続編 2020年03月11日 | Weblog このおおのこぎりもヤスリで研がないと切れない。 ヤスリですると、粉がでる。鉄の粉だ。 これを紙でまいて、こよりのようにする。そして火をつける。 パチパチと線香花火となる。 こびきをやってる爺さんちへ行くと、これをやってみせた。爺さんも少しはこどもたちの笑顔でリラックスしたのだろうか。
民謡、、、こびき唄 2020年03月10日 | Weblog こびき唄の冊子を作る。 おおのこ・・・・これで丸太を板にしていたのだ。 今だと製材でおこなうが、昔は人力なのだ。 わたしの小さい頃、だいたい冬になると家の土間に丸太を引き入れ、それを引いていた。 それはたくましい男の作業であった。 ま、そういう唄もうたわられたのだ。労働唄だ。
もずが枯れ木笑っていた 2020年03月09日 | Weblog もずだけは、しっぽをピクピクするので鳥オンチでもわかる。 世の中にはモズ勘定という言葉があるらしいが、もう死語に近いのだろう。 鳥の仲間はわすれたけだ、飲み屋で三羽で支払いをする時、お前はいくらと二人から集金して、自分のを足して支払った。けど自分の負担がなかったというのだ。 そういえば昔こういう経験をした。幹事してて、酔っぱらっていたせいもあるが、懐が痛まないことがあった。これだなーーーーー
塔タワーはおもしろいあと 2020年03月05日 | Weblog 塔とかタワーとかの響きは「画題」のなりそうな雰囲気をもっている。 最近、奈良の興福寺の五重の塔の傷みが激しく修理をするそうだ。 現在のものが室町時代建立というから、 一言「すげーー」となる。 薬師寺の東西の塔とか法隆寺の塔とか東寺の塔とか、あれを昔はクレーンもなく建立したのだから おそろしい。 地震に耐えるよう中心に竹材が使わられて、振動に耐えるという。 万博の岡本太郎の塔の内部もおもしろい。 東京タワーもなんとなく、昭和の匂いがしてイイ。 なお、写真は空想の塔の内部である。
ヒマラヤ王子 2020年03月03日 | Weblog この物語は信濃毎日新聞に連載され、小冊子として当時80円で売りだされた。 これは表紙であるが左の白いところは私が補修した。昭和20年後半だ。 文章と絵が交互に書かれた当時「絵物語」と言われた形式だ。 父を探してヒマラヤ山脈に入り、隕石の放射能から誕生した奇人、奇獣、奇鳥など登場する。 新聞の連載が好評だったらしい。展開がおもしろく私も楽しみにしていた。 今はヒマラヤは未知の世界で、現在みたいに列をつくって登山するようなところでなかった。 雪男などが住む謎をふくんだ山だったのだ。 人間がわがままに荒らしまくっているので、未知の世界がだんだん減って来た。無念。
あの頃のヒーロー 2020年03月02日 | Weblog 古い古い雑誌を見ていたら、私の書いたとおもわれる絵がでてきた。 横に小五と書いてあったから・・・・ずいぶん前だが、ワクワクしながら書いてたのだろうか。 御存じと言っても年配の人しかしらないヒーロー。 丹下左膳だ。 片目片腕のニヒルな剣の使い手・・・・・・ どくろの紋章、白の着物、下は真っ赤な襦袢。 とてつもなくカッコいいですな。
切り絵 2020年02月29日 | Weblog これは東京展に出した作品の一場面である。 ことの他、切り絵も効果的と思っているが・・・・切り絵では表現できない限界も感じた。 版画と違って、こもってしまう。 ここら辺の心持の表現はむずかしい。 ジワジワコロナって感じで、ジムにいったら自粛営業にはいるそうな。
長谷川伯鵞の碑 2020年02月28日 | Weblog 池田町の八幡社を訪れる。 各町の山車の倉庫が並び多くの碑があり、すぐにはわからなかった。 高瀬中学と隣接している。その校門の側にあった。知らない人は見向きもされない 小さな句碑であり、文字も普通の人だと読み取れない・・・・ 私などは「靄」という字で、これだと見当をつけている。私には全文読み取れない。 足もとへ靄ふきつけてほととぎす とある。読みにくい「靄」は、モヤと読む。 愛知県の生まれの方で、池田で逗留され俳句の指導をなさっていたとか。池田で亡くなったらしい。 そのくらいしか知識がない。勝手に思い込むと、こういう文化人を迎えいれる素地がこの町にあったのだろう。
清音の滝・・・・句碑探訪 2020年02月27日 | Weblog 大町から八坂に上る右側に滝があり、芭蕉の句碑がある。 あんまり見向きされないのか、季節のせい、時勢のせいか看板もない。 芭蕉没100年を記念して建てられたようだ。 ほろほろと山吹きちるや瀧の音 とある。この滝を詠んだ句でなく、吉野山の滝を詠んだ句だそうだ。 芭蕉によって俳諧は全国にひろまり、信州の片田舎でも盛んであったようだ。 今とは違い、戦国の時代が終わると庶民に生活の安定があり、俳句という文化がエネルギーとして発散したようだ。現在にようなんでもかんでも、入って来る時代とちがい、江戸から流れてくる文化は大いに刺激があったものだろう。