少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

許すこと

2010-01-05 10:25:07 | 哲学
相変わらず世の中は不景気が続いている。地球温暖化の話も国際的な枠組みは一向に決まらず、一体どうなるんだろうと思うばかりだ。なんか、毎年こういうことを年初に書いているような気がする。明るいことを書いたのは一体いつのことだったのだろうか。

さて、こういう話になると必ず悪いモノ探しが始まる。民主党の政策が悪いとか、中国の経済成長が悪いとか、いつになっても贅沢をやめないアメリカが悪いとか。まあ、悪いやつを探すのに苦労はしない。あっちもこっちも悪いやつばかりだ。

こういう話は、不況や地球温暖化に限った話ではない。会社の中でも同じである。

「あいつがしくじったからこのプロジェクトはうまくいかなくなった。」

とか、

「あの時、あいつがああいう発言をしなかったら仕事はうまくいったのに。」

などという会話をあちこちで聞く。話を聞けば確かにそのとおりと思うことも多い。でも他人がそういう風に他を悪く言ったのを見ると私はいつも思う。果たしてそれって本当にそれが理由だったのかと。周りの人やモノを悪いことにして、目標が達成できなかったことにするのはたやすい。自分が悪いのではなく、他が悪いのだから反省する必要はない。そりゃそうだ。

でもね、よく考えてみると、物事を成し遂げようとしたときに周りにある失敗の原因を認めることによって、それは失敗に終わっていることに気がつきはしまいか。逆に言えば周りにある失敗を認めなければ、人はいくらでも成功に近づくことができるのではないだろうか。

今年の抱負。今年は「許す」ことに徹したいと思う。周りにあるすべてのことを許す。それは、簡単そうに見えるけれど、たぶんそれほど簡単ではない。どう見ても相手が悪いという状況にも出くわすだろう。それでも相手を許す。そうすることによって未来がちょっとずつ見えてくるような気がする。

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と、書いたところで年を越してしまった。正月お屠蘇を飲みながら、もうちょっと「許す」ことを考えてみた。そこで考えたことをもうちょっと継ぎ足しておこうと思う。
それは「許す」ことを突き詰めようとすると、実はすぐにその思いが矛盾をはらんでいるということに気がついたのだ。つまり、他者の行為が「許す」ことの反対であるときに、どうすればいいかわからなくなってしまうのだ。例えば、もっともスケールの大きい「許さない行為」は戦争かもしれない。世界中でいつまでたってもなくならない戦争をどう考えるか。その行為自体は「許す」というポリシーとは相容れないが、私は戦争さえも許さなくてはならない。あー、あんだかわけがわからなくなってきた。でも、そういえばノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領も、正当な戦争もあるといってたっけ。

事実の数について

2009-05-17 10:38:11 | 哲学
もともとは(いや一応今でも)技術屋なので、基本的にはサイエンスという方法論で身の回りのいろんなことを考えている。モノが下に向かって落ちるのはニュートンの万有引力があるからだし、モノが見えるのは光が網膜に当たって化学反応をおこすからだ。そういういろんな事実を学校で一生懸命勉強して、それを元にして社会でのいろんな事柄を説明しようと日々考えているわけだ。

技術屋にとっては、事実というのは一つしかない。周りで誰が何を考えようと、二つの分子が引き合うことは客観的に説明される理論に基づく現象であって、それ以上のことはない。もしかすると新しい理論が、これまでの理論を上回る精度で登場するかもしれないが、それは科学技術の進歩ということで、事実がひとつであることとは関係がない。認識というのは事実(真実)に向かう果てのない営みであるというのが、サイエンスという枠組みであると言えるかもしれない。

こういうことは、世の中のすべての人が理解していることだとずっと思っていた。が、実はもうひとつ別の大きな流派があることに気がついた。(たぶんこちらの流派の方が多数派だろう)というのもここ数年、どちらかというと営業っぽい仕事が多くなった。営業という仕事は、とにかく話をまとめることが大切である。引き合いを受注に結びつけ、利益をきちんと出し、クレームにならないように段取りをする。たとえば納める部品が、最初に言っていたものと違うものが来てしまったとしよう。もちろん、返品ができて納期も間に合うのであれば、それで問題はない。しかし、これから返品したのでは納期が守れなかったらどうするか。ここで営業というのは、ありとあらゆる方法を考えて解決策を考えることになる。とにかく、厭でも考えないと話がおさまらないのだから仕方がない。お客様に謝って了解を得るというのも一つの手かもしれない。ただ、これは最後の手段。仕様書をよく読んで、別の部品でも一応スペックに入っていると読み込めないか詭弁を弄する。そういう技術屋からみると「いい加減」な仕事をせざるを得ない立場に居て思うようになったことは、事実というのは一つではないんだなあということである。

