戦争のころ 2015年05月31日 | Weblog なんだかカッコウの鳴くのが例年と比べ遅いようだ。 確かに夏を呼びそうななき声だ。 私の生まれた頃の出来事を小冊子にするプランだ。 もち、この少年が私だ。 ズボンにつけているのがお守り札だ。当時の写真をみるとぶるさげている。 私の生まれた昭和十八年。後の連合国はこの年には、この戦争の終結のプランを描いいる。もちろん日本無条件降伏だ。 実際の終戦はそれから二年後だ。・・・・・・ あれから日本は戦争のしない国として世界に存在している。また認められている。
善知鳥・・・・・一応終わり 2015年05月30日 | Weblog 一応16ページまでたどりついた。・・・・噴火のニュースが流れている。 日本はこういう列島なのだと・・・・思いながら・・・・自然災害は多い国なのか・・・いや世界では自然が猛威をふるう事象がニュースになる。なんとも言えない。高齢者の多い国だし、乗り越えるにもエネルギーがいる。 ガンバってくれ と言うのが勢一杯。 ようやくできたが、多分眺めているとチョイ直したいとこがでてきて・・・・完成までは長い時間が必要だ。
うとうの絵本 2015年05月27日 | Weblog うとう峠に残る伝説から版画で絵本を作り、よくできたらコンクールをねらう。 「うとう」とは海鳥の名である。漢字では「善知鳥」と書く。この峠は塩尻から辰野にぬける峠である。 どうなるでしょうか。リアルに表現した方がいいのか。それでは絵本を読むこどもには辛いかもしれない。
日本我庭植物園 2015年05月23日 | Weblog この花は庭の隅に咲くオオヤマレンゲの花だ。わりとはやく散る。葉っぱは朴ににてるから、その仲間かもしれない。モクレンにも似てるなあ。 この花は北朝鮮では国花あつかいだそうだ。国花と言う制定はないようだが、前の首席が好きだったとか。そういう話をすると、とたんに「あの国はねええ」と暗い話題になる。 この虫は家の中で動かず、嫌わられている。三色の色紙で作った。 これはツメクサ・・・・俗にクロ―バー。ヨーロッパからの渡来。ガラス容器などの機械を送る時、これが乾燥したものをパッキング用に詰めた。そこでつめくさ。 日本のいたるところにあり。物好きがパッキングから取り出し種をまいたのがはじまりとか。
五月二十日 2015年05月20日 | Weblog この日は私の誕生日である。この年になってうれしいとか思わない。 この版画を個展に展示した。なぜ5月20日か?と聞かれ「誕生日だよ」と答えるばかり。 昭和18年5月20日。 あと2年で終戦・・・しかし先がみえずズルズルと戦禍が増すばかり・・・秋には神宮球場で学徒出陣の壮行式があり雨の中、今まで兵役免除されていた学生が戦場にかり出された。 食料も底をつき・・・・校庭までも畑になったと聞く。私の生まれたのは山の中であったので食料はそんなに苦労しなかったらしいが、戦場に男手をとられ労働力もなくなっていた。
春の生活雑感 2015年05月19日 | Weblog 野山から庭先の花花がきれいだ。これを写し取っておかないと夏が来る。カメラで写すのは簡単だがスケッチと味がちがう。スケッチしなければ・・・・ 卯の花のきれいだ。あの清少納言が「卯の花垣」と呼んだ垣根もチラホラ見える。 浅田真央さんが現役を続けるそうだ。体操もそうだけどやせぽっちの少女がクルクル回ってもしょうがない。女性らしい優雅さを見せてほしい。 オスプレイが落ちたそうだ。上に行ったり横に行ったりする飛行は難しいのかもしれないが。自分のところに落っこちたらたまらない。基地問題からはじまって物騒な予感がすると言う人が多いが、支持率が結構あるのも不思議だ。 展覧会の件で二社から取材を受ける。記事にするのも大変だ。言ってる本人が意味不明なことが多いから。
立版古を立てる 2015年05月18日 | Weblog そういうことで「十五少年漂流記」を立てる。 同じく「お花まつり」を立てる。 たくさんの娯楽がなかった時代、器用な人が図柄をきりぬいて楽しんだのだろう。 立版古は明治時代のもので、歌舞伎絵が多かったようだ。
絵本 2015年05月17日 | Weblog 色鉛筆で柔らかなところをねらった。 絵本のコンクールがねらいだ・・・・・色の調子を見る。ストーリイは後からついてくる。 これが私流の仕上げだ。 委員長になったカラスさんが運動会の準備に奮闘する話。 いつも学校へ一番先に来る少年と用務員さんの話。 今のうちが一番楽しい。・・・だんだん頭を悩ますことが出てくるのだ。
立版古の設計図 2015年05月14日 | Weblog 立版古の設計図を作る。 十五少年漂流記であるが・・・・嵐の緊張感がうすい。 十五人の少年が乗っているが、ひとりは黒人の少年である。何かの相談ごとの決議には黒人は参加できない。 当時の時代の一コマであろう。 続いては「灌仏会」の風景である。 これを切り抜いてどうなるか?
賢治先生の思い出 2015年05月12日 | Weblog 宮沢賢治さんが亡くなって・・・・長い年月がたつ。 教師時代の教え子さんの思い出を綴ったものから、いただいて一色版画にする。 色はこげ茶。 教師の印象として残ることは、怒られたこととかで授業などはさっぱり残っていないのが定番だ。 けど賢治先生は授業もユニークで印象深い先生であったようだ。