少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

物理現象と心について

2011-10-01 22:49:19 | 哲学
非常時には、できるだけ落ち着いて行動することが大切という。慌ててしまっては適切な対応ができないからということだろう。至極ごもっとも。

いい写真を撮るためにはいい写真を沢山見ることが大切ともいう。それもそうには違いない。

良い仕事をするには永年の経験がモノを言う。ただの知識だけでは良い仕事はできない。

営業で成績を残すにはお客様の心をつかまないとだめという。これもよく聞く話だ。

これらの話に何か共通した部分がないだろうか。みんな誰でも知っているようなことではあるが、それ以上に何か共通点はないだろうか。私は、この世に実現する事柄というのは、実は心の中にそのイメージができないとダメということがこれらの話に共通している気がしてならない。つまり、心の中の落ち着きを失うと、自分の周りの出来事も落ち着きがなくなってしまう。そこには最初に書いたような因果律に基づく原因と結果という関係はない。とにかく心に起こった事柄が実現してしまうということと考えることはできないか。何、オカルトみたいなことを行っているのかと思うかもしれないが、この原理はほかの事象もとてもよく説明できる。いい写真をとるためには、そのイメージが心の中になければいけないし、良い仕事も心の中に出来上がりのイメージができないと良い結果にはならない。営業でもお客様の心を自分の心の中にしっかりつかまない限り成功はおぼつかない。つまり、これらの事柄は、原因と結果ではなくイコールで結ばれる関係にあるということだ。

私たちが住む世界というのは、普通は物理が支配する世界だと考えている。モノとモノが組み合わさって様々なものが出来上がる。もし、心の有り様がモノの有り様に関係しないとしたらどうだろう。人がどう思おうが、お客さんがなんと考えようが、正しいことは正しいことであり、売れる製品は勝手に売れるはずだ。

でも、どう考えてもこの世界を支配している根本原理は物理法則だけではないらしい。人の心という厄介な代物が世の中の神羅万象に影響を少なからず与えている。物理現象を縦糸にすれば、心というのは物事の横糸と言えるだろう。両者は完全に独立ではない。互いが紐でつながっているようにお互いに影響を与え合っている。

攻撃的共生について

2011-06-06 23:22:30 | 哲学
なんだか物騒な題名に驚かれたかもしれない。私自身、バイオテクノロジーのある本1を読むまでこの言葉を全く知らなかった。でも、「攻撃的共生」というのは知らなくても、「共生」という言葉なら聞いたことがあるだろう。よく知られている自然界の共生は、イソギンチャクと魚のクマノミだ。共生とは2種類の生物が、お互いに助け合って生きている状況を指す。ただ、ここに挙げた例を含めて両方が平等に共生の関係から利益を享受しているとは限らないらしいが、そのことにはここでは深く立ち入らない。

さて、それでは攻撃的共生とは何だろうか。その本によれば、例えばAIDSのようなウイルスと人間の関係が、それにあたるらしい。普通に考えればAIDSウイルスなどというものは、人間に感染して致死的なダメージを一方的に与える悪い奴と誰も思うだろう。それなのになぜこれが共生と言えるような関係なのか不思議に思うのも当然だ。

確かに、そうしたウイルスは人に感染すると猛烈なダメージを与え、多数の死をもたらす。これを感染淘汰と呼ぶ。しかし、多数の人にウイルスが感染してくうちに、AIDSに感染しても死なない人が出てくるかもしれない。そのAIDS耐性をもった人は、耐性を持たない人に比べて生存する可能性が高まり、結果的にその新しい種が繁栄して進化が進むことになる。そうしたプロセスの途中でウイルスは人のDNAの中に取り込まれて宿主である人間と共生関係を築くことがある。これを攻撃的共生というのだという。ウイルスがどんな利益を人に与えるかというと、同じDNAを持たない生物に感染して、徹底的に競争相手を殺してしまうことによって宿主に貢献するという訳だ。この共生の攻撃的な部分はここからきているらしい。