逆にいえば、技術屋が考える通りに話が進んでいる時には、営業なんて大した仕事をしなくてもいいのである。会議の時にコーヒーでもたのんで、あとはよくわからない技術の話に相槌でも打っていれば話は終わる。亀有派出所の両津よろしく、プラモデルでも作っていればいい。だいたい、よく分かりもしない技術の難しい理論に口をはさむのは越権行為というものだ。だが、一度トラブルやコンフリクトが発生すれば、営業の出番である。今までのシナリオをどう変更してゴールに向かって進むかを先頭になって考えるのである。まあ、仕事というのは、思った通りに運ばないものであるとすれば、営業が暇なまま仕事が終わることはないのではある。たくさんの事実の中から、もっとも使えそうな一つを拾い上げるのが営業の仕事なのだ。事実は決して一つではない。

いや、それは認識論であって事実ではないと技術屋はなお言うかもしれない。では一体事実とは何だろう。サイエンスだって、それは事実を理解するための一つの方法論であって、サイエンスそれ自身が事実ではない。科学者は、自らの理論が完璧なものではなく、いつかは新しい理論によって乗り越えられるものであることを認めている。つまり、極論すれば万有引力の法則も営業が考える仕様の斜め読みも同じ土俵の上にあるのである。そんなことを言ったらニュートンは怒るかなあ。

春の日差し

2009-03-31 22:30:48 | 哲学
昼休みに春の日差しを浴びようと蒲田の街を歩いてみた。ちょっと空気は寒いけど、背中に当たる太陽の光が心地よい。路地を歩いていると、目の前には交通標識や道路が見える。ちらほら人も歩いている。おっと郵便局の車も走ってきた。そうしたありきたりの景色の中に私はいた。それら私の見える世界のすべては複雑に絡み合って存在している。木は根っこによって地面に立っている。車だってアスファルトに力を預けて前に進んでいる。その車の持っている慣性は、次の瞬間に車がどっちへ行くかを決めている。すべての事柄は、そうした必然によって結びついた因果のネットワークの中にある。がんじがらめのネットワークの中心に自分がいる。見えない無限の糸が春の光の中にちらっと見えたような気がした。今という瞬間を変えることは不可能なようにも思える。そして、そうした周りの巨大な力の中にギアとしての自分がいる。次に何をしようと考えるかも含めて、それは自由意志などではない。世界との相互作用の中で必然的に決まることに過ぎない。それは悲しいことなのか?そうではないか?
うーん、それはよくわからないけど、次に何が起こるかを予想して、起こったことをかみしめ見る。それは楽しいことに違いない。自分の人生を観察する喜び。それが、どんな結末であっても。写真を撮ってみて、どんな写真が撮れたかを楽しみを持って見てみること。ふーん、こういうことでしたか。今日も発見があるんだね。

常識について

2008-11-13 09:46:35 | 哲学
常識に従って行動することは大事なことだ。あまりとっぴなことをやっても、周りの賛同が得られなければ先に進むことはできない。もちろん、全く常識的なことばかりやっていても進歩というものがない。このあたりが新規事業を考える上でも微妙なところではある。

さて、こういう話はこのコラムでも何度も議論してきたように思う。今回は、この問題を「常識」そのものの定義という角度から考えてみたいいと思う。いったい常識とは何だろうか。常識というのはみんなが認める認識であって、それ以上でも以下でもないと思うかも知れない。でも、もうちょっと常識について掘り下げて考えてみたいと思うのだ。

最近「健全な肉体に狂気は宿る」(内田、春日著、角川書店)という新書を読んだ。ちょっと変わった大学の先生とこちらもちょっと変わった精神科のお医者さんの対談の本である。ちょっと批判っぽいくだりが多いので、読んで楽しいかどうかは?だが、この中で常識についてのやり取りがある。この本の中で内田先生は、「常識というのはそこそこの強制力はあるが根拠がない。そこが常識のいいところだ。」と述べている。さらに「常識の持つ不確かさ、バランスの悪さが、常識を社会的装置として非常に上質なものにしている。」という。

