このコラムでも何回も取り上げているので、ご存じかもしれないが、私は写真を趣味にしている。それもフィルムでモノクロ写真を撮って自分で現像までやっている。最近は、フィルムカメラなど使う人が殆どいないため、フィルムや現像液などの値段が高騰して、結構出費がかさむようになった。ただ、ネットが便利に使える現代では、世界中のどこかにフィルムや印画紙を作っているメーカーやショップはあるもので(と言っても旧東欧圏のチェコとかだけど)、しばらくは絶滅ということにはなりそうもない。
さて、いったい写真とは何かという話になると、一義的には人や景色などの空間に存在するものをフィルムあるいはデジカメのメモリに固定する機械ということになるだろう。ファインダー越しに見えるイメージを、シャッターボタンを押して、パッと切り取る。カメラマンは、決定的なチャンスをとらえるために人のあまり行かないような場所に行って、一日中そのチャンスが来るのを待つのだ。そう、写真は空間を固定する機械である。
ところで、アラーキーこと荒木 経惟氏という写真家をご存じだろうか。ちょっと下品な(?)写真とかをたくさん撮っている人で、なんか良くわかんないなあというのが、私の正直な印象だった。でも、最近読んだ雑誌(1)の中でアラーキー氏が、
「写真は空間を撮るんじゃなくて時間を撮るんだ。」
と言っていたの見て面白いなあと思った。具体的にどういうことかというと、例えば何の変哲もない町の風景を同じ場所で繰り返し写真を撮っていく。それぞれの写真には劇的なことは何も映ってはいない。でも、何枚も何枚もそういう写真を撮って、それを後から並べてみると、そこには同じ構造の繰り返し(家の並び)と、ちょっとした差異(トラックや人が通った)が連綿と連なっている。そこには確かに時間が写っていると言えなくもない。
このコラムをもう何年も続けてきている。面白いねと言ってくださる方も少しはいて、しつこく続けてきてはいるが、その意味ってなんだろうと思わなくもない。でも、同じ目線からいろんな観察を行い、それを並べていくという意味ではアラーキー氏の写真と似たとことがあると気が付いた。だとすると、それぞれのコンテンツの内容も大事だけど、その流れの中に自分の仕事や会社の時間が写りこんではいないかということが気になり始めた。それは、きっとコラムに限った話でなくても、いろんな仕事の長年の積み重ねの中に必然的に写りこんでいるような気もする。そして、その時間の延長線上に未来は存在するようにも思えるのだ。
会社が新しくなって、このコラムを新たに読んでくださる方も増えた。どんなことを書いたものかとちょっと迷いがないでもない。でも、その中身よりも、続けていくことに意味を求めてみたいと思い立った。そこには未来を映す時間が写っているのだから。
(1)SWITCH VOL.33 NO.2 FEB. 2015