人間のDNAの配列が解析されて、その中身をよく調べてみると、明らかにウイルスのものと思われる配列がいくつも見つかっているのだそうだ。つまり、人類の進化の中で、一度や二度どころか何度も攻撃的共生関係が起こったのらしいのである。残念ながらAIDSと人間の関係は、まだ攻撃的共生というレベルではなく、上に述べた感染淘汰の段階にあるようだ。

いわゆるダーウィンの進化論では、突然変異によって生まれた新しい種が自然選択によって繁栄していくことによって進化していくということになっている。しかし、ここで説明した攻撃的共生は、人間とウイルスの関係性そのものが、自然選択を受けて繁栄し、新たな種を生み出していくというものだ。もちろん、攻撃的共生においても突然変異は重要な役割を果たしているわけで、両者は完全に独立なメカニズムではないが、古典的なダーウィニズムにはなかった考え方であることは間違いないだろう。

ビジネスにおいても、生み出された新製品や新サービスが、市場という環境の中で消費者の嗜好という淘汰圧力を受けるという話はよく聞く。でも会社と会社、会社と消費者、製品と製品などの関係を工夫することによって、それが社会の中で進化を遂げていくこともあるのではないかと思う。製品そのものの価値を社会の縦糸とすれば、お互いの様々な関係は横糸と言えるのかもしれない。その両方をきちんと紡がないことには強い布は織れないのだろう。

1フランク・ライアン:破壊する創造者―ウイルスがヒトを進化させた、早川書房

ガウス的なものとマンデルブロ的なもの

2011-04-02 23:50:27 | 哲学
ランダムな現象は、ランダムであるがゆえに次に何が起こるかというのは分からない。でも、データをしばらく観察しているとその振る舞いは数学的には記述できるようになることもある。

良く知られているのが正規(ガウス)分布というやつで、平均値の周りにデータが釣鐘状の分布をするというものだ。普通のランダム過程はみんなあの分布に従うと私は思っていた。
この分布は、比較的平均値に近い値を取る確率が高く、平均値から離れるにしたがって急速に小さくなる。平均値から遠く離れた数値が実際に観察されることはまずないと考えてもよい。

ところがそういう分布をとらないランダム過程もあるのだという。それがフラクタル理論などで有名なマンデルブロにちなんでつけられたマンデルブロ過程だ。これは平均値から数値が離れてもその発生確率があまり下がらない。とんでもなく大きな値も、確率は低いとは言え発生する可能性を否定できない。

マンデルブロ過程は、得られるデータが過去のデータに依存しているような場合に起こるという。たとえばお金持ちは、お金持ちであるがゆえにさらにお金持ちになる場合とか、有名な作家の書いた本はさらに良く売れるとか、そういう場合があたるらしい。これに対してコイルを投げて表が続けて出る確率とか、人の身長の分布などというのはガウス分布に従う。確かに身長が5mもある人など起きる可能性はとてつもなく低く、まあ考えなくても問題にならない。

この二つのランダム過程における稀に起こる事柄の性質は全く違うにも関わらず、少ないデータを分析しただけは、その違いが分からないことがあるのだそうだ。実は対象にしているプロセスがマンデルブロ過程であるにも関わらず、ガウス過程として分析を行ってしまうことが良くあるらしい。たとえば、確率を低く見積もったものすごい被害が実現してしまったりする。株式市場で株価が暴落したりすることも、同じように考えられるらしい。多分、巨大地震の発生確率というのもマンデルブロ的なプロセスではないかと思う。だって、地震の発生確率は、その前に発生した地震の影響を受ける。

目の前で考えているプロセスの統計的な性質が分かったからと言って、未来を厳密に予測することはできない。でも、一見、起こりそうもない事柄であっても、それがマンデルプロ過程であれば、それが起こっても被害を受けないように準備をしておくことは可能だ。

逆に大当たりがでるプロセスがマンデルブロ過程であるなら、大当たりが出る可能性は必ずしも低くないことになる。そういうところでは小さな損をし続けていても、どこかでジャックポットを引く可能性が少なからずある。

過去のデータが現在のデータの発生確率に影響を与えるようなプロセスを設計することはできる。それは人の心に関係したプロセスにすればよいはずだ。以前の結果によって人の行動は大きく影響を受けるから。

