(蕨宿の道路にあった浮世絵タイル「戸田の渡し」)
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(戸田の渡し「皇女和宮御下向御用日記留」より)
皇女和宮が将軍家茂に降嫁される時、
京都から江戸まで中山道を
25日かけた道中は、皇女和宮も相当なご苦労であったが、
途中御泊りになる本陣や御小休みされる場所は、
その準備が大変であったようである。
道中は東海道(500km)のほうが距離も短く、
文字通り海道で、海辺近くに道路があり、歩くのに楽であろうに、
何故、山坂の多い中山道(533km)を選んだのであろうか?
中山道は藤村の「夜明け前」にあるように、
道中は「全て山の中である。」
中山道を選んだ理由は、
①東海道は川が多く、川止めなどにより日程に変化が生じ易い。
②東海道には薩埵峠(さった峠)があり、「去る」に通じ婚姻には縁起が悪い。
③東海道は旅人の往来が多く、警備上問題がある。
④特に東海道は外国人の通行があり、問題がある。
などの点である。
その点、中山道は警備の上で、東海道と比べ安全で警固がし易い。
そこで中山道を通行することに決定した。
和宮の行列は、旧暦の10月20日京都を出発し、
11月13日に桶川に宿泊、翌14日に上尾、
大宮両宿で御小休みして、昼食を浦和宿で、
その後蕨宿で小休止して「戸田の渡し」で荒川を渡り、
板橋宿でこの旅の最後の宿泊をされた。
蕨宿の本陣家 岡田加兵衛が綴った
「皇女和宮御下向御用日記留」が残されているが、
この時期和宮下向に当たり、
将軍家はもちろんのこと家来たちが大童であったことを
この「日記留」に書き記している。
この一冊の日記の厚さが20cm余り有ることからも、
役人、名主、本陣家が右往左往したことが推察できる。
(そのレプリカが、蕨市歴史民族資料館に展示してある。)
この「日記留」には役所とのやり取り、
前後の宿場とのやり取り、
行列通行に際し必要な人手、馬、食料から
宿泊場所の用意、建物の修復、
宿泊地での什器――行灯の数、タバコ盆の個数に至るまで、
細々した事をその都度役人に問い合わせ了解を取るなど、
事細かな打ち合わせの状況が書き記されている。
(「中山道戸田渡船場跡」の石碑)
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戸田の渡しでは、
「荒川を皇女和宮が船橋(*)を利用して渡った」と
一般的には考えているようであるが、
戸田市では船橋でなく、
お召し舟に乗って渡ったと、
「戸田の渡しと旅日記」の中に記載している。
(*)船橋とは、川の上流に向けて川幅一杯に船を並べ、その上に板を渡して橋にしたもの。
実際には、輿を船に積んで対岸まで渡ったのか、
あるいは輿は別の船で運び和宮が船に乗り込んだかは分らないが、
いずれにせよ船をお召しになって渡られたようである。
荒川の川幅は普段55間(約100m)であった。
楽宮の降嫁と同じであれば、
川の両岸の渡船場の両脇に杭を打ちつけ、
杭と杭の間に麻綱を張り、その綱に幔幕を渡し、
幔幕の間を船は進んで対岸まで渡った。
この時お召し舟を三艘の船が曳いて対岸に着けたと記録がある。
(このときの様子は絵図面も残っている)
和宮の時は同じかどうか分らないが、
お役人が、
麻綱、お召し舟を用意させたり、
そのお召し舟や麻綱の出来上がり進行状況を点検をしたりした所を見ると、
少なくも船橋で渡ったとは思われない。
戸田荒川が増水して船で川を渡れないときのことを考えて、
その場合は、蕨宿泊まりにして千住廻りとするから
川口宿にも通行の準備をするよう役人が指示している。
実際に、和宮様が通る11月14日より前の11月1日、
朝から豪雨となり、増水が心配されたが、
蕨宿では和宮様宿泊の準備は11月6日には完了する旨報告している。
しかし当日は船渡しに問題なく、滞りなく板橋宿に到着している。
さて、面白いのは、蕨宿で和宮様に献上品を渡したことである。
もともと献上品は渡してはならないお触れが出ていた。
なぜなら献上品については、
後程お返しをしなければならず、
そのお返しの額が膨大になることを恐れたのだ。
宿泊所、休憩所は午前午後の2回、昼食所と、
それぞれ一日4箇所で行列は止まる。
その都度献上品が出ると、
江戸まで25日掛かって到着しているから、
25日×4回の献上品では、
最低でも100個の献上品になってしまう。
1両ずつお返しをしても100両になる。
まさか1両では済まないであろうから、
大変な出費になり、幕府はこれでは困る。
それでも蕨宿では、
御付のお役人に訊いて了解をとってから献上品を渡した。
品物は、
みかん35個、ぶどう5連。
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それも板橋宿へ届けろと言うので、
品物の下に奉書を敷き、三宝に載せて絵符(立て札)に
「献上 蕨宿御本陣」と書き、
白木の長持ちに入れて運んだ、とある。
随分仰々しい。
たかだかみかん35個とぶどう五連なのに・・・
それにしても旧暦11月14日は陽暦では12月15日に当たる。
今は冷蔵庫もあり保存がきくが、
当時献上品のぶどうはどのように保存していたか気になる所である。
この時期に葡萄を収穫して献上に及んだとは考え難い。
そこで葡萄についてよくよく調べてみると、
当時の葡萄は山葡萄で、
山葡萄の収穫は遅いものは11月末ごろになると言うから、
12月15日頃まで在庫があっても不思議が無いことが分った。
それにしてもお姫様にとっては、
珍しいものであったに違いない。
珍しいものであるから、幕府からのお返しのお礼は、
まさか1両ということはあるまい。
下司の勘繰りであるが・・・
お返しがあったかどうか「御用日記留」には書いてなかった。
(木曽海道69次之内 浮世絵「戸田の渡し」広重画)