武田光弘画楽多製作日記

暇をもてあそび造形してます。作品として形としてまとめたものなどを見ていただきたい
と思っています。

かんちがい

2010年05月31日 | Weblog

この紫の花はクサフジと言うそうだ。売れない分譲地のコンモリと群生している。これをシジミ蝶の食になるクララとばかり思っていた。どおりでシジミ蝶も見えないはずだ。
名前の由来はフジの花に似てるからだそうだ。
午後は誘われマレットゴルフに行った。一年ぶりだった。コースも整備され少し変わっていた。セットで買ったやすいステックも健在だった。

帰ってきてワークショップ用のペーパークラフトを試作した。複雑にすれば見栄えもするが、いきなり複雑なものは見本にならんし・・・
夜はサッカーをみる。日本のサッカーはつまらないが今晩はイングランドだ。ここにいるいたずら小僧みたいな顔をしたルーニー選手が見ものだ。こういう選手が日本にでないかなーーー

福祉協議会講座

2010年05月30日 | Weblog

2時間半くらいの時間で取り組んでいただいた。休憩もあったが誰も休まず熱中し皆さんそれぞれ完成したので、まあまあよかったかなという感じで終了した。
子どもから大人まで40人くらいの参加者だった。この位の人数だと、昔授業をしていた「感覚」がよみがえってかえってやりやすい。

弁当の話

2010年05月29日 | Weblog
家の近所のガソリンスタンドが閉鎖されコンビ二が開店した。少し行くとコンビ二があり、弁当屋がありおにぎり専門店がある。・・・スタンドの前は昔村役場があって尋常小学校があったか・・・・時代の流れだ。それを囲んであったスーパーもつぶれた。また近くにあったコンビ二もクリーニング屋に替わった。
開店でにぎわっていた。弁当もたくさん出ていた。家庭での料理もだんだん便利さに負け減っていくだろう。
ずいぶん豊かになったものだ。・・・・親父が戦争から帰ってきて仕事がないので山にはいって炭焼きをしていた。釜を作り木を倒し燃す・・相当な力仕事だ。昼弁当はぎっちりご飯のつまった大型アルミ弁当。おかずは少々。「こんなもんでは力がでねえ」と夫婦げんかしていた。わたしはいつも心の中ではおふくろの味方だった。当時は肉など簡単に手にはいらない。鶏の首はねるか、山うさぎがとれたか・・・そんなもんたまにだ。魚だって干鱈か味噌漬けのニシンくらい。漬物主力だ。作る方だって大変だったのだ。

田園の憂鬱

2010年05月28日 | Weblog

さわやかな春といいたいところだが・・・・なにかと寒かったり、暑かったり・・・冷夏の予感。農業をやっておられる方は気を揉んでおられるだろう。
さわやかな春の版画をつくろうと始めたが、思うようにならずキュウリの棚をつくる。バラの新芽が虫にくいちぎられた。

晩学のすすめ

2010年05月27日 | Weblog

伊能忠敬と言えば日本地図をつくった人。
連想ゲームのように出てくるのは歴史まる暗記の成果か。
しかし中身はわかってなかった。

さむらいと思っていたら家業は商家であった。商売はなかなか上手であったようだ。
50歳で隠居。それから江戸に出て暦学者の門に入る。先生は自分より19歳下であった。56歳の時には幕府の命を受けエゾ測量を開始した。60間の麻縄をぴんとはって測量するくりかえし。
5月29日はエゾ地の測量がはじまった日である。
簡単に書けばこうである。生涯学習をいわれるこの時代、まったくすごいと言わなくてはならない。
作られた地図の正確さは洋学者シーボルトも驚嘆したという。

信長の価値観

2010年05月26日 | Weblog

信長は古いしきたりや慣習のとらわれない。時代の先を行く人であった。
千利休にあった時、せまい茶室では身分は関係ない人間のつきあいを知る。人間の価値観を変えねば・・・・とヒントをえた。
当時は戦いに勝つと報酬として「土地」を与えるのが慣わし。しかし土地には限りがある。いずれいきずまる。それに変わるもの・・・信長は千利休の人間の価値観を変えるものとして「文化」を選んだ。

まず茶器など芸術品を渡すようにした。・・・・そういうことが次第に浸透し殿様から茶器などの芸術品をもらうのが「自分の価値の基準」となっていったという。

それがそれを作る人の雇用の広まりを生んだり、衣料・食料などの他の文化も生活の中で広まりを見せ安土文化が花開いた。・・と童門さんの本に書いてあった。なるほどね。さすが信長・・・六月には本能寺の変がある。

