(奥の細道【八】白河の関3)
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(白河関3)
白河関を後に白河市街に向かうと、道路左に桜の木に囲まれた碑がある。
(庄司戻しの桜)といわれ、
通称「霊桜碑(れいおうひ)」と呼ばれる碑が中央にある。
白河市教育委員会によれば、
(治承四年(1180)、源頼朝の挙兵を知り、
奥州平泉から鎌倉に馳せる源義経に対し、
信夫の庄司佐藤基治は自子継信・忠信を従わせ、
決別するにあたり「汝ら忠義の士たらば、
この桜の杖が生きづくであろう。」と諭して、
携えていた一本の桜の杖をこの地に突き立てた。
この後、戦いに臨み兄弟ともに勇敢に戦い、
義経の身代わりになって討ち死にした。
桜はその忠節に感じて活着し繁茂したという。
後の天保年間(1830~44)野火によって焼失した後も、
新しい芽が次々と出て、美しい花を咲かせるという。)とある。
忠節を敬う話ではあるが、現代の誰のためにできる話であろうか?
楠正成の「桜井の別れ」を思い出させる話であった。
(霊桜碑)
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白河の市街地は白河の宿場町で、
町に入る手前に道路が鉤の手になっており、
宿場らしい建物もたくさん見受けられたが、
市街地に入る一画に宗祇戻しの碑がある。
(宗祇戻しの碑)
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一番左側に道標、次にお地蔵様、白河城羅郭岐路碑、宗祇戻しの碑、
一番右側の道路側に「名物だんご」旗の横に芭蕉句碑がある。
白河城羅郭岐路碑の岐路は道標にある、
石川・棚倉街道の分岐点を指しており、
道標には、右 たなくら
左 いしかハ道
とある。
(石川・棚倉道の道標)
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宗祇戻しの碑にある説明板によると、
(文明十三年(1481)白河城主結城政朝が鹿島神社の神前で、
一日一万句の連歌興行を催した。
これを伝え聞いた都で名高い連歌の宗匠 宗祇法師が、
はるばる奥州に下り、三十三間堂の前を通り、
ある女性から鹿島興行の終了を告げられた。
その時宗祇は女が背負っていた綿を見て、
「売るか」と問うたところ、女はすぐに、
「阿武隈の川瀬に住める鮎にこそ
うるかといへるわたはありけり」と和歌で答えた。
これを聞いて宗祇は東奥の風流に感じ、ここから都へ引き返した、
と言い伝えられています。)とある。
(筆者注)鮎のはらわたを「うるか」という。
「うるか」と「売るか」、はら「わた」と「綿」をかけた歌。
しかし、曽良の旅日記には、
この後、尋ねる須賀川の相良等躬(さがらとうきゅう)に聞いた話として、
説明板とは違うことが書かれているが、
勉強不足で意味がとれない。
どなたかお分かりの方、教えていただけると有難いのですが。
芭蕉の句碑には、
・早苗にも 我色くろき 日数かな はせお翁
とあり、
これは芭蕉が白河の関を越えた折の句で、
須賀川から白河の俳人何云(かうん)に当てた手紙の中にある。
この句碑は、天保十四年(1843)芭蕉の150回忌に建立されたとある。
(芭蕉句碑)
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・晴天の 暑さにたえて 石地蔵 hide-san
変わりますね。忠孝どうなりますか?
明治時代まではあったのでしょうか。
終戦までは名残がありましたね。
皇居の二重橋の前で、天皇陛下に申し訳ないと、
切腹した人が沢山いました。
道徳教育問われて久しく~何となく方向性が
国土放映も~精神論なくては
芭蕉も古戦場跡は多く尋ねたのでしようね。
国敗れて山河あり」にも~「夏草や兵どものゆめのあと」が
解釈説明にも用いられていますね。
「夏草や・・」は義経への憧れも手伝っての事でしょうね。
ひめゆりの塔やバンザイクリフなどはごめんです。
国に「忠節」などと言う精神論が出てきたら、
この国は終わりです。
さっさと戦争のない国へ逃げ出します。
忠は、字のごとく「心の中」のこと。「まごころ」「誠」。
そこまで誠実でありつづける故郷はあるのでしょうか。
しかし、どの国へ行っても安全安心はないように思えます。
訓読みで「まめやか」。
心をくだくほどの国は、リーダーが部下のために死んでもいい、自分が人質になったり、まっさきに自分の子供を人質に出すほどの人でなくてはならなかった。
日本の政治家の方に、もしかの戦争のときは最前線に乃木将軍のようにふるまって、ご自分の子供と行っていただきましょう。
まずは隗より始めよ、と。
今は、人のために命を差し出せる人は、
わが子の対する母親しかいないのではないかと・・・
楠正成については、iinaは足利尊氏を主人公に描いた「太平記」のわき役くらいな意識ですが、
戦前は忠臣として利用されたらしいですから、戦前生まれの (hide-san)さんは反発するのですね。
でも、楠正成に何の罪もありません。