楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

 円覚寺と百観音霊場(鎌倉五山の第二位)

2015年07月17日 09時39分50秒 | ひとり歩き旅
前回は、円覚寺の仏殿までご覧いただいたので、その続きを始めます。

仏殿の左隣に、選佛場(せんぶつじょう)と言う建物がある。
選仏場とは、
(佛様を選び出す場所と言うことで、修行僧の座禅道場の事を言う。
経典を収蔵する蔵殿と座禅道場を兼ねていたが、
現在の選仏場は南北朝時代の薬師如来が中央に祀られ、
年二回地元の薬師講衆が参詣し、ご祈祷が行われ、
平成十五年より円覚寺百観音霊場の一番として、
大悲大慈観世音菩薩が安置されている。)(円覚寺)

(選仏場)

(薬師如来)

(大悲大慈観世音菩薩)


この選仏場の左隣に松嶺院がある。
門前の(山アジサイが見頃です)の案内につられて、
中へ入ることにした。
アジサイには、いろいろな花の種類があることは知っているが、
中でも、真っ赤なアジサイは初めて見た。

(松嶺院入口)

(よく見るヤマアジサイ)

(真っ赤なアジサイ)


アジサイにつられて進むと、階段で山を登って行き、誘導されるように墓地に出た。
鎌倉の寺院には著名な方のお墓が多いと言うことは東慶寺で知ったが、
ここにも有名な方の墓地があった。
最初に、著名な直木賞作家 開高 健、
サリン事件のオーム真理教の犠牲になられた 坂本弁護士ご一家、
昭和の大女優 田中絹代などなど。

(アジサイ)

(階段で墓地に誘導される)

(開高健さん)

(坂本さんご一家)

(田中絹代さん)

(アジサイ)


墓地の高台から下りて進むと、左手に居士林(こじりん)(濟蔭庵(さいいんあん)がある。
(ここは在家の方の座禅(居士禅)が盛んになり、
山岡鉄舟、鈴木大拙、夏目漱石などの居士が参禅した。ー中略。

柳生新陰流の剣道場を、柳生基夫氏(徹心居士)が寄付を決断され、
この濟蔭庵ができた。)(円覚寺による)
居士林の先にあるアジサイが綺麗だった。

(居士林《濟蔭庵》)

(アジサイ)


その先、右側に方丈の「唐門」が見える。
唐門の門扉には見事な彫刻が施されており、近くで見たいと思うが、
入口は閉ざされていて、中には入れそうもない。

右手を見ると、(方丈庭園入口)の白い看板が見える。
どうも我々見学者には通用門があるらしい。
中に入ると、
(開山禅師 無学祖元が植えたと伝えられる柏槇(びゃくしん)がある。
樹齢700年以上と言われるが、幹の中心に樹木医による治療跡が見えます。
平成24年に京都 南禅寺にこの若木が移築された。)と言う。(円覚寺)

(方丈唐門)

(門扉の古い彫刻)

(方丈入口)

(開山禅師お手植えの柏槇)

(柏槇2)


さて、方丈の入口は(?)と見ると、観光客が靴を脱ぎ中へ入って行く。
入口はこちららしい。
見ると入口手前の左手に、若い女性が階段に腰かけて瞑想している。
(方丈は、そもそもお寺の住職の住まいであるが、
円覚寺の方丈は、広く一般に公開されて、檀信徒の法要、日曜説教、
座禅会、本山各種研修会、宝物の風入れ、
夏期講習やチャリティ・コンサートなどに使用されている。)と言う。(円覚寺)

よくよく見るとどうも座禅を組んでいらっしゃるようである。
人がそばを通るのに、長いことジッと動かないで瞑想されていた。

(方丈入口と女性)

(瞑想にふける女性)


樹齢700年以上の柏槇の脇に、観音像が並んだ場所がある。
最初なんだろうと思ったが、脇に(百観音霊場)と説明板があった。

説明板によると、
(百観音霊場の由来は、養老二年(718)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、
鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた坂東三十三観音霊場と、
その後に出来た秩父三十四観音霊場の総称とされている。

円覚寺方丈前の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に、
百観音巡礼の札所が開設されました。
昔は、霊場に写経を納め、その際に納経印を戴いていましたが、
それが現在のご納経帳または御朱印帳に変わったものです。
行く先々の霊場で観音様の由来を知り、観音さまのご利益に預かり、
観音さまを念じながらお参りすると、
心は清浄になり安心を得られることと思います。)(円覚寺)

