武田光弘画楽多製作日記

暇をもてあそび造形してます。作品として形としてまとめたものなどを見ていただきたい
と思っています。

もういくつ寝ると・・・・・

2014年12月31日 | Weblog
そんなに寝なくとも正月は来るのです。
30日モチをつく。29日は昔から餅つきはさける。
29はなぜなら9・苦があるので苦モチと言ってきらう。これも臼を使った時代のことです。
今や機械でアッサリあがる。機械が出たころは、ついたモチに比べ・・・・なんとか言っていたが機械も進歩しついたのと同じだ。
昔は臼の下に新わらを敷いたり、茅など敷いた。これをやらないと不幸が来ると言っていた。

こういう生活のキマリをキチンと続け生活することが重要であり、村のまた家の存続の要だったのだ。

それでも私はのどごしで・・・・

2014年12月29日 | Weblog
本日買い物・・・・と言っても荷物もち。

お酒販売コーナーでは若い女性が「キリンビールどうぞ」とか宣伝していた。
チィシュいだだいた。
もち、キリンのデザインだ。こちらも暇なので「このデザインした人知ってる?」と聞くと
「知らない」と言う。
そこで私は「これはね。上田に住んでたヤマモトカナエと言う人のデザインだよ。」
「へーー」とか言われた。そして「頭の毛の中にキリンと書いてあるんですよね」とおっしゃった。
そして彼女は「キリンビールどーぞ」と言われたが・・・・・・わたしは「のどこし」をかいそびれた。
「変なオジサン」と彼女は内心思っているだろう。

粘土こねこね

2014年12月28日 | Weblog


世界の陶器のデザインを盗み取る。こういうものは発想力が弱いのでヒントをいただく。
石塑粘土とニスを購入し、陶板レリーフの構想です。この粘土は乾くと素焼きの陶器のような味わいで、アクリルカラーでニスを塗ると釉薬みたいになり・・・・・いわば偽物ですが・・・焼き物風。

100円ショップをのぞいたら、木くず風の粘土を売っていた。においも樹木のにおいである。ちょいブローチを作ってみた。
彩色すればどうなるか不明。

幸わせシリーズ3

2014年12月27日 | Weblog
先生として送られることを思い出していたら、先生を送ることも思い出した。

ややこしい。

あの頃の三月はまだ雪がいっぱいあった。道路は今みたいにかかないので完全閉鎖。

中三の時の先生は鉄砲好きで散弾銃で冬はウサギを獲っていた。たまに鉄砲を撃たしてもらったが肩にズンとくる感触がたまらない。ここで興味をしめすと休みの日にひっぱりだされてウサギ狩りの手伝いをさせられる。手伝いといっても山の下からウサギを追い上げるのだ、それを山の上の先生がバンと撃つのだ。

先生はスキーも得意だったが、卒業式の前にスキーで骨折したのだ。先生を送るには村中の人が出ておくるのだ。先生はソリに乗せられ恐縮して去って行った。・・・奥さんの方がもっと恐縮してたかな・・・・

この頃は大糸線も開通していてトンネルをくぐらなくとも駅に行けたのだ。左で荷物背負っているのは先生の荷物を駅まで運ぶ人だ。

こんな時代があったのだ。こんな時代に育って幸わせだったかもな。

告別

2014年12月26日 | Weblog
汽車は出発せんと欲し
汽鑊(かま)に石炭は積まれたり
いま遠き信号燈(シグナル)と鉄路の向ふへ
汽車は国境を越え行かんとす・・・・・・
・・・・・・・・・・・・萩原朔太郎


そんな詩を読んでいると思い出した。あの機関車の煙はき走る様を。卒業式が終わると先生との別れがあった。木曽路にはまだD51が走っていた。生徒が送るという儀式だと言うので、私は転任の先輩と一緒に駅頭でお別れのあいさつをし汽車に乗った。線路沿いには生徒が並んで手を振って送ってくれた。
私たちは次の駅で降り、用意された車でコッソリ学校にもどり片づけをした。

下宿のオバサンから、次の人が来たと連絡がありアワテテ生徒に逢わないよう下宿に帰り荷物をまとめた。

独身だったので大きな荷物はフトンくらいで、あっさりしたものだ。その日、オバサンが頼んでくれた隣りのオジサンの軽トラで次の学校の住宅に送り込まれた。

こんな時代に生まれたわたしはきっと幸福なのでしょう。

トンネルの思い出

2014年12月25日 | Weblog

長い長いトンネルをぬけるとそこは雪国であった。
てな文学的に感傷にひたってはいられない。そこに住む人達は・・・・・
でもトンネルの暗闇を歩くと向うに出口ががふっと見える気持ちは何とも言えない。
これが歩きだと・・・えらく近くて遠いのだ。

