以前から、犬養孝博士の「万葉の旅」に出てくるところを自分で追体験をしてみたいということで、以前からぷらぷらと大和の国を歩いていた、今回は、「うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟(いろせ)と我が見む」という歌で知られる二上山に初めて奈良側から上った。最近、折口信夫氏の「死者の書」などを読んで、そういえば二上山は眺めたことがあるが、実際に登ったことはないなあということで、結構軽い気持ちで登り始めたのだが、これが結構大変だった。
ふたかみパークに自動車を置いて、駐車場の出口にある案内板に従って、大津皇子の墓所がある雄岳に向かうのだが、途中道がわからなくなり、最終的には、香芝市の貯水タンク横の上の池登山口から登ることになった。(近鉄のHPで入手した地図には、ここの登山道のみのっていた。)
沢沿いの登山道をひたすら登る。結構傾斜もきつく、二上山って観光化されてるんじゃないのと思いながらひたすら山道を前に進む。
30分から40分ほど歩いて、やっと標識を見つける。中間地点なのか?標識に従い左に折れると、さらに傾斜のある道を登ることになる。その道を登り切るとやっとなだらかな尾根道になった。
眼の前にある標識には、二上神社口駅と書いて別の方向を指し示している。どうやらはじめ探していた道はここに出るようだ。しかし、思ったよりかなり険しい。行きかう人たちは結構本気で登山にいている人がほとんど。観光気分で登るのはほとんどいない。小説「死者の書」を読んで気分を味わいに来た人間なぞ皆無に等しいんじゃないだろうか。
そろそろ頂上と思へど、道は険しくなり、鉄製の階段などを登っていくことになる。そしてやっと眺望が開けたと思ったら、大津皇子の墓所の隣に出てきた。今回の登山の一番の目的の大津皇子二上山墓に着いた。
「万葉の旅」という本の中では、大津皇子墓として、「あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我立濡れぬ 山のしづくに」という歌をひいている。そして大津皇子というとどうしても悲劇の皇子という印象を思い起こす。
大津皇子墓については、ぐるりと一周できるようになっている。一周しながら、森の中にある塚を眺める。
確かに円墳のようにも見える。
しかし、ここに大津皇子を葬ったということを記載した文献はないのだそうだ。大伯皇女の歌からみんな漠然とそう思ったのかもしれない。
中世に、二上山城があり、その二の丸の後ではないかという説がある。本丸は、葛木坐二上神社のあるあたりだという。神社の拝殿の横に写真のような経塚があるが、これも城郭の遺構なのかも知れない。
中世の城郭遺跡については、よくわからないので何とも言えない。ただ、考古学から見ると、この時代の古墳で山の頂に作る例はないだろうし、当時の人の意識から考えても、いくら冤罪かも知れないが処刑された人を葬るといったこともないような気がする。
ただ、気持ちとしては、ここに大津皇子の魂が眠っていると考えたい。
このあとずっと急な階段を下って行って、雄岳と雌岳のあいだにある馬の背に出る。ここで雌岳の登り口ところにベンチが並んであったので、昼食をとる。
そこで撮った写真が、見出しの写真である。
そのあと、鳥谷口古墳がみたいので祐泉寺方面と書かれた道を下っていく。うっそうとした森の中を抜けていくのだが、行きよりは少しましかもしれないが、それでも結構険しい。湧き水で石がぬれていて滑り易くなっていたりする。
それでも、祐泉寺に着いた時は、お寺の新緑が映えて非常に美しかった。
このあとは、完全に人里に出た。
そうすると、左手に鳥谷口古墳が見えてきた。近年、土取り工事の途中に偶然発見された古墳である。築造年代は7世紀後半と言われ、横口式石槨を持つ古墳なのだが、古墳の部品を集めて作ったような埋葬施設であり、いかにも急ごしらえで築造されたことが想定されることから、これが大津皇子の本当の墓ではないのか言われている。
その埋葬施設については、柵越しに見ることができる。
飛鳥の地から望むのであれば、ここに大津皇子の魂が眠っていても不思議ではないような気がするが・・・。
このあと、郡山藩主本多政勝候の菩提をとむらうため、その影堂として、恩顧の家臣やこの地域の農民たちによって延宝2年(1674)に建立された傘堂を見学して帰途についた。
