昨日の太陽観測で、強く光っていた1865群。やはりスケッチをしていた時間(0046)にM-1クラスのフレアが発生していた模様。Mクラスというのは、中規模のフレアでちょうど地球に向かって放出が起きたので、数日後には地球でもオーロラなどか観測されるんじゃないかなあ。
久しぶりに25cm反射鏡を引っ張りだして月の観察。赤いフィルターをつけるとコントラストが高まって揺らぎも減る気がする。また、口径の違いか、くっきりクレーターが見える。雲もなく落ちつて観察できそうなので少し複雑な地形をスケッチした。クラビウスという表面で3番目に大きなクレーターの中身。大中小の3っつのクレーターがいい感じのバランスで配置されいてる。
久しぶりのお月さま観測。あまりシーイングは良くなく、時々像がおさまるのを待ってスケッチ。アリアデス谷(横方向の細い線)にある小さなクレーター。場所を確認しようと思ってネットでNASAのページにアクセスしたら、何と政府機関のシャットダウンの影響で閲覧できず。こんなところにも影響がでています。
何度も書いているように未だにフィルムで写真を撮っている。なぜデジカメにしないのかと良く聞かれるのだが、正直自分でもよくわからない。もちろん、モノクロフィルムを自分で現像したりプリントするプロセスを楽しむという理由もある。でも、本当の理由はそこではない。
デジカメというのは、言うまでもなく内部のメモリに映像を記憶する。従って、失敗したと思えば、何度でもその内容を消してやり直すことが出来る。何度でも何度でも、思い通りの作品が出来るまで撮り直せばよい。瞬間をとらえたい時は、すごいシャッタースピードで何百枚ものイメージを連射して、あとから最高の瞬間を取りだせばいい。こんなすごいことを可能にしたテクノロジーには驚くばかりだ。
ところがフィルム写真はなかなかそうはいかない。一度とった写真はフィルムにイメージが焼き付けられてしまうから、映像を消してやり直すことはできない。一回きりである。さらに、一本のフィルムにはせいぜい36枚しか撮れないから、連射をするといっても大した枚数は撮れない。画像の分解能だって、詳しいことは知らないが、何千万画素のデジカメと比べて、フィルムの方が優れているということはもうないだろう。こうやって考えると、フィルムカメラのいいところって何もない。あっ、そうそう、フィルム代や現像代などのランニングコストだって重要な要素だろう。
でも、これらのフィルムカメラの欠点が、そのまま長所にもなるような気がするのだ。つまり、シャッターを切る瞬間に全てが決まってしまい、それをやり直すことが出来ないことが、フィルムカメラのメリットではないかと。シャッターを押すその瞬間への集中力を高めるプロセスを楽しむことができるフィルムカメラというメカニズム、ちょっとデジカメにはまねのできない。(詭弁かなあ。)フィルムカメラは今を濃縮する精巧なメカニズムなのである。
そういえば、テレビを見るにしても、最近はハードディスクにいろんな番組をどんどん入れて録画するようになった。以前はVHSテープだったので、録画すると画像が劣化するということで、やっぱり生放送でみるということだったのだけれど、ハードディスクになったら生も録画も全然違わない。こうなったら、別に生で番組を見る必要なんかない。いろんな番組のなかからキーワードで自動抽出された面白そうな番組を、土日に見る。何時間もあるので、再生速度を2倍にして面白そうなところだけをサラサラっと見る。(ありがたいことに話はちゃんと聞こえる!)まあ、こういう見方もいいんだけど、なんかその映像を見る今という瞬間が、薄く延ばされてしまったような気がしてならない。見逃してももう一回巻き戻せば何度でも見直すことが出来る。お手洗いに行くのも自由だ。別に今、一生懸命伴番組を見る必要もないから、結局、一応見たものの何の話だったか良く覚えていない。
私たちは機械ではない。生身の人間だ。いくら機械のスペックが高くなっても、それは我々人間の性能が高くなるということではない。そうしたメカニズムを通して、どんな事を考え、感じるかがはるかに大切だろう。写真を撮るときに何を自分が考えたか、そこんとこを大事にしたいと思うのだ。フィルム代に現像代?そんなんことが気になるなら趣味なんか持たない方がいい。
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デジカメというのは、言うまでもなく内部のメモリに映像を記憶する。従って、失敗したと思えば、何度でもその内容を消してやり直すことが出来る。何度でも何度でも、思い通りの作品が出来るまで撮り直せばよい。瞬間をとらえたい時は、すごいシャッタースピードで何百枚ものイメージを連射して、あとから最高の瞬間を取りだせばいい。こんなすごいことを可能にしたテクノロジーには驚くばかりだ。
ところがフィルム写真はなかなかそうはいかない。一度とった写真はフィルムにイメージが焼き付けられてしまうから、映像を消してやり直すことはできない。一回きりである。さらに、一本のフィルムにはせいぜい36枚しか撮れないから、連射をするといっても大した枚数は撮れない。画像の分解能だって、詳しいことは知らないが、何千万画素のデジカメと比べて、フィルムの方が優れているということはもうないだろう。こうやって考えると、フィルムカメラのいいところって何もない。あっ、そうそう、フィルム代や現像代などのランニングコストだって重要な要素だろう。