今まで巡礼の人が、どうして御朱印帳を持って寺院を巡るのか、
永年不思議に思っていたが、やっと理解できた。

(結願所の百観音霊場)


方丈庭園入口とあったのに、庭園はどこかと不審に思いながら方丈を出ると、
方丈建物の裏側に、立派な庭園があった。本来なら方丈へ上がって縁側から眺めるものに違いない。

(方丈庭園)




         「たった一度の人生!
                      楽しんで終わりたいものです!」     hide-san

季節を間違えた萩

2015年07月14日 06時13分46秒 | ひとり歩き旅
萩と言えば、秋分の日の「おはぎ」(あんころもち)。

母が小豆を煮込んで作った毎年違う味の「おはぎ」を思い出します。

戦後は、どこで仕入れたのか、わずかな小豆を煮てあんこを造り、

小麦粉のだんごに、うっすらと着いたあんこの 小さな「おはぎ」。

残りのあんこにアメリカから配給になったから、

メリケン粉と言う(小麦粉)で代用の、お餅が入ってお汁粉になった。

このお汁粉はほとんど小豆色した砂糖湯で、

小豆は2~3粒入っていれば上等な方。

キューバが緊急援助したキュウ―バ糖のお汁粉。

学校に行く前に、キューバ糖の砂糖湯を飲んで出かけた。

お弁当は、さつま芋2個。

思い出したくない思い出。

(季節を間違えた萩)


(季節を間違えた萩2)


(季節を間違えた萩3)


(季節を間違えた萩4)




北鎌倉 円覚寺(鎌倉五山の第二位)

2015年07月10日 08時34分10秒 | ひとり歩き旅
このように 生まれてきて

このように 生かされて

いま 生きている

これこそ 仏心

如来 無量のいのち

ありがたく 手を合わす

             (円覚寺)



円覚寺(えんがくじ)は弘安5年(1282)に創建。
開基は元寇の役に活躍した鎌倉幕府の執権 北条時宗、
開山は宋から来朝した高僧 無学祖元 仏光国師(むがくそげん ぶっこうこくし)、
円覚寺創建の主な目的は、蒙古襲来で戦没した多くの霊を敵味方なく弔うことであった。

円覚寺は鎌倉五山の第二位に当たるが、そもそも「鎌倉五山」って何だろう。

(横須賀線左側、臨済宗大本山 円覚寺入口、階段上が総門)


禅宗の五山は(Wikipedia)によれば、
(五山制度はインドの五精舎にならい、
中国の南宗末期に禅宗の保護と統制のため格式高い五つの寺を定めたことに由来する。 

鎌倉幕府が 開かれる前年の建久2年(1191)に、
南宋から帰国した僧侶栄西らによって伝えられた禅宗は、
その後隆盛を極め、
鎌倉時代の末期に、幕府により次々と大寺院が建立された。

北条氏は、南宋にならい五山制度を導入、鎌倉の主な禅刹を五山と 呼ぶようになり、
鎌倉幕府滅亡後の室町初期には鎌倉、そして京都にそれぞれに五山が定められた。ー中略。
鎌倉五山は、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の五山。
その後、京都五山が決められ、

五山の上に南禅寺が置かれた。
もともとは、寺を格付け管理するための足利氏の政治政略的な格付け、
官が任命権をもって順次格式の高い寺に昇任させる制度。)とある。

鎌倉五山は、建長寺(第一位)、円覚寺(二位)、寿福寺(三位)、浄智寺(四位)、浄妙寺(五位)。

京都五山は、天龍寺(第一位)、相国寺(二位)、建仁寺(三位)、東福寺(四位)、万寿寺(五位)。

五山の上に南禅寺が置かれた。

僧侶は、五山の第五位の寺で修行して、修行が成ると昇格して、次は四位の寺に移り、
更に高僧になると三位へ、そして二位、一位へと昇格していったようだ。
お坊さんも楽ではない、しっかり修行しないと昇格できない。
現在のサラリーマン世界の昇格に似ている。

東海道線「大船駅」で横須賀線に乗り換え「北鎌倉駅」で降りると、
目の前が「円覚寺」である。
横須賀線はここで円覚寺の境内を横切っているのだ。
北鎌倉駅の右手に白鷺池があるが、これは円覚寺のものである。

