はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

ふと思ったこと~本当に「昔」は良かったのか?

2006年09月04日 | はなこ的考察―良いこと探し
今朝のテレビで、80歳代の妻が90歳代の夫を殺害した、
という報道があった。
その夫婦の間に起きたことは、痛ましい以外の何ものでもない。
近所では評判の仲の良い夫婦だったらしいが、
最近はお互いに耳が遠くなり、妻が大声で話しかけるのを
夫が「うるさい」と暴力を振るうようになったのが、
殺害の動機だと伝えていた。
そこで番組中コメンテーターが、問題点として
「地域の力」の弱体化、「近所付き合い」の希薄さを
挙げていた。つまり昔ならそれらがうまく機能して、
そういった事件を防いでいた、ということか?


私も、現在と「昔」 (と言っても、せいぜい自分の幼い頃のこと?)
を比べて、昔は良かったと言うことが多い。
でも今朝はふと「本当に昔は良かったんだろうか?」
という疑問が頭をもたげた。

歴史を振り返って、果たして”完璧に”幸福な時代なんて
本当にあったんだろうか?
いつの時代にも戦争、天災、飢餓、貧困、
そして悲惨な事件、事故があった。
近年自殺や児童虐待の増加が取り沙汰されているが、
それだって昔は統計すらとらなかっただけの話。
昔から少なくない数の自殺と虐待があったはずだ。



最近、日露戦争前後の日本の貧しい山間の農村を舞台にした
『清作の妻』という映画を見た。
田村高廣、若尾文子主演のかなり古い映画だ。
映画では、妖婦とも言うべき若尾文子演じる女性が、
村一番の好青年である清作(田村高廣)と
夫婦になったのをきっかけに、夫婦して村八分にされる。

時は大日本帝国時代。
村の働き盛りの男達は戦争へと駆り出されている。
それは名誉なことだとされながらも、
村や家族にとっては働き手を失うことを意味する。
奪われた男達は愛する夫や父親であり、
家族の元に無事に生きて帰って来る保証もない。
村を挙げての兵士送り出しに紛れて慟哭する出征兵士の妻。
それを諫める村人。

「建前と本音」。
村という共同体で生きるには、
常に本音を押し殺して行かねばならない。
本音を貫く清作とその妻。
建前を通して共同体の和を守ろうとする村人達。
「村八分」というシステムは、
共同体の破壊者となりうる者への制裁行為に他ならない。
弱い者イジメにも似た村人個々の行為は、
本音で生きる夫婦への妬み、そねみとも取れる。
そうすることで、今にも壊れそうな自身の心の均衡を
辛うじて保っているのか。
果たして本当に弱い者は誰なのか?


人が選び取るものは、その時々で自分にとって良いと思うもの。
その選択の積み重ねの結果としての今がある。
人々が、自分が、「昔」を懐かしんでいるとしても、
果たして本当に人々は、自分は、「昔」に戻りたいのか?
「昔」が良かったという思いは、
単なるノスタルジーでしかないのではないか?

普段言っていることと矛盾を感じつつも、
正直、そんなことを思った。

【追記】
「昔は良かった」発言は、
逆に「人間や文明社会の在り方は常に進歩している」
と言う前提に立ってのものとも取れるだろうか?
進歩しているはずなのに、なぜ改善されないのか?
或いは悪化の一途を辿っているのか?
そういう意味を暗に含んだ言い回しなのか…
実は人間はどんなに時代を経ても、ちっとも進歩なんか
していない。ましてや、その人間が築いている社会なんて…
果てぬ戦争が、その最たるものだろう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『佐賀のがばいばあちゃん』... | トップ | 昨日、書いたことについて… »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。