楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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清水坂(旧中山道の板橋宿を過ぎて雑感2)

2023年01月14日 05時51分13秒 | ひとり歩き旅
交番の左側の道が旧中山道。
ここから現在の道路はなだらかに下っておりますが、

ここを清水坂と言います。

(清水坂とその石標)

中山道が出来た当時 清水坂は、
日本橋を出発して最初の難関道路だったようです。
今はなだらかですが、
実際には、階段を作ると60段程に、
高さ約30m以上の崖だったのです。

(60段の階段がある崖)

東京はその昔、富士山が大爆発したときに、
火山灰が偏西風に乗って大量に降り積もりました。
古文書によりますと、一週間も降り積もったようで、
灰に埋もれて亡くなった方の慰霊碑が残っているくらいです。
そして流れる一級河川の荒川が、氾濫を繰り返し、
この灰を削り流したために崖線が出来ています。


(富士山の火山灰に埋もれた人の慰霊碑)

30mの高さにまで、富士山の火山灰が降り積もる、
皆さんは、少し不思議に思われるに違いありません。
しかし事実なのです。
崖を掘削して、なだらかな道路にして、
今の中山道(国道17号)の車道はあります。

同じように、生活道路もなだらかにしました。
なだらかになった道路脇の崖の下部に、
荒川が上流から運んできた丸い石の層があります。
子供たちがその丸い石を競って採集し、
崖の下部層を掘り進んだと、想像してください。
やがて石を採集するために穴を掘り、
体が崖下に隠れるほどになって、
急に崖の穴が崩れ、子供は埋もれて亡くなりました。
その慰霊塔も残っています。


(慰霊碑)


(崖の下にある慰霊碑)


(降り積もってできた火山灰の厚みが解る崖の下にある慰霊碑)

関東は大きな河川が上流から流れて
扇状の広がっていたと思われます。
そこは砂利がくまなく敷き詰められていたでしょう。
その上に富士山の火山灰が降り積もったのです。

話を元に戻します。
清水坂を進むと、左手民家前に古い庚申塔が見えます。


(道路に挟まれた民家の前に見える庚申塔)


(庚申塔)

この庚申塔の左側に富士・大山道の道標があります。
板橋区教育委員会の下記説明文をご覧ください。


(富士・大山道の説明文)

板橋区の教育委員会の説明文にあるように、
また上の写真で見るように、
この家を挟んで右は中山道、左は富士・大山道だったのです。

しかしここでは中山道を進むと、
清水坂は途中で左に折れるのですが、
昔は、折れ曲がるのが、一度や二度でなく、
下り坂道は、つづら折れになっていたと思われます。
なぜならば、この坂道が中山道で唯一、
富士山が右側に見えた場所であったからです。

(左に折れる中山道)

もともと中山道は日本橋から北上して、
高崎あたりで西方に向かう道路で、
富士山の北側を通過していましたので、
中山道はこの清水坂を除いて、
すべての中山道から富士山が左側に見えているのです。

ところがこの清水坂は下りが険しくて、
崖をつづら折りに降りたので、
道路の一部が西方でなく南南西に向かっていたために、
富士山が右側に見えていたのです。

その右側に見える道路は、
現在の左折する道路の中間に右側から出てくる道路、
これがつづら折れの旧中山道であった。
これなら富士山は右側に見える。


(左へ折れる道路の中間に右から出てくる道が、旧中山道。)

右から出てきた道路(旧中山道)に立つと、
富士山は右側に見える筈である。
(今は家屋が立ち並び見えないが)


(旧中山道に立ってみると右富士が見えるはず)

上の写真の中央に見えるカーブミラーの
右側に見える白い建物の向こう側に富士山はあるが、
建物で遮られて見ることが出来ない。



コメント (4)
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