二上山ってもっとなだらかな登りやすい山だと思っていましたが、岩山で本当に険しい、これは本当に登山をしたという感じです。でも楽しかったですよ。
↑上の池登山口はここ。
ふたかみパークに自動車を置いて、駐車場の出口にある案内板に従って、大津皇子の墓所がある雄岳に向かうのだが、途中道がわからなくなり、最終的には、香芝市の貯水タンク横の上の池登山口から登ることになった。(近鉄のHPで入手した地図には、ここの登山道のみのっていた。)
沢沿いの登山道をひたすら登る。結構傾斜もきつく、二上山って観光化されてるんじゃないのと思いながらひたすら山道を前に進む。
30分から40分ほど歩いて、やっと標識を見つける。中間地点なのか?標識に従い左に折れると、さらに傾斜のある道を登ることになる。その道を登り切るとやっとなだらかな尾根道になった。
眼の前にある標識には、二上神社口駅と書いて別の方向を指し示している。どうやらはじめ探していた道はここに出るようだ。しかし、思ったよりかなり険しい。行きかう人たちは結構本気で登山にいている人がほとんど。観光気分で登るのはほとんどいない。小説「死者の書」を読んで気分を味わいに来た人間なぞ皆無に等しいんじゃないだろうか。
そろそろ頂上と思へど、道は険しくなり、鉄製の階段などを登っていくことになる。そしてやっと眺望が開けたと思ったら、大津皇子の墓所の隣に出てきた。今回の登山の一番の目的の大津皇子二上山墓に着いた。
「万葉の旅」という本の中では、大津皇子墓として、「あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我立濡れぬ 山のしづくに」という歌をひいている。そして大津皇子というとどうしても悲劇の皇子という印象を思い起こす。
大津皇子墓については、ぐるりと一周できるようになっている。一周しながら、森の中にある塚を眺める。
確かに円墳のようにも見える。
しかし、ここに大津皇子を葬ったということを記載した文献はないのだそうだ。大伯皇女の歌からみんな漠然とそう思ったのかもしれない。
中世に、二上山城があり、その二の丸の後ではないかという説がある。本丸は、葛木坐二上神社のあるあたりだという。神社の拝殿の横に写真のような経塚があるが、これも城郭の遺構なのかも知れない。
中世の城郭遺跡については、よくわからないので何とも言えない。ただ、考古学から見ると、この時代の古墳で山の頂に作る例はないだろうし、当時の人の意識から考えても、いくら冤罪かも知れないが処刑された人を葬るといったこともないような気がする。
ただ、気持ちとしては、ここに大津皇子の魂が眠っていると考えたい。
このあとずっと急な階段を下って行って、雄岳と雌岳のあいだにある馬の背に出る。ここで雌岳の登り口ところにベンチが並んであったので、昼食をとる。
そこで撮った写真が、見出しの写真である。
そのあと、鳥谷口古墳がみたいので祐泉寺方面と書かれた道を下っていく。うっそうとした森の中を抜けていくのだが、行きよりは少しましかもしれないが、それでも結構険しい。湧き水で石がぬれていて滑り易くなっていたりする。
それでも、祐泉寺に着いた時は、お寺の新緑が映えて非常に美しかった。
このあとは、完全に人里に出た。
そうすると、左手に鳥谷口古墳が見えてきた。近年、土取り工事の途中に偶然発見された古墳である。築造年代は7世紀後半と言われ、横口式石槨を持つ古墳なのだが、古墳の部品を集めて作ったような埋葬施設であり、いかにも急ごしらえで築造されたことが想定されることから、これが大津皇子の本当の墓ではないのか言われている。
その埋葬施設については、柵越しに見ることができる。
飛鳥の地から望むのであれば、ここに大津皇子の魂が眠っていても不思議ではないような気がするが・・・。
このあと、郡山藩主本多政勝候の菩提をとむらうため、その影堂として、恩顧の家臣やこの地域の農民たちによって延宝2年(1674)に建立された傘堂を見学して帰途についた。
二上山ってもっとなだらかな登りやすい山だと思っていましたが、岩山で本当に険しい、これは本当に登山をしたという感じです。でも楽しかったですよ。
↑上の池登山口はここ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます