう。人類史上初の戦争下での被爆なのだ。
先日テレビで、世界初の原子爆弾実験場(1945年7月16日、米・ニューメキシコ州アラモゴード)に関する現地レポートを見たが、実験から60年以上の歳月が経過しているにも関わらず、自然に存在する10倍強の放射能がいまだに残存しており、記者が持参したガイガーカウンターが強く反応したのが印象的だった。実験場脇には記念館が併設されており、そこの土産物コーナーでは原子爆弾型のイヤリングや原爆雲のポスターが販売されている。米宇宙飛行士の月面着陸のポスターに並んで原爆雲のポスターが販売されていることに、被爆国の人間としては複雑な思いがした。
さらに終戦記念日の前日だったか、朝のテレビ番組で、長崎市の浦上天主堂にまつわる秘話がレポートされた。同じ被爆地でも、広島には「原爆ドーム」と言う世界遺産にも登録された被爆遺構が存在する。一方で長崎にはそれに匹敵するような遺構が残っていない。戦後復興を優先させた結果とも言われるが、今日の被爆地としての長崎のプレゼンスが広島に劣っている印象が拭えないのは、視覚的にその惨禍を訴える「原爆ドーム」のような被爆遺構がないことが、ひとつの原因であろう。
戦争の被災地が、以後二度と戦禍に遭うことのないよう、その悲惨な戦争体験を後世に伝えて行くのは、時間の経過と共に直接の被災者がこの世を去ることで困難になって行く。それは広島・長崎も然り。沖縄も然り。東京を始め、大空襲を受けた各被災地も然り。そこで、各被災地では戦争遺物を展示した平和祈念館の運営を軸に、被災者からの聞き取り調査や、体験談の映像保存、若い語り部の育成等に力を入れている。もちろん被災者としての側面ばかりでなく、加害者としての側面、並びに戦争に至った時代的、社会的背景についても、研究者らの力を借りて、私達は学ぶべきなのだろう。今後戦争を回避する為にひとりひとりが何をすべきか、或いは何をしてはいけないのかを知る手立てとして、人類史上絶え間なく各地で起きている紛争、戦争勃発のメカニズムについて、学べるものなら学びたいものだ。
爆心地近くにあった浦上天主堂は、原爆により壊滅的な被害を受けた。当時天主堂内にいた神父、信徒は全員、原爆による熱線と天主堂崩壊による瓦礫の下敷きとなって亡くなったと言われている。今もなお、1959年に再建された天主堂の脇に、被爆当時そのままの状態で無残に陥落した鐘楼が横たわっている。夫の実家が天主堂の近隣にあるので、帰省の度に私はそれを嫌と言うほど目にしている。目にする度に胸の奥が疼く。(被爆直後の天主堂→)
テレビで披露された秘話とは、1950年代後半の長崎市議会で、被災した浦上天主堂に関し、原爆の惨禍を伝える遺構として「保存」の方向で検討されていたにも関わらず、市長の訪米を機に一転して「建て替え」となった経緯であった。長崎出身のルポライターが上梓した本を元にしたレポートだったが、戦後復興の最中にあって当時としては希有であった、「米国の地方都市との姉妹都市提携」を持ちかけた謎の米国人の存在を焦点に、当時の米国政府の政治的な隠蔽工作を暴くものであった。
具体的には、キリスト教国家を自負する当時の米国が、あろうことか日本におけるキリスト教の拠点とも言うべき長崎に原爆を投下したことへの後悔と狼狽である。それはキリスト教国家としてあるまじき同胞への攻撃であった。国際社会には何がなんでも知られたくない恥部だった。だから、被災したキリスト教会の保存など、当時の米国政府から見ればとんでもない話だったのである。それを何が何でも阻止すべく謀ったのが、(戦後復興支援を餌?にした)米国姉妹都市提携であり、市長の懐柔であった。市長は米国各地で歓待を受け、帰国後は意見を180度転換させたのだった。
天主堂再建は信徒の願いでもあったが、市議会の意向によっては他所への移転再建も可能だったはずである。現地の瓦礫を撤去し、そこにあえて再建するに至った経緯の背景には、米国の政治的思惑が働いたことも否定しようのない事実のようである。
長崎にゆかりのある人間として思うのは、過去に3人の総理大臣を輩出し、国内的にも見ても政治力に勝る広島がどうしても被災地としてのアピール力に長け、長崎の印象が相対的に薄くなってしまうことへの歯がゆさである。広島の原爆ドームに匹敵するような、何か視覚的に訴える存在、或いは術が長崎にもないものかと、原爆忌が巡って来る度に思いあぐねるのである。
◆浦上天主堂について(ウィキペディア)
ちょっと古い記事ですが、原爆資料館の在り方について、博物館業務の専門家?が書かれています。
◆長崎原爆資料館
