「井関はんらが頑張ってた頃が懐かしいのう」
工場長は天を仰いだ。無念の思いがあった。
あの夜と同じだった。このベンチで、工場長は俊彦に嘱託社員で残れと慰留したのだ。
「無理はいえんけど、ええ人材に、はいサヨナラはないからのう」
「すんまへん、工場長」
「気持ちは変わらんか。しゃーないのう。そいで何をやるつもりや」
「これまでと全く違う仕事してみとうて」
「そうか。羨ましいなあ、君が」
「え?」
「いや、なんでもない。ただの愚痴や」
口ごもる工場長に、なんとなく同情を覚えた。中学を卒業してから四十数年、他の世界を知らないまま、食品製造現場べったりで生きて来たのだ。途中何度も他の世界に憧れを持ったとしても不思議ではない。工場長も人の子なのだから。その夢を諦めさせたしがらみが工場長を雁字搦めにしたのは確かだ。
「ほなら新しい仕事、頑張りや。あかんようになったら、またうちへ戻って来たらええがな。敷居低うしとくさかいに」
「ありがとうございます。工場長も踏ん張ってください」
「ああ。そのつもりや。わし、他に何もでけへんさかいのう……」
ポツリと呟いた工場長の体がやけに小さく縮んで見えた。
結局工場長は陣幕と運命を共にしたのだ。きっと悔いはないだろう。
「井関はん。工場覗いてみるか?」
「え?ええんですか」
「構わへん。夜なか中懸命に働いてくれた仲間や。工場かてちゃんと歓迎してくれよるわ」
工場長の表情が少し元気を取り戻していた。
虚無に満ちた工場内は寒々としている。俊彦が担当した調理場はステンレスの冷蔵庫と調理台が取り残されて無意味に鎮座している。
だだっ広い盛り付け場は、何台も並ぶ長尺のベルトコンベアーが抛り出されたままだ。白衣姿の女性たちが競い合って弁当を盛りつけている光景は忘れられない。
二階へ上がった。百人がいちどきに利用できる食堂を兼ねた休憩エリアである。まだテーブルは撤去されていない。深夜の休憩時間を、従業員がてんでに過ごした席だった。
飛び交う言葉は国際色豊かだった。出稼ぎの日系ブラジル人に、中国人研修生が主で、ベトナム人やフィリピン人の顔もあった。それぞれがグループで群れていた。そこでは大人しい日本人が肩身の狭い状況に置かれた。
大きいテレビモニターでビデオや深夜番組に夢中になっているものがいる。椅子を並べてたのをベッドがわりに仮眠するものがいる。
惣菜や弁当の残ったものを自由に食べられた。脂っこいものばかりで、健康を考えて俊彦は家から弁当を持参していた。
第三者には、ここが喧騒にまみれた場であったとは、まず想像も出来ないだろう。
「ほなら、元気でやれや」
工場長はおどけて敬礼した。お互いに、もう会う機会はないと判っている。俊彦も敬礼を真似て返し、愛想よく笑った。
駐車場はやはり人っ子一人いなかった。
「ざまあみろや!ええ気味やで」
幅は甲高い声を吐き出した。興奮しているらしい。追い出された職場の凋落は、彼が持ち続けただろう憎悪を和らげるに充分だった。
「ほやけどな、幅はん。わしらここでええ目、ようけさして貰うたやないか」
「うん……そら、そうやけどなあ……?」
俊彦は、駐車場にぎっしり並んだ車を思い浮かべた。あの頃は充実しきった自分がいた。
さーっと、冷たい風が頬を撫でて流れた。
(終わり)
工場長は天を仰いだ。無念の思いがあった。
あの夜と同じだった。このベンチで、工場長は俊彦に嘱託社員で残れと慰留したのだ。
「無理はいえんけど、ええ人材に、はいサヨナラはないからのう」
「すんまへん、工場長」
「気持ちは変わらんか。しゃーないのう。そいで何をやるつもりや」
「これまでと全く違う仕事してみとうて」
「そうか。羨ましいなあ、君が」
「え?」
「いや、なんでもない。ただの愚痴や」
口ごもる工場長に、なんとなく同情を覚えた。中学を卒業してから四十数年、他の世界を知らないまま、食品製造現場べったりで生きて来たのだ。途中何度も他の世界に憧れを持ったとしても不思議ではない。工場長も人の子なのだから。その夢を諦めさせたしがらみが工場長を雁字搦めにしたのは確かだ。
「ほなら新しい仕事、頑張りや。あかんようになったら、またうちへ戻って来たらええがな。敷居低うしとくさかいに」
「ありがとうございます。工場長も踏ん張ってください」
「ああ。そのつもりや。わし、他に何もでけへんさかいのう……」
ポツリと呟いた工場長の体がやけに小さく縮んで見えた。
結局工場長は陣幕と運命を共にしたのだ。きっと悔いはないだろう。
「井関はん。工場覗いてみるか?」
「え?ええんですか」
「構わへん。夜なか中懸命に働いてくれた仲間や。工場かてちゃんと歓迎してくれよるわ」
工場長の表情が少し元気を取り戻していた。
虚無に満ちた工場内は寒々としている。俊彦が担当した調理場はステンレスの冷蔵庫と調理台が取り残されて無意味に鎮座している。
だだっ広い盛り付け場は、何台も並ぶ長尺のベルトコンベアーが抛り出されたままだ。白衣姿の女性たちが競い合って弁当を盛りつけている光景は忘れられない。
二階へ上がった。百人がいちどきに利用できる食堂を兼ねた休憩エリアである。まだテーブルは撤去されていない。深夜の休憩時間を、従業員がてんでに過ごした席だった。
飛び交う言葉は国際色豊かだった。出稼ぎの日系ブラジル人に、中国人研修生が主で、ベトナム人やフィリピン人の顔もあった。それぞれがグループで群れていた。そこでは大人しい日本人が肩身の狭い状況に置かれた。
大きいテレビモニターでビデオや深夜番組に夢中になっているものがいる。椅子を並べてたのをベッドがわりに仮眠するものがいる。
惣菜や弁当の残ったものを自由に食べられた。脂っこいものばかりで、健康を考えて俊彦は家から弁当を持参していた。
第三者には、ここが喧騒にまみれた場であったとは、まず想像も出来ないだろう。
「ほなら、元気でやれや」
工場長はおどけて敬礼した。お互いに、もう会う機会はないと判っている。俊彦も敬礼を真似て返し、愛想よく笑った。
駐車場はやはり人っ子一人いなかった。
「ざまあみろや!ええ気味やで」
幅は甲高い声を吐き出した。興奮しているらしい。追い出された職場の凋落は、彼が持ち続けただろう憎悪を和らげるに充分だった。
「ほやけどな、幅はん。わしらここでええ目、ようけさして貰うたやないか」
「うん……そら、そうやけどなあ……?」
俊彦は、駐車場にぎっしり並んだ車を思い浮かべた。あの頃は充実しきった自分がいた。
さーっと、冷たい風が頬を撫でて流れた。
(終わり)