参考:ナシーム・ニコラス・タレブ、”ブラックスワン”ダイアモンド社

たゆたえども沈まず

2011-03-16 14:38:11 | 哲学
もともとはパリ市の紋章に書かれているラテン語の標語らしい。私たちは、会社でも学校でも何かはっきりとした目標に向かって進む。まずはゴールを決めてそこへの道筋を検討する。今年の売り上げはいくらとか、テストの成績を何点とか、そんな具合だ。なぜ、そんなことをするのかと、まじめに考えたこともなかったけれど、要するに我々人間の脳みそは、実際に目に見えるものや説明できるものが必要なのである。実際に「これ」と言えないような抽象的な概念というのは、サクッと理解できないから困ってしまうのだ。

でも、どう考えても世の中の物事というのは、そうかっちりとは出来ていない。ある戦略をとって成功するかあるいは失敗するかは、90%くらいは成功し10%くらいは失敗する。まあ、そんな感じだ。ものごとに100%はないのだから。でも、理屈では物事は割り切れないと分かっていても、我々の現実の選択肢は、その戦略を採用するか採用しないかのどちらかしかないのだから、確率で物事を定義するようなことに意味があるとは考えにくいだろう。

でも、何かをするときにちょっとだけ不確定要素というか遊びの部分を残しておくことはできるようにも思える。目標の値に幅を持たせるとか、自分の態度を明確にしないでおくことが交渉を進める上で有利に働くこともあるだろう。全ての事柄のぶれ(遊び)がないシステムというのは、ほんのわずかな事柄が引き金になってとんでもない結果をもたらすこともありうるのだ。

このように考えると、「きちんとした情報」というものには十分注意をした方がいいということが言えるのではないだろうか。むしろ、「だいたいの情報」なら多少は信じてもいいかもしれない。もちろん全く情報がないのもいただけないが。そういえば昔の天気予報では、明日の天気は雨か晴れしかなかった。でも今は降水確率40%というようになった。確かに情報の質は上がったのだろうけれど、じゃあ明日傘を40%持って行くというわけにはいかない。ここが悩ましくはあるのだけれど、

「もしかしたら雨が降るかもしれないから小さな傘を持って行こう。」

ぐらいの対応はできるというものだ。そういう感覚が重要なのだと思う。

「たゆたえども沈まず」

ふらふら揺れてはいるけれども沈まない船のような、そんなありようが実は物事を進めるための要諦なのかもしれない。

ナシーム・ニコラス・タレブ、”まぐれ、”ダイアモンド社

偶然について

2011-02-12 19:34:52 | 哲学
世の中は不景気がずっと続いているが、中には絶好調の会社もある。インターネットビジネスの会社もあれば衣料品の会社もある。そういう会社のトップというのは、やっぱり時代を読む目が鋭いのだろうと思う。何年も続いて高い利益を出し続けることは、そう簡単なことではない。日本中の会社の中で利益をたくさん出す会社など、ほんの数パーセント(たぶんもっと少ない)だろうから、それを何年も続けているとなると、毎年の確率を掛け算して行けば、その確率は天文学的に小さな数字になるに違いない。すぐに何万分の一、いや何億分の一になるだろう。ほぼ可能性はゼロということだ。だからすごい会社はすごいのである。

しかし、この確率には別の見方があるらしい。つまり、高い利益を出しているまさにその会社が、高い利益を継続して出す確率は確かに低いかもしれない。でも、日本全国にある会社のどれかが、高い収益を連続して上げる確率となると話は違ってくる。なにぶん日本中にはたくさんの会社があるから、たとえ高収益を連続して出す確率が低くても、全体では、100%に近い確率になるというのだ。つまり大当たり連発の高業績の会社も、見方によっては当然の結果ということになる。

このことが何を意味するかというと、いかに達成困難に見える偉業といえども、大きな集団の中で見るとそれはランダムなプロセスの一部であるということになるらしい。めったに起こらないサクセスストーリーも、ランダムなプロセスの結果として“ほんのタマ”に起こっているのである。我々は、日々成功を目指して頑張っている。でも、そうした活動も、実は単なるランダムなプロセスの一部でしかないということだ。