「大本山円覚寺」の石柱のある参道は
左右に静かなたたずまいの白鷲池を見て進むと、
横須賀線の踏切があり、これを越えると、
右に「臨済宗大本山 円覚寺」の石柱があり、左手には「北条時宗公御廟所」の石柱がある。
この二つの石柱の間を階段で進むと「総門」になる。
総門の扁額に「瑞鹿山」と書かれている。

(横須賀線右側の入口、踏切が見える円覚寺境内)

(白鷺池)

(踏切を渡って「臨済宗 大本山 円覚寺」の総門になる。)

(扁額に「瑞鹿山」とある)


ここにある扁額の「瑞鹿山ずいろくさん(めでたい鹿のおやま)」は、
仏殿開堂落慶の折、開山・無学祖元禅師の法話を聞こうとして、
白鹿が集まったという逸話からつけられたといわれ、
「如意庵」(今は喫茶ルームになっている)の先に、
白鹿が集まったと言われる場所「白鹿洞」がある。

(無学祖元禅師の法話を聞きに鹿が集まった「白鹿洞」)

(山門)


話が反れてしまったが、「瑞鹿山」の総門を過ぎ、
さらに階段を進むと「山門」であり、
ここにある扁額に写真では見難いが「園覚興聖禅寺」と書かれている。
文字は、伏見上皇の勅筆であると言う。(円覚寺より)

その先に仏殿があり、扁額には「大光明寶殿」と記されている。
円覚寺のお宝が納められているに違いない。

ここには円覚寺の本尊である宝冠釈迦如来坐像が安置されている。
お釈迦様が宝冠を戴いている珍しい仏像である。
関東大震災で倒壊したが、昭和39年(1964)再建され、
天井には日本画家 前田青邨画伯監修 守屋多々志画伯作「白龍図」がある。
宝冠釈迦如来の足下に、二抱えもありそうな巨大木魚が目を引いた。
これらがお宝なのであろう。
  
(仏殿)

(扁額の「大光明寶殿」)

(本尊 宝冠釈迦如来坐像)

(天井画 白龍図)

(巨大木魚)




「 たった一度の人生!
         楽しんで終わりたいものです!」 hide-san




(つづく)

美人―傾城―花魁

2015年07月07日 05時08分46秒 | ひとり歩き旅
美人の事を傾城と言うのを、最初は落語で花魁(おいらん)の事とばかり思っていた。
高校生になって漢文の授業で、唐詩の「長恨歌」を習い、
これは、(漢の皇室 傾城を重んじ・・)で始まる、
玄宗皇帝と楊貴妃の熱愛の物語である。

美人妻を娶った皇帝が、
妻に夢中になり、治世をないがしろにして、
領民を苦しめ兵士も規律がなくなり、武力も衰退すると、
周りの国から攻め込まれ、王城は陥落する。
こんなケースが中国歴史の中で繰り返された。

美人妻は城を傾けると言うので、美人女性の事を傾城と言うのを知った。


そんなことを知ってか、夏にだけやって来て、
一晩でいなくなってしまう我が家の美人。
美人薄命とは良く言ったもの。何週間も待ちくたびれてやっと今日、
やって来て、華やかな姿を見せてくれたと思ったら、
夜中に旅だってしまった。

その美人の素顔をご覧ください。
(月下美人)



我が家の美人が去った後に、次にやってくる美人の子供。
早く大きく華やかに育ってほしいもの。
(蕾)


駆け込み寺 東慶寺

2015年07月03日 08時03分12秒 | ひとり歩き旅
最近、映画「駆け込み女と駆け出し男」を見に行った。
終盤の、残り10分で映画も終わりになるころ、
マグニチュード6.6の地震で揺られた。
もちろん映画は中断した。

(鎌倉のアジサイは今が盛り)


暗闇の中、真っ先に心配したのが天井、でも落ちてきそうもない。
隣りにいたカミさんがしがみ付いてくるが、
ボクにも手の施しようがない。
ずいぶん長く感じたが、震度4強と揺れの感じはというと、
すごく強かったと驚く程でもなかった。

なぜだろうと、後になって考えたが、どうも震源地の深さが50kmと深かったことで、
マグニチュード6.6の割には震度の感じ方はもうちょっとのようであった。
震源がもし5kmと浅かったら、二度目の関東大震災になっていたように思われる。

