はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

北京オリンピックの感想

2008年08月26日 | はなこのMEMO
メダル獲得数で国力をアピールする時代はもう終わった、とはなこは思う(コメント欄も見てね!)

北京オリンピックが終わった。さる高名な予言者が以前、「北京オリンピックは開催できない」「翌9月に中国か日本に大地震が発生する」と予言していたそうだ。その話を私にしてくれた女性は「北京オリンピックが開催できなかったら、9月の地震のことを信じようかなと思っているの」と言っていた。果たして、いろいろな問題を孕みながらもオリンピックは開催され、無事閉幕した。今頃、彼女は安堵しているのだろうか?

個人的には今回のオリンピック、可もなく不可もなし、と言ったところ。選手の国籍を問わず、個々に心打たれた競技、選手の活躍はあったけれど、オリンピックそのものについて、昔持ったほどの感慨はない。オリンピックに限らず、さまざまなスポーツ・イベントへの関心が年々薄れているのはどうしてなんだろう?すべてのイベントが商業化の一途を辿り、華やかさが増す一方で、競技成績も金のかけ方次第のように見えるのが、白けてしまう原因なのか?また、今回は特に全体主義国家の国威発揚臭が鼻についたのもいけなかったのかも。あの名物オリンピックおじさんをして、「中国国体を見ているようだった」と評している。全体的評価も「(100点満点の)30点」と手厳しい。

例えばオリンピックと言えば、毎度のことながら日本人選手のメダル獲得数が取り沙汰される。今回は金9個、銀6個、銅10個の計25個。参加国中8位である。メダル獲得総数は前回アテネの37個を大きく下回るが、4位~8位の入賞が50で、総入賞者数は75人となり、前回アテネの77人とほぼ同数。

JOCを通じて国が投じた選手強化費はアテネの翌年からの4年間で80億7000万円。アテネ前の4年間と比べ、約5割増だったらしい(正直、こんなもんか~?と思った。だって道路整備に年間7兆円をかける国だよ!)。費用対効果で、今回のメダル獲得数はどうなのか?と言う意見もあるが、これも簡単には評価できないものらしい。4年後にオリンピックを開催する英国の躍進は、自国開催に向けての金に糸目をつけぬ強化策が実ったとの見方がある。国を挙げてのスポーツへの投資競争は激しくなる一方な中で、もし日本がアテネ並の強化費だったら、今回の結果はさらに悲惨になっていた、との見方もあるのだ。

私個人の印象では、今回の日本のメダル獲得数、入賞者総数共に、妥当なところではないかと思っている。そもそも大陸人に比べ、体格及び身体能力に劣る島国人が、それなりにお金をかけて体力をつけ、技術を磨いた結果がこれなのである。もちろん国が豊かになったことで栄養も十分に摂取できるようになったおかげで、体格はある程度大陸人に近づきはした。しかし皮肉なことに、国が、個人の暮らしぶりが豊かになったことで、日本人からはハングリー精神(闘争心、勝利への執着心)が失われてしまった。金メダルを獲得したからと言って、日本では報奨金でひと財産は作れないし、生涯エリートの道を保証されるわけでもない。選手のモチベーションはあくまでも精神的な充足感である。あまりにも高尚過ぎて、特に対戦(競争)相手と体格差や身体能力の差があまりない競技では、「貧困からの脱出」や「巨万の冨の獲得」と言った即物的な動機を持った相手に、最後のつば迫り合いでどうしても気力負けしてしまう。

自国開催で気を吐く中国のメダルラッシュ。その重要な担い手は9億人に及ぶ農民の師弟とも言われている。例えば、ウエイト・リフティング。中国勢が男女9階級のうち7階級に出場し、金メダル6個、銀メダル1個を獲得。圧倒的な強さを誇り、金メダル量産の一翼を担っている。その選手の殆どは農村出身である。中国の農村は機械化が遅れ、生産性が低く、その平均年収は1万元(16万円)にも満たない。ある金メダリストは10代前半の体育学校時代、月の生活費がわずか180元(約2800円)。体育館を清掃し、ゴミのペットボトルを売って生活費の足しにしていたと言う。そんな彼が今回の金メダル獲得で手にするであろう報奨金は500万元(約8000万円)。実に農民年収の500倍である。

また卓球女子金メダリスト、張選手は北京の貧しい家庭に生まれ、15平米の部屋に家族6人で暮らしていたと言う。前回アテネでも金メダルを獲得した彼女は、すでに22歳にして一家の暮らしの支え手であった。尤も中国でも、このところの経済発展は沿岸部から内陸部へと波及し、それに伴い、選手のモチベーションも徐々に変化しつつあるらしい。

もともと身体能力で劣る日本人が幾ら努力しても、技術力を磨いても、競技によっては太刀打ちできないものも少なからずあるだろう。シンクロナイズド・スイミングや新体操は、パフォーマンス以前に、選手自身の容姿の美しさ(特に手足の長さ)が明らかに有利に働くのが、何だか虚しい。またある競技で日本が強くなると、なぜかその後ルールや採点基準が変更されたりと、選手個人の力量とは離れたところで、スポーツ政治力学とも言えるものが働くのも腑に落ちない。

日本の競技団体自身の問題としては、例えばマラソン代表の選考方法や指導体制に疑問符が付く。オリンピックのマラソンは夏季に行われるのに、冬季に選考会。しかも何度にも渡って。本番は一発勝負なんだから、本番と同じ条件下で選手全員を一斉に競わせたら良い。定められた期日に万全の体制で臨めない選手が、オリンピックで良い結果を出せるはずがない。ここで勝負強さが問われるのだと思う。また本番直前のトレーニング中に故障するなんて言語道断。本番にピークを持って来られるよう、大会前は特に細心の注意を払って、練習量をセーブさせるのも、選手を指導する側の責任なんじゃないの?

そもそも日本は旧共産国並に国家を挙げて選手をバックアップしたり(←これは競技ルールを改正する場に、競技役員が積極的に参加したり、自国に有利に働くようロビー活動をすることも含めて)、メダリストを厚遇する体制ではないのだから、選手にメダル獲得を求める(期待する)のは酷なのかもしれない。あくまでも選手個人に、選手らを直接支えた人々に、その栄誉は帰すべきなんだと思う。一般のファンは、そのパフォーマンスで感動できたら、それで十分。メダル獲得の有無や色なんて関係ない。

最後に苦言。どんな条件下にあっても、プロはプロとしてのパフォーマンスを見せてこそ、プロと言えるのだと思う。プロはアマチュア以上に結果がすべて。だから高給が約束されている。そのことを、今回参加したプロ選手は忘れているんじゃないのかな。
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