では、そういう成功が偶然の産物であるとしたら、毎日あくせく働くことは無意味なことかというと、あながちそうでもない。なぜなら、じっと耐えて毎日繰り返しがんばって働いていれば、今は成果が出なくてもそのうち陽の目をみることもあるということを意味するからだ。成功も失敗もランダムなプロセスなのだから。

「待てば海路の日和あり。」

仕事を進めていると、いろんな予期せぬことが起こる。それはまさにランダムと言ってもいいくらいだろう。そういう偶然に支配された世界の中で私たちが出来ることというのは、まったくもってちっぽけなことなのかもしれない。でも、その偶然の連鎖の中でもあきらめずに頑張り続けることが大切なのだろう。もしかしたら偶然の神様が明日微笑んでくれるかもしれないのだから。


Yes-No

2011-01-02 18:36:23 | 哲学
昔、オフコースのヒット曲にYes-Noという歌があった。今ではもう懐メロといってもいいかも知れない。恋愛に限ったことではなく、世の中の物事に直面して、人は単純に言えばYesかNoかのどちらかの判断を下す。新聞やテレビだけではなく、会社の中にいても最近の世の中は、どちらかといえば(いやほとんど全部かもしれない)Noという判断を下すことが多いように思う。民主党もNo、海上保安庁もNo、アメリカもNo、中国もNo、会社の上司もNo、みんなNoだらけだ。そりゃ、みんなだらしないからNoと言われても仕方がないのかもしれない。

ところで人の意識というのは、普通それぞれ個人が自由な「意識」を持っている、と思っている。でも、心理学の研究成果からは、どうもそうではないらしいことが明らかないなっている。脳の中に並行して走っているたくさんのプロセスが協調したり、競争したりした結果、まあ、こんなところかなというとこころで意識が「作られている」らしい。たとえば恐怖を体験した時に、時間の経過がゆっくりに感じられることや、パニックに陥った時に反射的ともいえるような行動をしてしまうことなどを見ると、確かに意識というのは自分でコントロールしているというよりも、どこかで作られているような気がしないでもない。

脳の中でNoという判断には、論理的な思考をつかさどる前頭前皮質が関与しており、これに対してYesという判断には、扁桃核という脳の中心に近い原始的な部分が関与している。身の回りのことに何でもNoと言っている人の脳の中では、前頭前皮質がフル回転しているはずだ。歴史の中で繰り返し現状に異を唱え、少しでも良い方向に導いていこうとしていく姿勢によってこの社会が築かれたことを考えると、前頭前皮質というのは人間の文明そのものといってもいいかもしれない。文明とはNoと一体なのだ。これに対してYesというのは、本能的な部分と密接に結びついている。それは生きるための素早い判断を下す扁桃核で実行されるプログラムであり、反射的な行動で動物的と言える行動だ。

Noという判断こそが、この社会を築いている。

「おれはいやだから、こっちへ行く!」

そうやってあっちへ行く人とこっちへ行く人が出来た。みんなが同じ方向へいったら羊の群れになってしまう。良く考えて自らの判断を下す。それが社会というものだ。

でも、世の中これだけよく分からなくなってくると、新しいけどスピードの遅い前頭前皮質だけでは、上手くいかなくなってしまうかもしれない。こんな時は、扁桃核のような、紋切り型だけど猛烈なスピードの並列コンピュータの力も借りた方が良さそうだ。その脳みその部分のスイッチを入れるキーワードがYesらしい。そして、人の意識の中で、それらの並列プロセスは、他の人としてイメージされるんだと思う。他の人を許すことは、自らの並列プロセスを走らせると等価なことなのだ。人の意識というのは、そういう風に作られているに違いない。

Yes-Yes-Yes。これもオフコースの歌だったかな?

