京都の春、ちょうど受験シーズンには多くの参詣客でにぎわう北野天満宮。 かくいう私めも、子どもたちの受験の時は、ここをお参りし、合格祈願のお守りを買い求めたものである。その事もずいぶん昔のことになってしまった。 北野天満宮も、学生時代から通学路みたいな形でよく通り抜けたものだ。 北野天満宮のすぐそばを流れる紙屋川沿いの小径を抜けて学校に通うのがお気に入りのコースだった。 その紙屋川を北へ登って . . . 本文を読む
大安寺から南へ道路を渡り、元岩清水八幡宮の鎮守の森を通り抜けるとただっ広い空き地がある。その中に大安寺の東西の塔跡がある。
大安寺は、最近の発掘調査により、境内の真ん中を六条大路が通っており、その南側に塔を中心とする塔院があったと考えられている。
大安寺の塔は、大安寺が奈良に移転してから、天平10年頃に、あらかたの伽藍が整えられたのちに、東塔は奈良時代後半に、西塔は奈良時代の末期から平安 . . . 本文を読む
前回に引き続き大安寺という事で、やっと境内の中に入る。
大安寺の南門。ここから境内に入る。この門は、興福寺の旧一乗院の門を移築したものである。
ちなみに南門は、大安寺の南大門跡の上に建っている。
大安寺の歴史をおさらいしておこう。聖徳太子が建立した熊凝精舎が前身という言い伝えがあるもののはっきりしているのは以下の通り。
639年 百済大寺 建立
673年 高市の地 . . . 本文を読む
杉山古墳を出て、南へ向かって大安寺に向かう途中、大安寺北面中房跡と記された空き地があり、礎石と基壇が復元されていた。
奈良時代、大安寺には887人もの僧侶がいたらしく、その僧侶たちの住まいである僧房も東・北・西の三面に二重で建てられており、ここで復元されているのは、北側にあったものである。下の写真は北西中房である。
また、同じ場所に「旧大安寺村役場跡」と記された石碑も建ってい . . . 本文を読む
慶雲寺を出て、これからいよいよ箸墓古墳に向かう。今回は、後円部から古墳に近づいていく。墳丘の樹木が、かなり伐採をされていて、隙間から墳丘の姿が見える。
よく観察してみると段丘になっているのがわかる。ちなみに後円部は、円丘部を入れて5段、前方部は4段となっているそうだ。
後円部は、道路からは、墳丘が高すぎてわからないが、前方部は、確かに4段になっている . . . 本文を読む
茶ノ木塚古墳から北口塚古墳の前を通って、ホケノ山古墳へ。
【ホケノ山古墳】前方後円墳 全長85m
ホケノ山古墳は、何度となく来ているのだが、そのたびに新しい発見がある。
今回は、ホケノ山古墳には、築造時(3世紀の中頃)造られたものと6世紀に造られた横穴式石室の二つの埋葬施設の位置をビニールテープで示してくれている。
そうい . . . 本文を読む
巻野内石塚古墳からホケノ山古墳までの道のりは、田園の中を残土かと間違うような小さな古墳がポツポツと顔を出す。これらの小古墳、ちゃんと名前があるから面白い。サシコマ古墳などはどういう意味なんだろうかと思う。
※サシコマ古墳の名称については、明治以前にこの辺りに牛を埋めていたという伝承からこの名がついたら しい。
【サシコマ古墳】円墳 径約13m
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今年の2月の末、桜井市の観光協会が主催するイベント、箸墓古墳の周濠を歩くに参加。このイベントは、箸墓古墳に隣接する大池の掻い掘りの際に、池の水を抜いた後に実際に降りて、箸墓古墳を目の前で見ようというもので、このタイミングでしか、墳丘に近づくことができない、一部の古墳ファンには人気のあるイベントである。
これまで、2020年に一度参加しているのだが、その時は、途中から雨が降ってきて、中止となっ . . . 本文を読む
北花内大塚古墳から、新庄駅をめざして歩いていくと、途中、葛城市の役所があり、市役所の建物と新庄駅の間に、柿本神社という小さな神社がある。この神社、万葉歌人、柿本人麻呂とゆかりのある神社であるらしい。
そういえば、この辺りの地名も柿本だ。
石鳥居をくぐって社地に入ると、正面に拝殿がある。この神社は、柿本人麻呂を祭神としている。そのため、拝殿には、三十六歌仙の額が掲げられているのだが、 . . . 本文を読む
三条通を越えると寺町通はアーケード街になる。和菓子屋や古書店などこれまたいろいろな店舗が軒を並べるのだが、所々にシャッターが閉じたままになっているところもある。
昔に比べると人通りも少なくなったような気がする。学生の頃は、この辺りは観光客や修学旅行生でごった返していたのだが・・・。もしかしたらコロナ禍が終わって観光客が帰ってくれば、元の通りになるのかもしれない。
そして、寺町通を下るとす . . . 本文を読む
宝泉院から勝林院の前を折れて、後鳥羽天皇、順徳天皇大原陵の横を通り、律川を渡って、三千院に向かう。
三千院までは少し登りになっており、両側には近江の穴太衆が作ったと言われる石垣が続いていた。そして、もうお昼だというのにまだ雪が残っていた。いかにも人里離れたわびしい佇まいであった。
三千院については、以前もこのブログで取り上 . . . 本文を読む
京都の大学を卒業した娘の引っ越しの手伝いに上洛。ついで自転車も引き上げないとなということで、京都から大阪まで自転車で行ってやろうと計画。ちょうど娘の住んでいたところは、かつて平安宮の中心施設大極殿があった場所に隣接している。ついでに平安京の南北の大きさも体感してみようと思い立ち、朝11時、平安宮大極殿跡を出発した。
まずは、大極殿跡から、昔の平安京の朱雀 . . . 本文を読む
令和4年9月23日(祝)
今年は壬申の乱が1350年という事で、奈良県ではいろいろな場所で壬申の乱に関連するいろいろなイベントが行われている。今回は、桜井市の観光ボランティアガイドの会が主催する歴史ハイキングに参加してきた。
壬申の乱については、少し憶い入れがあり、学生時代に古代史について、面白いなあと改めて再認識したのが、北山茂夫氏の「天武朝」「壬申の内乱」「万葉の時代」だった。そんなこ . . . 本文を読む
「難関古墳をあるく」の第二弾は、奈良県の御所市にある巨勢山古墳群の一つ、巨勢山323号墳。巨勢山古墳群は、巨勢山丘陵全体に渡って、総数800基に及ぶとされる日本有数の群集墳である。その築造された時期も古く、4世紀末から築造が始まり、群形成のピークは6世紀中ごろと考えられ、最終的には7世紀の中ごろまで築造が続いている。今回の巨勢山323号墳は、この古墳群の最終段階に築かれた古墳である。
かつて . . . 本文を読む
山道を昇り降りしてイノラムキ古墳の横穴式石室の前に到着した。羨道部の天井石が崩れているため、一瞬、ギョッとするが、意外と全体的に安定している感じだ。
羨道の側壁の石が結構薄いので天井石の重さに耐えきれず崩れてしまったのかな。羨道部と考えられるところは石が崩れて横からも入れる。羨道部側壁は一段のようだ。
墳丘は、東西13m、南北18mの方墳、墳丘を区画するための列石がいくつか残 . . . 本文を読む