さて、映画は中断したままで、係りの人が
「料金を払い戻しますので、帰るかたは券売所にお出で下さい。
映画の続きは間もなく始まります」
とアナウンスする。

ボクは前回の3.11のことも有り、
家に何か問題でも起きていると面倒と、払い戻ししてもらい帰ることにした。
つまりタダで映画を見たようなもの。
3.11の時は、温水器の配管が折れて、お湯が噴出していた。
我が家は西洋式アパート。つまり8階建てのマンションの五階。

偶然にも、在宅していたから良かったが、それでもお湯が床に2cmほど溜まった。
直ぐに、水道管の元栓を止め、お湯を風呂場に汲みだした。
こんな時、頭が柔軟でないと駄目で、カミさんは雑巾にお湯をしみ込ませて、
お風呂場へ絞り出している。これでは遅々として進まない。
ボクは「塵取り」を持ってきて、ゴミならぬ水を汲みだした。
水は階下に漏れることなく汲みだしは終わった。

留守だった家は階下に漏れて、階下の天井から畳までびっしょり濡れ、大惨事になった。
双方ともお留守であったための惨事であった。
しかも、自分の家は地震保険が下りても、階下の賠償までは保険は下りない。
賠償保険なんて1500円程といくらでもないのに、保険に加入する時には思いつかないものである。

(東慶寺門前階段横のアジサイ)


話を戻すと、映画の「駆け込み寺」とは、鎌倉に有る東慶寺の事である。
昔は、女房は別れたくても、亭主が三行半を書かない限り、離婚できなかった。
そこで離婚したい女は、鎌倉に有る東慶寺に駆け込み2年間、
亭主と別れて寺で修行していれば、亭主は離縁状を書かなければならなかった。
これで女性は晴れて離婚が出来た。

そもそも松岡山 東慶寺は、元和元年(1615)大阪城落城後、家康の命により、
家康の孫であり秀頼の正室・千姫の養女として、
わずか七歳で東慶寺に入寺された、20世住職・天秀尼。
天秀尼は太閤秀吉の孫娘で、入寺の際、家康より願いは無いかと訊かれ、
「開山以来の寺法断絶なきよう」願ったと言う。
これが縁切寺法で、江戸時代を通じて守られることになったと言う。

江戸の町から鎌倉まで、亭主に見つからないように来て、
寺に駈け込めればよいが、寺の階段の途中で捕まったら、離縁できない。
そこで、身に付けた物、たとえば草履とか、かんざしとかを門内に投げ込めば、
駆け込み成立と言うことになっていた。

前置きが長くなった。
東慶寺はその駆け込み寺で、門前には長い階段がある。

(東慶寺の柱)

(東慶寺門前の長い階段)

(門前のアジサイ)


長い階段左右にはアジサイが咲き乱れている。
アジサイの写真を撮る人の邪魔にならないように階段を上ると、
山門があり、その先右手に拝観料の徴収場所があって、
参道はまだ先に延びている。
左手に鐘楼があり、間もなく右手に本堂「泰平殿」がある。

(本堂)

(泰平殿)

(泰平殿内の釈迦如来坐像)


女性が三行半を亭主に書かせるお寺さんなのに、
本堂で、亭主のボクが、今後の夫婦円満をお祈りして退出。
なんかおかしいのでは?
と思いながら、さらに先に進む。

鎌倉の寺院には、著名人の哲学者、文学者、実業家が多く眠っているが、

東慶寺には、
安倍能成(哲学者で学習院大学長)
出光佐三(出光石油の怪物)
岩波茂雄(岩波書店の創業者)
前田青邨(日本画家)
小林秀雄(文芸評論家)
西田幾多郎(哲学者)etc.
多くの方が眠っているそうだ。
(西田幾多郎は京都の「哲学の道」を散策された方。)

(境内先の墓苑)

(墓苑手前の釈迦如来)

((釈迦如来の後ろに咲く花菖蒲)

(アジサイ)


境内の宝蔵には、寺伝来の仏像、聖観音菩薩立像(*)や東慶寺文書(離縁状)など(重要文化財)が展示されている。
境内のアジサイを愛でながら戻り、山門をくぐり階段を下りて、
東慶寺を出て右折すると、映画にも出てきた「かけこみ寺旧跡」の標柱があった。
(*)聖観音菩薩立像は鎌倉尼五山の第一位の大平寺に有った本尊。
   本堂は現円覚寺舎利殿、大平寺は廃寺になった。)

(聖観音菩薩立像)

(山門の階段)

(「かけこみ寺旧跡」の柱)



「たった一度の人生!
                      楽しんで終わりたいものです!」     hide-san


Potora!  NTTグループ運営!