あるアイデアがあったとしよう。それを

「それって常識的には考えられないよね。」

と否定されたとする。でも、それで話が終わりになってしまうかというと、そんなことはない。たとえば

「それで?常識ってどういう常識なのさ?」

と切り返すことができる。ここが大事なところだ。もし常識というのが原理主義的に厳格に守らねばならない戒律であったとすると、こういう反論はあり得ない。そういう常識の曖昧さこそが常識の持つ最も優れた側面なのだというのである。

常識というのは本質的に不安定なものなのである。それは時代によって変わり、場所によっても変わる。色々な側面で日本の常識が欧米の非常識であることなどは、良く知られていることだろう。

常識に基づいて発言する時、その常識が危うい基盤の上に立っているということをとりたてて言う必要はない。そんなことをしたら周りは混乱するだけだ。常識はいわゆる常識として扱えばいい。でも、心の中では、上に述べたように常識というのが実はあいまいで不安定な存在であるというパラドキシアルな側面を意識しておくことはきっと無駄なことではないと思う。


輪郭とディテールというコントラスト

2008-09-22 23:25:23 | 哲学
物事にはそれを形作る輪郭がある。輪郭がないと、たとえばクラゲと水の境目がなくなるような話になってしまって、どこからがクラゲか分からなくなってしまう。だいいち図鑑にこれがクラゲですと描くこともできなくなる。別に図鑑に描けないからいけないというわけではないが、それにしても輪郭がないと困るには違いない。輪郭というのは、目に見えるものだけに限らないだろう。仕事にだって輪郭はある。仕事の段取りには、ああやって、こうやって、それからこうしてといういろんな手順がある。それがわからないと、一向に仕事は進まず困ってしまう。こういう手順を仕事の輪郭と呼んでもいいかもしれない。箇条書きにできないような仕事の手順というのは、なんだかもやもやして人に指示もできない。近頃の会社はどこもマニュアル至上主義だという。そういう箇条書きの手順をちゃんとやりさえすればそれで良いというわけだ。

でも、よく観察してみると物事はそれほど簡単に箇条書きにはできない場合が多いことに気がつく。クラゲだってそうだ。詳しいことは知らないが、きっとクラゲの表面には細胞と海水が混ざったような境界が何となく広がっていて、どこまでが水でどこからが細胞なのかを厳密に線引きをするのはできないに違いない。仕事でもそうだろう。箇条書きに従って仕事をすれば誰でもいい仕事ができるかというと、決してそんなことはないことも誰でも知っている。電話を取る時のちょっとした挨拶や、プレゼンでちょっとだけ仕事と関係ないことを言って相手の心をつかむことなどマニュアルには書いてない細かなことが沢山あるに違いない。そして、そうしたディテールを何気なくこなす人こそプロというものだろう。では、こういうディテールさえ押さえていればすべてはうまくいくかというと、もちろんそんなことはない。電話に出るたびに長々と時候の挨拶ばかりしていたのでは、もちろん仕事は進まない。やるべきことはやはりちゃんと箇条書きに従ってやるしかない。当たり前だ。

では輪郭とディテールのどちらが大切か。それはきっとそんな単純な話ではない。つまり、輪郭を見るためにはディテールに心を馳せる必要があり、逆にディテールにまで気を使うにはきっちりとした輪郭が意識されなければならないのだ。言い換えると、輪郭とディテールの両者は、それ単独では存在し得ない、つまり、輪郭のためにディテールはあり、ディテールのために輪郭は存在する。どっちが上でもどっちが下でもない。それは互いにつながった輪のようなものなのである。

だから、マニュアル至上主義もOKなのである。それはそれ自身が悪いことではない。ただ、マニュアル至上主義は、マニュアルそのものが大事なのではなく、そのマニュアルの項目の隙間に横たわる無限のディテールを見るためのきっかけを与えているにすぎないと考えることが大切なのだ。逆にディテールにこだわることは悪いことではない。お客様の満足のために、直接利益につながらないようなサービスだっていくらやってもいい。でもそれは、そういうサービスに価値があるのではなく、そうしたことを通してどういうビジネスを展開していくかをしっかり見つめることが実は大切なのだ。それを忘れたサービスは、サービスのためのサービスであり、会社にとって利益にはならないだろう。

モノクロ写真には白と黒のコントラストしかない。強いコントラストと滑らかなグラデーション。それは写真を作る二つの要素である。それは互いに相補的な役割を担っているのだと思う。写真同様、物事はどこを切っても2つの対局という構図で切り取ることができる、のだと思う。でも、本当はその2つの軸というのも、我々がそう思っているに過ぎないような気がしないでもない。だってどこを切ってもいいなら、二つの対立軸だっでどのようにも決められるはずである。