六年生の卒業式も分教場だから本校へ行った。トンネルは大小4つくらいだ。鉄道がないには不便だけど、そういうものだと思っていた。卒業式はたしか「めんじょ式」とか呼んでいた。一日かかりで本校にでかけ卒業証書をもらうのだ。しかも代表がもらうから別に感激とかそういうものはない。本校の体育館はでかいなくらいだ。
トンネルの中は歩きずらい。天井から水が流れるように落ちる場所があったり、それを流す側溝があったり。そこにはまったりした。そのせいか帰ったら発熱してしまった。寝てると夜になって先生がきて、おふくろに謝っていた。
トンネルで身体ぬらしてしまい風邪を引かせ申し訳ないと・・・・母は困惑していた。
先生は大いに酒くさかった。転任で送別会があったのだろう。わたしは布団をかぶって帰るのをまっていたが、わたしの布団の側にきて「悪かった悪かった」と泣きだすのだ。そう言われても、別にトンネルしか通る道がないからしかたないけどな・・・・
あとで聞いたけど先生は泣き上戸で、お酒が入ると泣き出すくせがあったそうだ。
しばらく泣いたあと静かになったと思ったらグーグーと寝入ったのだ。母は布団をかぶせて行ってしまい一晩この状態が続いたのだ。どうしょうと考えるうちね寝入ってしまった。あさ起きると先生はいなかった。
その日は村中で先生を送り出す日だ。子どもたちはトンネルの見えるところまで送るのが習わしだ。
わたしは熱がひかず寝て泣き上戸の先生を思い出していた。

それからズ―――と先生にはあっていない。

こんな時代に生きたわたしは幸福かもしれない。

十二年ぶりの羊

2014年12月24日 | Weblog
来年は羊年で、年男だと・・・・世の中はうるさい。
この前の羊年には荒川静香さん金メダルとった。その前の前の前の昭和四十五年年には「よど号のハイジャック」があった。その前の昭和三十六年にはガガーリンの有人飛行があり、東洋の魔女があばれた。
そして私の生まれた昭和十八年、ガダルガナル撤退、イタリア無条件降伏・・・時の首相は東條秀樹・・・・・・・・

だれが当たるのかくじの販売も終わった。今年は気分が盛り上がらず買わない。

同時進行で三つくらいの作品を作っているので、この師走だから一気に全部しあげようと表紙紙を刷った。
これが乾いたら切り刻んで表紙になります。残りの紙は羊に食べさせます。

今日は冬至

2014年12月23日 | Weblog
あの頃チャンネル(2007年08月12日~2007年08月18日)


季節の変わり目だ。
店屋さんはクリスマスで真っ赤化。
日本の地震動予測地図では信州真っ赤化。

そもそもクリスマスは太陽復活のお祝いが起源だそうだ。どちらでもいいが太陽がサンサンと
降り注いでほしいものだ。暑いと寒い冬が恋しいが・・・・・・

安寿と厨子王を考える

2014年12月21日 | Weblog

♪赤い靴はいいてた・・・・・と言う歌があった。
外国人に連れられ異国に行く・・・・どういうイメージなのかわからない。戦争で孤児になったこどもを外国の人が
親がわりになったのだろうか。

アメリカに渡った日本人形の話もあるから、それかも知れん。

あの「安寿と厨子王」の物語もある。「ひとさらい」と言う職業があり、子どもをさらって売りつける。昔、暗くなるまで遊んでいると「ひとさらい」が来るぞと言って脅かされた。今はそういう言葉は使われないが、あの北の国でも、アフリカ、中東など、そのような行為が現実に行われている。非道なことだ。

「安寿と厨子王」もそういう時代を題材にしてるから、昔の日本にもあったのだ。・・・・厨子王は後に役人となり、この奴隷制度を撤廃し、この制度で腹ふくらませていた人種は没落した。だが、これが安い賃金を与えれば奴隷という身分がなくなり労働者となる。この制度でピンハネをやり、正々堂々私腹を肥やしたから没落はしてないとも言う。。