HIBARIピアノ教室レッスン日記♪

ピアノのレッスン日記、その他ヒバリ先生が見聞きした音楽関係・芸術関係etcの日記。

つき指

2010年03月20日 | その他日記
Y子ちゃん(小4):
「あのね、あの、今日Y子ね、右手を、あの、つき指して・・・」
と オズオズと出した右手には、痛々しい包帯が 
「あらあら。つき指したんだ・・・右手、弾けないね。じゃ、今日は左手だけやろう」
「はい

というわけで、今日のY子ちゃんは、すべて左手だけのレッスンでした。
バーナムのルーレット選びもなにも、全部片手なので、最初はなんだかバランスが取れなくて調子狂っちゃうな、みたいな感じでした。
でも、片手なら片手で、いつもなかなか時間が回らない、左手だけの練習がじっくり練習できて、たまには左手だけの日、というのもよかったかもね。

バーナムでは、弱い指(特に4の指とか)がモロに目立って、その指を集中練習したり、指番号のあいまいなところも徹底チェックしたりできたし。
コードの和音で伴奏していた「ティコティコ」は、サンバのリズムパターンが練習できたし。
連弾ソナチネは、もともと両手同じだから、何も問題なかったし。
来週、右手が復活したときには、ちゃんと今日のレッスンが役に立つことでしょう。

ところで、Y子ちゃんがつき指していたのは、右手の「おにいさん指」なんですが。
この指、普通は「中指」って、言うんだよね・・・ そうか・・・そうだよね・・・などと、私はいきなり 妙なことを、しみじみ考えてしまいました。
そういえば、私は「中指」なんて言ったことないよな・・・ということに、ふと気がついたからです。
「中指」だけじゃなく「親指」「人差し指」「薬指」「小指」なんてことも、言ったことない・・・
え~っ? と思うでしょ。じゃ、一体なんて言うのさ?
大人のくせに、まさか「おにいさん指」で通してきたわけじゃないだろうね?!

う~ん・・・「ミの指」・・・
すみませんっ すみませんっ
いい年こいて、大人げない言葉づかいで
私の、ピアノ教師の友人たちは、多分もっと大人っぽい言い方してます。
「3の指」って。
それでも、みんなきっと、「中指」とは言わないと思います。。。

「ミのゆび」なんて、いつもミだけ弾く指でもないのに、子どものころのすり込みは恐ろしい。
他の名称で言うと、どうしても違和感があるんですよね。
私も、私の妹(おゆみ)も、この言い方以外にはなじめないので、手の指はもちろん、足の指も「足のレの指」とか言ってます。
おかしい?
でもさ、「足の人さし指」っていうのと、おかしさは同じだと思うよ

ブッディスティック(仏教)・ミュージック

2010年03月20日 | その他日記
今日、私は都内の とある寺院で、すばらしいMUSICのひとときをすごす機会を得ました。
といっても、何だかの宗教集会やら あやしい宗教コンサートやらに行ったわけではなく、早く言えば「法事」に参加しただけなのですが。

先代から引き継いで この寺を守っている住職さんは、たぶん四十才前後でしょうか。
宗派にもよるのでしょうが、僧侶といってもこの方は剃髪(ていはつ)ではなく、黒々とした髪をきれいに撫でつけ、イギリス紳士みたいな口ひげをたくわえていました。
背が高く恰幅(かっぷく)よく、美しい袈裟(けさ)をまとった その姿は、若いとはいえ堂々として、思わず「オー、ジャパニーズ・プリースト!」と感嘆の声を上げてしまいそうなインパクトの強さです。

さて、読経が始まりました。
お経というと、今までは何となく、通夜などで暗い中 陰々滅々と唱えられる、長くてわからないもの、などと思っていた バチ当たりなヒバリですが、彼の読経は、そんなヒバリでもあっと驚き、たちまち改心してしまいそうな すばらしいものだったのです。

住職さんの声は 深く力強く、声質で言えばバリトンでしょうか。
春の陽光の射し込む明るい本堂に、彼の声は朗々と響いていきました。
ただ淡々と読むだけではなく、声にメリハリがあり、耳を澄ますとさまざまな抑揚がついているのがわかります。
時には強く、時には柔らかく。
またある時は高く、ある時は低く。
そしてまた、ある時はゆったり、ある時は早く。
メロディーは、ミ、ファ♯、シ、の3つの音を中心にできていますが、時々 ♯がナチュラルになったりして、絶妙なニュアンスを作り出しています。
また、読むリズムの方は、四分音符をベースに淡々と進む中に 付点八分音符を投入し、弾むようなリズム感を作り出しています。

これだけでも すばらしい「歌」なのですが、これにパーカッションが加わって、いっそう効果を盛り上げています。
後ろからでは、住職の持っている「楽器」の本体は見えなかったのですが、音とリズムから判断して、これはまさしく「クラベス(ラテン音楽で使う、拍子木のようなリズム楽器)」、の一種と考えて間違いないと思います。
読経に合わせてカン、カン、カン、カン、と打っていき、時おり、左わきのクッションの上に置いてある、直径30センチほどの金属ボウル(鐘)を、でっかいマレットでうちならします。 ゴォォォォ~~~ン・・・ 
この鐘の響きはすばらしく、余韻がいつまでも残響し、さぞ上等な品なのだろうなー、と思わずにいられませんでした。

私たち参列者は、めいめい「赤本」という小さな本を貸してもらい、そこに書いてある漢字ばっかりの「お経」を見ながら 読経を聴くわけなのですが、この漢字、一文字一文字の横には、ちょうど漢文の「返り点」にそっくりな記号が振ってありました。
よく見ると、これは お経を読むときのリズムを指示した「リズム記号」なのでした。
普通に、イーブンに読むときの記号は シンプルにチョン、チョン、という点。
「ノ」の字を逆さまにしたような記号は、付点四分音符のように少し長く伸ばす記号。
そして、フレーズの終わりなどに時々書かれている、ふにゃにゃ~ とした記号は、小節(こぶし)を現していて、文字通り声を揺らして、小節をつけるのでした。
この「楽譜」をベースに、彼自身のオリジナルアレンジも多少加わって、生き生きとしたメロディーが生まれてくるのでした。

リズム譜に気を取られて、肝心の「言葉」の方はあまり覚えていないのですが、何だか「永劫」とか、そんなような壮大な言葉があったような気がします。

すばらしいバリトンのメロディー、効果的なパーカッション、それに大規模なお経の言葉。
これらが渾然(こんぜん)一体となって、悠久の宇宙を感じられるような、そんな「音楽」を楽しめたひとときでした。

とうとう美しい音楽も終わり、住職は講話をしました。
抹香臭い話はひとつもなく、「私たちは皆、日々新しい命を生きているのです。今日のお経も、今日だけのもの。同じものを読んでも、今日と明日のものは全くちがうものです」という内容でした。
「ありがとう」という言葉の反対の言葉は、「あたりまえ」ということ、というお話しもしてくれました。
「有り難い」という気持ちは、日々新鮮で新しい感動、ということ。
「あたりまえ」という気持ちは、いつでも同じ、知ってるよ、ということ。

それって、「一期一会(いちごいちえ)」ですよね。
私はコンサートなどをするときでも、人と会うときでも、いつも「一期一会」ということを感じています。

今日も、一期一会でした。
仏教には全くなじみのないヒバリですが、この住職さんには、宗教家というより一人の「思想家」として、尊敬と親しみを感じました。
そして同時に、ミュージシャンとしての彼の「ライブ」も、なかなかよかったな~という気持ちも 湧いてくるのでした・・・