でも、これらのフィルムカメラの欠点が、そのまま長所にもなるような気がするのだ。つまり、シャッターを切る瞬間に全てが決まってしまい、それをやり直すことが出来ないことが、フィルムカメラのメリットではないかと。シャッターを押すその瞬間への集中力を高めるプロセスを楽しむことができるフィルムカメラというメカニズム、ちょっとデジカメにはまねのできない。(詭弁かなあ。)フィルムカメラは今を濃縮する精巧なメカニズムなのである。
そういえば、テレビを見るにしても、最近はハードディスクにいろんな番組をどんどん入れて録画するようになった。以前はVHSテープだったので、録画すると画像が劣化するということで、やっぱり生放送でみるということだったのだけれど、ハードディスクになったら生も録画も全然違わない。こうなったら、別に生で番組を見る必要なんかない。いろんな番組のなかからキーワードで自動抽出された面白そうな番組を、土日に見る。何時間もあるので、再生速度を2倍にして面白そうなところだけをサラサラっと見る。(ありがたいことに話はちゃんと聞こえる!)まあ、こういう見方もいいんだけど、なんかその映像を見る今という瞬間が、薄く延ばされてしまったような気がしてならない。見逃してももう一回巻き戻せば何度でも見直すことが出来る。お手洗いに行くのも自由だ。別に今、一生懸命伴番組を見る必要もないから、結局、一応見たものの何の話だったか良く覚えていない。
私たちは機械ではない。生身の人間だ。いくら機械のスペックが高くなっても、それは我々人間の性能が高くなるということではない。そうしたメカニズムを通して、どんな事を考え、感じるかがはるかに大切だろう。写真を撮るときに何を自分が考えたか、そこんとこを大事にしたいと思うのだ。フィルム代に現像代?そんなんことが気になるなら趣味なんか持たない方がいい。
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誰でも学生のころから歴史を習ってきたので、歴史に登場する多くの偉人の名前ぐらいは皆知っているだろう。豊臣秀吉、織田信長、徳川家康などなど歴史のスーパースターはたくさんいる。大体歴史が大きく転回する時期に偉人というのは出てくる。明治維新のころにも坂本竜馬や西郷隆盛などのスーパースターが歴史に登場した。こういう人たちは、もちろんその辺の凡人とは違っていたから偉人であるわけで、考え方も行動も常人とはちょっと違うということになっている。
しかし、たとえば豊臣秀吉にしても、晩年は大陸進出を狙って多くの人命を犠牲にしたし、西郷隆盛は西南戦争で逆臣として打たれてしまった。それらの行動については、これまでも様々な分析がなされてきたのだろうけど、彼らが生きた時代から何百年もたった今から歴史を眺めた時、彼ら偉人たちの行動も大きな時代のうねりの中で、半ば必然的に起こったと見えなくもない。ちょうど先日大河ドラマでやっていたのだが、西南戦争で敗れて自刃した西郷隆盛の行為は、明治維新で鬱積した士族の不満の爆発として避けることのできなかったこととして描かれていた。西郷がそのことを理解して戦をしたかどうかは良く分からないが、そういう戦そのものは不可避であったように思える。
そんな風に考えると、どんなにすごい人であっても、大きな歴史の流れの中では、少し極論かもしれないが、その人が自発的にどう思って行動するかということなど何の意味もないような気もしてくる。歴史に名を残すような人でさえそうだとすれば、その下にいた多くの庶民の考えなど、歴史という視点に立てば取るに足らないことに違いない。
ところが、自分が今生きている現在に目を向けてみると、お話は全然違ってくる。会社には上司と部下がいて、部長がいて社長がいて、大成功した社長がいる。その人は、成功したが故に、他の一般の人とは違い、その行動を分析した本が飛ぶように売れる。アップルが成功したのは、カリスマ・ジョブスがいたからであり、彼は他の人とは違っていたからこそ、アップルを再生させたのだ。彼らの成功を見ると、人の行動には無限の可能性があり、その個人の考え方によってその結果は天国にも地獄にもなり得る。アメリカンドリームという言葉は、そういうことを意味するのだろう。
この二つの視点から見る世界の見え方の違いって、いったい何なんだろうと思う。もちろん、研鑽を積み高みを目指して精進することを否定はしない。夢をもっていなくては人は生きてはいけないのも事実かもしれない。でも、実は、我々の人生というのは歴史という大きな織物の中の小さな縦糸と横糸の接点に過ぎず、何をどうあがこうと、大きな歴史のうねりの中で、人の人生というのは、必然的とも思える道程をとぼとぼと歩むこと以外のものではないのかもしれないと思えてきた。少なくとも数百年たってからその人生を眺めると、ほぼ間違いなくそのように見えるはずなのだから。
この不安だらけの現代を生きるときに、全ての結果が各個人の決断にかかっているとしたら、こんなに気の滅入ることはない。殆どの選択は失敗で、ほんの一握りの選択肢だけが成功をもたらすとすれば、そんな気持ちもわからなくもない。そんな時に、自分が実は大きな歴史の流れの中の一こまを生かされていると思えば、多少は気が楽になるのではないかと思うのだ。