少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

時間に関する錯覚について

2012-04-24 23:32:02 | その他
簡単な機械を作ったとしよう。その機械は、

「ボタンを押すとパッとランプがつく。」

という仕掛けだ。この機械にちょっとだけ細工をして、

「ボタンを押してからランプがつくまでに0.1秒だけ遅れが生じるようにする。」

ボタンを何回か押していると、だんだん慣れてきて、ボタンを押してからランプが点灯するまでの時間がちょっと短くなったように感じるのだそうだ。ここまでは別になんということはない。しかし、ここでボタンを押すと同時にランプがつくように設定を元に戻すと不思議なことが起こる。ボタンを「押す直前」にランプがついたように感じるというのだ。これは、ボタンを押したときに0.1秒遅れてランプがつく時に、脳が勝手に

「運動行為があるとすぐ感覚が生じるはず。」

という常識的な予想から脳の中のタイミングが調整されていたため、ランプ点灯のタイミングが元に戻った時に、こういう錯覚がおきるのだという。脳というのは、外から入ってきた情報が上手く説明できるように、その情報を結構適当に加工してしまうらしい。それは、意識的にするというのではなく、その背後にある脳内のプロセスが勝手にやっているのである。上記の錯覚は、意識的にやろうと思ってやったことではなく、勝手に起こることに注意しよう。

我々が見ている世界というのは必ずしもありのままに見えていることが知覚されているのではないと以前に書いた。例えば目の盲点の位置には、勝手な書き込みが行われて知覚されているように。どうやらそう「いい加減な知覚」というのは、視覚的なイメージだけではなく、いろいろな事柄が起こる順番、つまり時間さえも適当に調整されているのである。これにはちょっと驚いた。

とにかく身の回りに起こっている世界で、脳にとって理解不能なおかしなことが起こっては困るので、得られた情報を適当に加工して自分が受け入れられるお話を作り上げて、それを意識として認識されるということらしい。

我々は、毎日の仕事が上手く行ったり上手く行かなかったりすることは、自分自身がどう見るかということとは関係なく、「事実」として考えている。部下がちゃんと仕事をしないことも、上司が無理難題を命令してくることも、それは自分とは関係ない「事実」であると考えている。でも、見えている物だけでなく、時間さえも自分の脳が適当に作っているお話に過ぎないとしたら、その「事実」という認識はかなり怪しいと思った方が良さそうだ。部下の出来が悪いのも、上司の無茶苦茶な命令も、実は自らの脳が作りだした辻褄合わせに過ぎないのかもしれない。

ボタンの実験を何とか自分でもやってみたいと思っている。ちょっとしたマイコンのプログラムぐらいで出来るに違いない。

参考文献:デイビッド・イーグルマン、「意識は傍観者である」、早川書房