はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

人間って、そんなに立派じゃないよね…

2009年12月17日 | はなこ的考察―良いこと探し
 マイケル・ジャクソンやタイガー・ウッズを巡る醜聞でつくづく思うのは、名声や富と引換えに彼らが背負った偶像の重さである。彼らがそれぞれの分野でたとえスーパースターであっても、人間である限り完全無欠ではあり得ないはずなのに、「世間」は、彼らが長所と欠点の両方を持ち合わせた1人の人間であることを許さない。

 世間に発するパワーが強大であればあるほど、彼らが世間から受ける過大な期待は、プレッシャーとなって彼らの精神を圧迫する。もちろん彼らは自分の立場を弁えていて、世間の期待に応えるべく最大限の努力をする。しかし、そうした状況の下で、1人の人間としてその精神の均衡を保つのは、けっして容易なことではないだろう。それがマイケルの桁外れな浪費や不可解な行動、そしてウッズの常軌を逸した、数多くの女性との浮気なのかもしれない。確かにその一連の行為は褒められたものではないが、1人の人間としての弱さが垣間見えて、寧ろ人間味が感じられるのではないか?

 そもそも幼い頃から、ショービジネスやスポーツの世界で、ひたすらその道に精進して来ただけの彼らに、「世間」の常識を求めるのは酷な話ではないのか?「世間」のモノサシで、スーパースターは測れない存在と言えるのではないか?彼らの才能に驚嘆し、感動し、十分楽しませて貰って来たはずの「世間」は、「世間」が創り上げた「偶像」から、彼らが僅かでも逸脱することを許さない。過ちを謝罪しても許さない。反省して、やり直す猶予も与えない。なぜ?それで、「自分」にどんな実害が及ぶと言うのか?これはどう見ても、「世間」の身勝手だ。彼らの才能から受けた「恩恵」を、「仇」で返す行為に等しい。

 その才能の素晴らしさを、「失ってから」気づくのでは遅過ぎるのである。 
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