このコラムでも何度か取り上げているが、私は写真が趣味である。それもデジタルカメラではなくて、モノクロフィルムで写真を撮って自分で現像までやっている。撮影後のフィルムを現像したものをネガと呼び、このネガに光を当てて印画紙に映像をプリントする。デジカメならパシャっと写真を撮ったら後はパソコンで処理をすればすぐ写真が出来上がるのだから、フィルムを使った写真を作る手間は大変な作業である。フィルムカメラが売れなくなるのもごもっとも言わざるを得ない。
モノクロフィルムにはそれぞれの点の濃淡が情報として記録される。実際に暗い部分に対応するフィルムの点は殆ど濃度がなくて透明になり、逆に明るい部分に対応する点は、濃度の高い黒い点として記録される。実際の濃淡と反対に記録されるのでネガティブ(ネガ)と呼ばれる所以である。
最終的なプリント(写真)では、その印画紙で表現できる最も明るい(白)から最も暗い(黒)までを使って被写体を表現するのが良いとされている。ネガの調子と印画紙へのプリントの過程がぴたりと決まって、白から黒までの濃度が滑らかに出ている写真は本当に美しい。
でも実際には、なかなかきれいなプリントというのは出来ない。印画紙が表現できる濃淡の一部だけしか使われていないプリントは、何となくコントラストが低くて物足りない感じがする。また、あまりコントラストが強すぎるプリントでは、真っ白と真っ黒の部分ばかりで中間の濃度があまりない。はっきりしてはいるが、写真をコピーした時のような感じで美しいという印象とは程遠い。
全てが白だったり全てが黒だったりという写真には情報は入っていない。白紙を見ても仕方がない。また白と黒がはっきりと分かれている写真というのは少しも美しいと私たちは感じない。白と黒が境目なく滑らかに表現可能な範囲の一杯までに濃度を持った写真を私たちは美しいと感じるのだ。それって、もしかすると様々な物事に共通することのような気がする。「白と黒」を「正しいことと正しくないこと」と置き換えてみるとどうだろう。何事も正しいことと正しくないことをきれいに区別できれば良いのだけれど、実際にはそう簡単ではないことがほとんどだ。無理をして、2つのカテゴリにーに押し込んでしまうと、なんだか荒っぽくて無機的な感じになってしまう。それでは、正しいも正しくないもごちゃごちゃにしてしまうと、コントラストの低い写真のようにはっきりしない感じになってしまうだろう。
白と黒ははっきりさせるけれど、その間を滑らかにつなげる美しいプリント。何か今という時代の私たちの進むべき方向を示唆していると言ったら言い過ぎだろうか。ポイントは美しいを感じる心、感性のような気もする。
モノクロフィルムにはそれぞれの点の濃淡が情報として記録される。実際に暗い部分に対応するフィルムの点は殆ど濃度がなくて透明になり、逆に明るい部分に対応する点は、濃度の高い黒い点として記録される。実際の濃淡と反対に記録されるのでネガティブ(ネガ)と呼ばれる所以である。
最終的なプリント(写真)では、その印画紙で表現できる最も明るい(白)から最も暗い(黒)までを使って被写体を表現するのが良いとされている。ネガの調子と印画紙へのプリントの過程がぴたりと決まって、白から黒までの濃度が滑らかに出ている写真は本当に美しい。
でも実際には、なかなかきれいなプリントというのは出来ない。印画紙が表現できる濃淡の一部だけしか使われていないプリントは、何となくコントラストが低くて物足りない感じがする。また、あまりコントラストが強すぎるプリントでは、真っ白と真っ黒の部分ばかりで中間の濃度があまりない。はっきりしてはいるが、写真をコピーした時のような感じで美しいという印象とは程遠い。
全てが白だったり全てが黒だったりという写真には情報は入っていない。白紙を見ても仕方がない。また白と黒がはっきりと分かれている写真というのは少しも美しいと私たちは感じない。白と黒が境目なく滑らかに表現可能な範囲の一杯までに濃度を持った写真を私たちは美しいと感じるのだ。それって、もしかすると様々な物事に共通することのような気がする。「白と黒」を「正しいことと正しくないこと」と置き換えてみるとどうだろう。何事も正しいことと正しくないことをきれいに区別できれば良いのだけれど、実際にはそう簡単ではないことがほとんどだ。無理をして、2つのカテゴリにーに押し込んでしまうと、なんだか荒っぽくて無機的な感じになってしまう。それでは、正しいも正しくないもごちゃごちゃにしてしまうと、コントラストの低い写真のようにはっきりしない感じになってしまうだろう。
白と黒ははっきりさせるけれど、その間を滑らかにつなげる美しいプリント。何か今という時代の私たちの進むべき方向を示唆していると言ったら言い過ぎだろうか。ポイントは美しいを感じる心、感性のような気もする。