龍馬脱藩す・・・

2010年05月25日 | Weblog
本屋に行った。店頭には「龍馬本」がいっぱい出ていた。一気に売ろうと言う魂胆だ。
「龍馬がニセ金作りをしていた」という本もあった。これは知る人ぞ知る・・・と言われればほんとうかなとか思ってしまう。
「藩」と言うのは明治になって使われるようになった言葉で龍馬活躍中はなかったそうだ。だから例えば藩主○○とは言わず○○候、藩士は○○家来とか言っていたらしい。そうなると脱藩なども当時は何て言っていたのだろうか。土佐藩という呼び名もない。「土佐はのう・・」とか言ってのかな・・・・。
庭に珍しい鳥が来た。あまり興味がないので珍しく映ったのかもしれない。調べたらコムクドリらしい。つがいでメスの方は茶色がかっていた。沖縄諸島を経て南下する渡り鳥だそうだ。

そこに山があるから・・・

2010年05月24日 | Weblog

>エベレストに中学生が最年少の記録をたてたとか・・・・あんまり無理する記録でもないなと思いつつ・・・登山が中高年を呼び立てて数年がたつ・・・。
信州は学校登山が盛んで、そのお陰か御岳から北アルプスの峰峰を登らしてもらった。ひとりでは登る元気はない。自衛隊のへりを要請したこと2回。帰りに登山道崩落で県外に抜けた事一回。いろいろあった。途中から生徒を降ろしたことも2回・・・この仕事は自然と体力のある若手にまわってきた。親に生徒を預け、ふたたび登った。当時は体力があったのだ・・・。

そんな話はどうでもいいが、私の家から10分くらいのところに「播隆(ばんりゅう)」というそばやさんがある。槍ヶ岳の開祖、播隆上人からとったのだろう。
お寺の世界でも長男が跡をとる。ニ男・三男がおれば寺をでて「放浪僧」の道しかなかった。お寺がないと住職にはなれないのだ。お寺がないと安定した生活が保障されないのだ。
お寺を開くことを「開山」という。放浪僧は山をお寺にみたて山に登り山を開き、修行する・・そして徳を修め、ほうぼうで念仏・説法をし自分の位置(生活)をさだめていった。播隆上人もそうではなかったかと言われている。

槍ヶ岳開山を果たしたのは1828年だそうだ。そういう時代の物語・・・・・

フリーマーケット

2010年05月23日 | Weblog

特別に興味があったわけではない。野菜を買いに行ったら隣の広場でやっていた。ぶらぶらと歩いていると古道具を売っている人から声がかかった。
懐かしい知り合いだった。昔、村のメインストリートで親の代から衣装店を経営していた。客の買い物は町場に出てしまうしということで古い道具を集めてそれを商売しているのは知っていたけど、ここで会うとは予期できなかった。
古い道具・・・枡・のこ・菓子のわく・滑車・なべなどであった。
そんなに売れそうもないので・・だいじょぶかなとも思ったけど・・余計なお世話かな。
他の店はほとんど衣料品・食器だった。「秋山巌」の版画も出ていた。「巨人の星」の初版本も出ていた。

目には青葉山郭公・・・

2010年05月22日 | Weblog
緑が濃くなった・・・「目に青葉山郭公初鰹」。季語は「山郭公」と「初鰹」だそうだ。
鰹は松魚と書いている本もあった。江戸っ子は初鰹を珍重していて、質で金を作っても食べたとか。ホトトギスの初音をまちかねる心と意気のいい初鰹で、この時期を思う気持ちが季語二つで表している。・・・というほど俳句を論評する力量はないが。

青葉といえば祖母を思い出す。明治の人だったので「青葉茂れる桜井の里のわたりの夕まぐれ木の下陰に駒とめて世の行く末をつくづくと・・・楠正成・正行の悲劇の別れをよく話してくれた・・・・。

美術館からワークショップの話がきた。あちらにもやってほしいものがあるらしい。こっちもおもしろくないとやる気がしないので、美術館を折り紙建築でやってみたらと試作してみた。すっかり腕が鈍っていた・・・
写真は青葉濃いのは庭のパセリー。冬を越してたくましい。バラとテッセンがからみついて塀で咲いてる。今年はなぜかきれいだ。
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