それは昔のことでございます。奈良の法隆寺に「玉虫の厨子」がございます。厨子と言うのは仏さまを納める両扉の箱でございます。現在は長い年月が経って黒ずんでいます。この厨子を作ったのは若麿という若者でした。若麿はおとめと将来むすばれるために、いい厨子を作ろうと一生懸命でした。そして玉虫の羽を使うことを思い立ち・・・苦闘の結果、すばらしい厨子ができました。最初はおとめとむすばれるため世に認められることでしたが、その作る工程で神を越え、仏を越えた「美」の境地の達し・・・・・・何処となく姿を消したということです。後に厨子は法隆寺に納められたということです。
玉虫は最近みませんね。小さな頃カブト虫と樹液を吸ってましたけど・・・
耳なし芳一(未完)やになって放ってしまった。むかし話のついで・・・・
わたしの生まれた村の奥に横川という川がある。まさに人のこない清流だった。ただし、現在は砂防提ができたりして、面影はうすれた。ここの水遊びは冷水にはいるごとくだった。当然水底には魚がくっきり見えた。数件人家はあったが地すべりで皆土地を離れた。この川で魚を獲っていた男に、旅の僧が「たくさん獲れたかや」問う。男は「一匹も獲れねえよ」とみすぼらしい姿をした僧に、さげすむようにうそを言った。僧はその態度に一枚の札を川に流した。それからは魚が一匹もとれなくなったと。この僧は弘法大師であったと人はうわさしたという。むかしも今も人も来ぬ山奥まで弘法大師信仰の話が残っている。
わたしの生まれたところであるので、依頼があるとドンドンやらなきゃあ・・・と言う気持ちで法被2作目。小豆色・・・小豆と言えば「あんこ」を連想する。それは昔は貴重品である。
今は信州のどこでも「おやき」の店がある。縄文とかなんとか名前をつけて売り出している。
私の小さき頃食べたおやきの「あん」は「オカラ」と「菜」である。昔は「大豆のあん」など天皇様でもなけりゃ食べられないと言われていた。米のできない土地なので「おやき」は日常食だったのだ。お客が来れば大根葉を油でいためていれた。おやきに似たのに、へっころがあった。粉をねっていろりの灰の中にいれておく。するとふっくら焼きあがる。まわりについた灰を吹きながらたべるのだ。
作曲家滝廉太郎が生まれたのが8月24日である。昔、音楽室の壁に白髪のパーマをかけたバッパなどと一緒に写真(絵)があった。「荒城の月」など歌って、これが滝廉太郎の作ったものだと教えられた。
廉太郎は大分県の竹田で荒城と化した岡城址で少年ころハーモニカをふいていたという。自分の未来への夢を見ていたのだろう。
父は役員で「政治家になるか、軍人になるか、役人になるか。下人、河原こじきのやる芸事なので一生を過ごすなどともってのほかだ。」(表現上問題ある言葉だと思いますが、そのまま使いました)と父は音楽への道を反対したという。
写真のお城は版画家関野準一郎の作品です。風景版画がすごく、よく参考にさせていただきました。このお城は弘前城です。滝廉太郎とは関係ありません。
廉太郎は大分県の竹田で荒城と化した岡城址で少年ころハーモニカをふいていたという。自分の未来への夢を見ていたのだろう。
父は役員で「政治家になるか、軍人になるか、役人になるか。下人、河原こじきのやる芸事なので一生を過ごすなどともってのほかだ。」(表現上問題ある言葉だと思いますが、そのまま使いました)と父は音楽への道を反対したという。
写真のお城は版画家関野準一郎の作品です。風景版画がすごく、よく参考にさせていただきました。このお城は弘前城です。滝廉太郎とは関係ありません。