最近のこのコラムは、読書感想文みたいな文章が多い。ということで今回も取り上げる本の名前は「数学する身体」である。小林秀雄賞という賞を受賞したというありがたい本である。新聞の書評欄で取り上げられていて、題名が面白いと思って読んでみた。
この本で中心に書かれているのが岡潔という大数学者の人生である。一応自分は理系なのだが、高等数学など理解できるはずもなく、岡潔の名前も知らなかった。なんでも多変数解析関数論の分野で世界的な成果を挙げた研究者なのだという。多くの読者同様、私も何の事だか全然わからない。ただ、その本の中に書かれている岡の思想というのは、なかなか面白いと思ったので紹介しようと思う。
数学に限らず研究者が何かすごい業績を上げるためには、朝から晩まで専門分野のことを「自分」のアタマで必死に考えているのではないかと思われるかもしれない。でも、岡先生は、
数学を通して何かを本当にわかろうとするときには、「自分の」という意識が障害になる。むしろ「自分の」という限定を消すことこそが本当に何かを「わかる」ための条件でもある。
という。自分を消すってどういうこと?と思うかもしれない。その問いについて、例えば「悲しい」ということをわかる方法を次のように言っている。
他の悲しみがわかるということは、他の悲しみの情に自分も染まることである。悲しくない自分が誰かの気持ちを推し量り「理解」するものではない。本当に「他の」悲しみがわかるということは、自分もすっかり悲しくなることである。
こう言われると、自分を消すというのもなんとなく理解できるような気がしなくもない。ここまで読んで、もしかすると物事を理解するというのは、数学に限らず同様な考え方ができるのではないかと思えてきた。例えば、ちょっと前に「ユーザーズエンジニアリング」について考えたことがあった。我々ユーザー系エンジニアリング会社の強みとして真っ先に挙げられる要素なのだけど、それって具体的に何かと考えると、よくわからなくなってしまう。それは、「ユーザーズエンジニアリング」を客観的に外から理解しようとしているから、いつまでたってもわからないのではないだろうか。そうではなく、現場に行き、お客様のニーズを具現化する行為そのものを自らの体験として一体になることによって、はじめてわかるものなのかもしれない。そこには現場を外から見る「私」は存在しないのだ。以前にも指摘したことだが、どんなプロジェクトであっても、外からそれを客観的に見るのではなく、その中に身を置いて、問題や矛盾を自らの問題として認識することが決定的に重要であるといえば反対する人はいないだろう。(コラムvol.180:生物多様性と写真の関係参照)
岡先生は、
数学的な思考の大部分は非記号的な身体のレベルで行われているのではないか。
とも言っている。簡単に言えば「アタマじゃなくてカラダで覚えるんだ!」という話といってもいいのかもしれない。あんまりアタマで考えすぎてはいけないと岡先生は説く。
そういえば、うちの会社には朝の始業前と午後3時ごろに2回体操をする時間がある。これは朝体操をする会社と3時に体操をする2つの会社が合併したことによる。合併前の名残がこんなところに顔を出している訳だ。もちろん、体操は強制ではなく、体操をする人もいればしない人もいるんだけど、もしかすると一日2回ラジオ体操すれば、もう少し自分の会社がわかるようになる気がするのだが、どうだろうか。だから、みんなで体操しましょうよ。
参考文献:森田真生、「数学する身体」、2015年、新潮社