表現について

2010-09-15 22:43:40 | 哲学
表現はその形がなんであれ、実現されることによってその完全性を失う。その表現が直接的であればあるほど著しく完全性が損なわれる。

なぜか?それは表現が他の心との相互作用を生むからに他ならない。他の人に直接的に働きかけることによって、位相の反転した表現が打ち返されてくるのだ。

表現の完全性をできるだけ損なわないようにするにはどうすればよいか。それは表現の抽象化によって達成される。つまり抽象的な表現は、それが抽象的あるがゆえにメッセージが直接的は表現されない。カモフラージュの下に隠れたメッセージは、表面的なアピアランスによって、その完全性を保ち続けることができる。

そう考えると、抽象的な写真や絵、詩などに解説などを加えてはいけないのかもしれない。抽象的な対象はあくまでも抽象的にとらえることによってのみ、その作品の本当のメッセージを受け止めることができるのだ。解説を読んだ瞬間にその作品のメッセージを弱めてしまうことになるのだから。

共振回路

2010-08-05 22:27:26 | 哲学
無線通信で使うアンテナというのは、コイルとコンデンサの組み合わせによる共振回路である。送信したい電波の周波数に共振するようにアンテナの長さや形を工夫すると、大きな電流がアンテナに流れて電波が遠くに飛んでいく。低い周波数の電波(たとえば中波のラジオ放送)で共振するためには何十メートルもある大きなアンテナが必要だし、携帯電話で使われるギガヘルツのアンテナは何センチもないような小さなアンテナになる。共振という現象はもちろんアンテナだけに限った話ではない。楽器の弦が振動して大きな音をだすのも共振現象だし、物理の実験でよくやる同じ長さの振り子をぶら下げておくと片方の振動が他に移っていく現象だって共振の一例だ。

電気回路の共振現象における振動というのはコンデンサとコイルという二つの素子の間でエネルギーのキャッチボールが行われることによる。キャッチボールする二つの素子の容量が大きくなるとキャッチボールするための時間が余計にかかるので、振動の周期は長くなる。逆に小さな容量の素子が付いているとチョコマカとキャッチボールを繰り返すので振動の周期は短くなる。なんとなくイメージがわくだろうか。

それでは次に共振の激しさを考えてみよう。同じ感覚でキャッチボールをしていても、ものすごい強さのボールを投げ合うこともあれば、それとも超スローボールを投げ合うこともあるだろう。この共振の激しさは、共振回路の中の抵抗の大きさによって決まる。つまり毎回キャッチボールをするたびに失われるエネルギーが大きいと振動は激しくならずに収まってしまうが、たとえば宇宙空間でキャッチボールをしたような場合は、いつまでたっても振動は止まらないしその振幅もすごく大きくなる。全く抵抗がないような場合には、共振による振動が大きくなりすぎて建物が壊れたりすることだってある。何事もほどほどが良いということかもしれない。

なんで、こんな物理の授業みたいなことをしつこく書いているかというと、世の中の動きというのもこの共振現象としてモデル化出来るのではないかと思ったのである。たとえば最近の日本の首相の交代周期は大体1年くらいになっている。それぞれの首相の退陣した理由はいろいろあるだろうが、そのことよりも極めて“リズミカル”に首相が交代していることに注目してみたいと思う。まさに日本の政治は共振状態にあると言ってもいいのではないだろうか。そしてそれは全く収まっていく気配も見せていない。こういう世の中の共振現象における抵抗は、情報の伝達のしにくさと考えてみてはどうだろうか。つまり、新聞やテレビのようなメディアしかなかった時代に比べて、インターネットの登場は人と人との情報伝達を格段に容易にした。このことが、共振回路の激しさを猛烈なものにしているような気がするのだ。そして共振回路におけるコイルとコンデンサのような存在は、社会の中のあちこちに存在する。モノの考え方は極論すれば人の数だけ存在する。でも以前ならそれらの考えは互いに影響を及ぼすことがなかった(両者の間の抵抗が大きすぎて共振現象が起きなかった)のに、インターネットを始めとする情報伝達の進歩が両者の衝突という不毛なキャッチボールを可能にしてしまったとは言えないだろうか。

こんな風に考えてみると、今の時代の波に乗る方法だってなんとなく見えてくるような気がする。要するに放送局を受信するときと同じようにダイヤルを回して社会の共振現象に同調すればいいのである。でも、それはジェットコースターのような共振現象の渦の中にとりこまれてしまうことでもある。それを成功というかどうかはわからない。


マニアック過ぎて会社のコラムにはならんな、これは。

扇風機の修理について

2010-06-18 22:57:47 | 哲学
私はもともと電気技術者である。最近は仕事ではあまり触らなくなったが、テスターやオシロスコープなどという計測器を使って、調子の悪い機器の診断を行ったものである。もちろん、あちらこちらをやたらに計測しても、なかなか故障の原因は見えてこない。いくつかの故障の仮説を立てて、その仮説を検証しながら怪しいところを絞り込んでいく。そこには、シャーロックホームズが事件を暴いていくようなスリルがあるといっても言いかもしれない。だいぶ前のことだけど、熟練の技術者は電気が流れている線と、切れて電気の流れていない線を見ただけでわかるというのを聞いたことがある。物理的にはそんなことはできるわけがないのだが、本当の技術者と呼ばれる人は、もしかしたらそんな奇跡を起こすことができるのかもしれないなんて思う。残念ながら私は今のところそのレベルには到達していない。

さて、電子回路の修理においては、ひとつの大きな仮定がある。それは回路のチェックに使う計測器はちゃんと正常に動作しているということだ。そんなの当たり前と思うだろう。でも、計測器だってただの電子回路にすぎないのだから当然壊れることもあるはずだ。まったく電源が入らなくなってくれれば、計測器を修理すれば良いので話は簡単だが、ちょっと見は普通に動いているような壊れ方をされると始末が悪い。例えば正常な扇風機を検査してみると、なんだかおかしな指示が表示されたとする。技術者は、テスターが壊れていることを知らないので、てっきり扇風機が壊れたと思うに違いない。

「こんな電圧が出ているということは、この部品を替えれば良いだろう。」

ということで部品を替えてみる。そしてまた別のところを計ってみると、また妙な表示がでてくる。こんなことをやっていてもテスターの方が壊れているのだから、決して扇風機は直らない。結局どんどん深みにはまっていってしまうだろう。

ここで勘の良い技術者なら、どこを計ってもいつもより数値が少し大きめに出るとかそういう些細なことに気がつくかも知れない。そして、もしかしたら扇風機ではなくてテスターそのものが壊れているのではないかと疑いをかけることができれば、たいしたものである。そういう仮説の元で、もう一回いろんなところを検査して本当にテスターが壊れたかどうかを見極め、壊れているとすれば別のテスターを持ってきてきちんとした修理を行うことができるだろう。

最近世の中でおかしなことばかりが起こる気がする。地球温暖化や悲惨な戦争、油田の爆発に暴走する独裁国家。もちろん、そうした事柄を引き起こした論理的な原因というのは存在する、と我々は思っている。しかし、そうした事柄が我々人間によって観察されているということに、もう少し注意を払った方がよいような気がする。私たちは目から入った情報をそのまま脳の中に送って、そのありのままを見ていると思っている。でも、我々の認知プロセスが、外からの情報をそのままストレートに認識しているという保証はどこにもない。多くの人が、同じようなマスメディアから情報を受けて、同じような“故障”している可能性だってあるのである。そういう“故障”は、自分がまともだと思っている間は決して見えてこないことに注意しよう。それは壊れたテスターを使って扇風機を直そうとしているのと同じだ。電気器具の修理と同じように、自らの思考に意識を向けたとき、初めて世界は見えてくるような気がする。故障した意識でいくら世の中を直そうとしても、扇風機の修理同様決して良い方向には向かわないだろう。




許すこと(続編)

2010-01-14 21:04:49 | 哲学
許すこと、それを徹底的にやった人はとてつもなく強い。
その人はまわりの人の心を瞬時につかんでしまい、彼らを思いどうりに動かすことができるようになる。
人を動かすためには人を許すことが一番だ。つよい言葉や飛び道具で人は動きはしない。
許されることによって人は心を開き、その人につき従うのだと思う。別に指示を出す必要もない。ただ思うだけで人を動かすことができるようになる。魔法のように。

でも、そんな存在ってちょっと怖いと思う。すべてを許すことのできる人というのは実はとんでもなく恐ろしい人なのかもしれない。そんな気がしてきた。すべてを許す人、その実態は自分のエゴで周りのすべての他人を操る極悪人ともいえるのだ。

そう思ってもなぜ自分は許そうとするのだろう。