1945年8月6日の広島に次いで、8月9日に長崎に原爆が投下された。その惨禍は筆舌に尽くしがたいものであっただろう。人類史上初の戦争下での被爆なのだ。
先日テレビで、世界初の原子爆弾実験場(1945年7月16日、米・ニューメキシコ州アラモゴード)に関する現地レポートを見たが、実験から60年以上の歳月が経過しているにも関わらず、自然に存在する10倍強の放射能がいまだに残存しており、記者が持参したガイガーカウンターが強く反応したのが印象的だった。実験場脇には記念館が併設されており、そこの土産物コーナーでは原子爆弾型のイヤリングや原爆雲のポスターが販売されている。米宇宙飛行士の月面着陸のポスターに並んで原爆雲のポスターが販売されていることに、被爆国の人間としては複雑な思いがした。
さらに終戦記念日の前日だったか、朝のテレビ番組で、長崎市の浦上天主堂にまつわる秘話がレポートされた。同じ被爆地でも、広島には「原爆ドーム」と言う世界遺産にも登録された被爆遺構が存在する。一方で長崎にはそれに匹敵するような遺構が残っていない。戦後復興を優先させた結果とも言われるが、今日の被爆地としての長崎のプレゼンスが広島に劣っている印象が拭えないのは、視覚的にその惨禍を訴える「原爆ドーム」のような被爆遺構がないことが、ひとつの原因であろう。
戦争の被災地が、以後二度と戦禍に遭うことのないよう、その悲惨な戦争体験を後世に伝えて行くのは、時間の経過と共に直接の被災者がこの世を去ることで困難になって行く。それは広島・長崎も然り。沖縄も然り。東京を始め、大空襲を受けた各被災地も然り。そこで、各被災地では戦争遺物を展示した平和祈念館の運営を軸に、被災者からの聞き取り調査や、体験談の映像保存、若い語り部の育成等に力を入れている。もちろん被災者としての側面ばかりでなく、加害者としての側面、並びに戦争に至った時代的、社会的背景についても、研究者らの力を借りて、私達は学ぶべきなのだろう。今後戦争を回避する為にひとりひとりが何をすべきか、或いは何をしてはいけないのかを知る手立てとして、人類史上絶え間なく各地で起きている紛争、戦争勃発のメカニズムについて、学べるものなら学びたいものだ。
爆心地近くにあった浦上天主堂は、原爆により壊滅的な被害を受けた。当時天主堂内にいた神父、信徒は全員、原爆による熱線と天主堂崩壊による瓦礫の下敷きとなって亡くなったと言われている。今もなお、1959年に再建された天主堂の脇に、被爆当時そのままの状態で無残に陥落した鐘楼が横たわっている。夫の実家が天主堂の近隣にあるので、帰省の度に私はそれを嫌と言うほど目にしている。目にする度に胸の奥が疼く。(被爆直後の天主堂→)
テレビで披露された秘話とは、1950年代後半の長崎市議会で、被災した浦上天主堂に関し、原爆の惨禍を伝える遺構として「保存」の方向で検討されていたにも関わらず、市長の訪米を機に一転して「建て替え」となった経緯であった。長崎出身のルポライターが上梓した本を元にしたレポートだったが、戦後復興の最中にあって当時としては希有であった、「米国の地方都市との姉妹都市提携」を持ちかけた謎の米国人の存在を焦点に、当時の米国政府の政治的な隠蔽工作を暴くものであった。
具体的には、キリスト教国家を自負する当時の米国が、あろうことか日本におけるキリスト教の拠点とも言うべき長崎に原爆を投下したことへの後悔と狼狽である。それはキリスト教国家としてあるまじき同胞への攻撃であった。国際社会には何がなんでも知られたくない恥部だった。だから、被災したキリスト教会の保存など、当時の米国政府から見ればとんでもない話だったのである。それを何が何でも阻止すべく謀ったのが、(戦後復興支援を餌?にした)米国姉妹都市提携であり、市長の懐柔であった。市長は米国各地で歓待を受け、帰国後は意見を180度転換させたのだった。
天主堂再建は信徒の願いでもあったが、市議会の意向によっては他所への移転再建も可能だったはずである。現地の瓦礫を撤去し、そこにあえて再建するに至った経緯の背景には、米国の政治的思惑が働いたことも否定しようのない事実のようである。
長崎にゆかりのある人間として思うのは、過去に3人の総理大臣を輩出し、国内的にも見ても政治力に勝る広島がどうしても被災地としてのアピール力に長け、長崎の印象が相対的に薄くなってしまうことへの歯がゆさである。広島の原爆ドームに匹敵するような、何か視覚的に訴える存在、或いは術が長崎にもないものかと、原爆忌が巡って来る度に思いあぐねるのである。
◆浦上天主堂について(ウィキペディア)
ちょっと古い記事ですが、原爆資料館の在り方について、博物館業務の専門家?が書かれています。
◆長崎原爆資料館