仕事を考える

2008-09-06 20:01:38 | 哲学
仕事というのは最終的には成功しなければ意味がない。だからうまみのありそうなビジネスをみんな探して、それを自分の手柄にしようとするわけである。そのことは何の問題もない。極めて健全な経済活動である。上手くいきそうなことをさらに伸ばして、うまくいかないことはさっさとやめる。いわゆる選択と集中という戦略である。今の時代、中途半端なことをやっていてはすぐに通用しなくなる。強みを伸ばして弱みをできるだけなくすのだ。企業の戦略は多かれ少なかれこの路線上にある。売れない製品は廃品とし、売上の伸びない販売店は閉店するのは納得感のあるところだろう。

でも、いろんな仕事をしていて最近気づいたことがある。何か仕事を成し遂げようと思ったら、うまくいくことがあったら心の中で「これはやばい」と考え、うまくいかないことがあったら、また心の中で「よし、まだ先に進める」と考えることがコツのような気がするのだ。選択と集中の話とはちょっと違うのだけど、なんというか心の中に隙が生まれた瞬間に、その仕事は墜落してしまうような気がして仕方がないのだ。心の隙というのはいつ生まれるか、と考えれば当然それは何かが上手く行った時に生まれるに違いない。「これでよしよし」と思ったときに、その成功の裏側にある慢心がちらちらと顔をのぞかせてくる。逆に失敗した時というのは、そこに失敗した原因が必ずあるはずである。その原因に心を向けている限り、まだ進歩する余地がある。

良いことを悪いと考え、悪いことを良いと考える。なんとまあ、ひねくれたものの考え方ではある。でも、世の中の様々な事柄というのは、実は突き詰めて考えると矛盾に突き当たる気がする。100%良いこともなければ100%悪いこともない。物事というのは、すべからくどこか良いところと、どこか悪いことの混ぜ合わさったものにすぎない。良いと悪いが混在する存在、すなわちそれは矛盾である。だから、プロジェクトをリアルなものとするためには、そこには矛盾が存在しなければいけないのである。100%完全に成功するプロジェクトなどありはしないのだから。

会社の社長というのは大変な仕事だと聞く。それはそうだろう、会社が存続するためにはかっこいいビジネスモデルだけでは成り立たない。社員に払う給料や、仕入、販売戦略などなど、互いに相容れないような話が山のようにあるのだから。たぶんそういう話は、最後までちゃんと割り切れはしないのだろう。社長が一人でゴックンと飲み込むしかないのだと思う。そういう矛盾を飲み込むからこそ、会社は存続していけるのだと思うのだ。ビジネスモデルももちろん大切なのだろうけど、たぶん一番大切なのはそういう矛盾をどれだけのみこめるかということにかかっているのだと思う。もちろん、自分は社長ではないけれど、ちょっとでも心を強くして、良いことを悪く考え、悪いことを良いと考えて仕事をしていきたいと思う。でも、心ってどうやったら鍛えられるんだろう?

水になる

2008-08-11 22:28:18 | 哲学
僕の人生はずっと水に縁がある。仕事で最初に取り組んだセンサーは水にやられて壊れてしまった。どうやってそれから逃れるか、いろいろと知恵を絞った。
学位を取ったのも水と物質の相互作用について。そして、実用化した機械は水と油の違いに着目したもの。そういえば最近は下水道の仕事もしてたっけ。僕の人生はいつも水に絡んだ話だ。いつからか、その不思議な縁に気づいていたけれど。

水というのは不思議な物質だ。世の中にとてつもなくたくさんあるくせに、その性質は超変わっている。4℃で最大になる密度、大きな気化熱、大きな誘電率、そのほかにも変な特性はたくさんある。

水はたくさんのものを溶かすという性質も他の液体にはない性質だ。どんなものでも溶かしこんで、平気な顔をしている。色がついたり濁ったりするけれど、なんともなさそうに流れている。

水はものの下に下にと流れていく。決して上になろうとはしない。

一滴一滴の水は本当にかよわいが、濁流の水は猛烈な力を発揮する。

水のようになりたいと思う。たぶんそれが運命なのだと思うから。



見る人にしか見えない

2008-07-26 10:02:39 | 哲学
普通、私たちがものを見るとき、それが「そこにあるかないか」ということは、誰がそれを見るかということとは関係ないと考えるだろう。いくら屁理屈をこねたところで真実は一つしかない。あるものはあるし、ないものはない。それだけだ。確かに目の前に転がっている石ころの存在は、それを見る人とはあまり関係がないように思える。でも、我々の住んでいる社会の中では、必ずしもそうではない気がする。今回はそんなお話だ。

たとえばこのサイトの情報をお知らせするメルマガについて考えてみよう。作成する側からは、いろいろな思いがあって、それをいかにタイムリーにお伝えしようかと知恵を絞って内容を考えているつもりだ。それを毎回数百人に配信している。こちらからすれば、時代の変化や業界内の潮流、ホットな展示会情報などを読者と共有できたように思っている。時々、「メルマガ見ましたよ」なんて言われるとうれしくなったりする。でも、たぶんメルマガを送っている人の何割か(もしかすると半分以上)の人は、そのメールを開きもせずにゴミ箱に直行させているのである。ネットでチェックなんて聞いたこともないという人も社内でもたくさんいるに違いない。発行者としてはもう少し見て欲しいなあという思いはあるのだけれど、ここではそれを問題にするつもりはない。それよりも情報というものは見る人にしか見えないということを指摘したいのだ。おそらく、このことは単に情報に限ったことではなく、世の中のいろんなことがらすべてに通じることだろうと思う。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」

世の中のものごとは何でも変化する。多くの人が指摘していることだ。何かを変えずにそのままにしておくことは、とても大変なことだということも納得できることだ。一つのプロジェクトを成功させるためにいろんな反対や障害に立ち向かって、初志を貫徹することは誰にでもできることではない。でも、物事が何でも変化するということは、もしかすると宇宙の原理でも何でもないのかもしれない。もしかすると私たち人間というのが、「変化するものしか知覚できない」だけのことではないかもしれないと思うのだ。実は身の回りにも変化しない事柄というのもたくさんあるのかもしれないのだけれど、私たちにはそれを知るすべがない、それだけのことだとは言えないだろうか。自動車のモデルチェンジ、スーパーの商品の配置換え、考えてみれば無駄な事のように思えるこうした活動は、実は私たち人間の習性に端を発しているのかもしれない。同じ車を同じように売っていたのでは、次第に人はそれと知覚できなくなるのだとしたら、モデルチェンジは必須の戦略になるのもうなずける。
この一連の観察を「世の中は変化する」という事実とみるか、「人は変化しか見えない」と見るか、それは物事の表と裏を見ているんだろうと思う。見る人にしか見えない。事実というのはそれを見る人とセットで考えるべき事柄なのである。

表と裏

2008-07-10 23:09:03 | 哲学
目の前にある物事、人。そこには僕に見える向きがあるということは、その後ろには裏がある。その裏を意識すると、それこそがその実在のリアルな面に見えてくる。でも、その瞬間にかつて表だった面が裏側となって僕の意識の中に浮かび上がってくる。

物事には表と裏、いや無数の側面がある。それのどちらが良くて悪いのかなんて、もちろん誰もわかりはしない。すべての物事は玉虫色に光りながらくるくる回っているのだ。

でも、すべてが玉虫色では意味がなくなってしまう。僕たちは玉虫色ではそれを理解することができない。僕は僕でありあなたはあなたでなければ、話は始まらない。仕方がないから、玉虫色を赤とするか白とするかを決めるしかない。それを僕たちはリアルと呼んでいる。実は思い込みに過ぎないのだが。

リアリティについて

2008-07-07 21:58:55 | 哲学
目の前にある現実は、自分がそう思ったからそこに存在する。

目の前に起こっていることが気に入らなかったら、気持ちを入れ替えるのが一番早い。

でも、目の前にある現実が自分の気持の鏡としたら、それを受け入れるしかないようにも思える。

気持ちを変えようと思ったら、目の前にある現実を変えるのが一番早い。

でも、目の前にある汚いものも自分の気持の表れだとしたらそれを受け入れるしかないのかもしれない。

変化しないものをわれわれは知覚することができないらしい。それは、われわれの心がいつも変化しているからに違いない。心とは変化そのものなのかもしれない。
こころと外界は緊密につながっている。そしてそれはスタティックなつながりではなくダイナミックなつながりだ。

心の変化に注意しよう。身の回りの変化に注目しよう。そこには何かがある。それが何かはすぐにはわからないかもしれないけど。