嵐電宇多野駅から文徳天皇陵の最寄り駅鳴滝へ向かう。宇多野-鳴滝間は、春の季節は、桜のトンネルを抜ける光景が見ることが出来るのだが、今回は、残念なことにその時期は過ぎていた。それでも新緑の林の中を抜けていく景色を見ることが出来た。
鳴滝駅に着いた。ここも閑静な高級住宅街が駅の前に広がる。
住宅街の中を西を向いて歩いていくと、参道の入り口に出る。
ここから、拝所までは少し距離がある。
細長い参道を歩いていくと、途中大きな池があり、その真ん中を縦断することになる。水が怖い私はちょっとビビってしまう。
不安を感じつつも、そこを渡り切ってしまうと、拝所がある。陵自体は、少し上にあるようだ。
全体を眺めるに、どことなくこれまでの天皇陵と様子が違う。どうもこの陵がある丘全体が陵墓となっている様子である。
そして、残念なことに、陵の周りをぐるっと周辺を一周することは、道がなく、できないようだ。
ここで、文徳天皇について少し触れてみる。
文徳天皇は、平安時代初期の天皇で、名は道康、父は仁明天皇、母は藤原冬嗣の娘、藤原順子。承和の変で恒貞親王が皇太子を廃されたのちに皇太子となり、仁明天皇の後を受けて、850年に践祚。
文徳天皇の治世においては、母、順子の兄弟、藤原良房次第に権勢を強めており、天皇の皇太子において、天皇は第一皇子惟喬親王の立太子を望んだが、藤原良房らの反対などもあり、実現するに至らず、良房の娘である女御明子の子、第四皇子惟仁親王(のちの清和天皇)を皇太子とした。
のちの摂関政治へと藤原氏が台頭してくるきっかけとなった。
文徳天皇は、858年、32歳で崩御。真原山陵に埋葬されたと伝わるが、ほどなくして所在不明となっている。
江戸時代、文久の修陵の際に、御廟山といわれた現在地を修補し、文徳天皇陵としている。
ただし、陵墓とされているものは、古墳時代後期の横穴式石室を持つ古墳であると言われている。ちなみに遺跡名は、太秦三尾古墳である。
この後は、再び嵐電に乗って、天皇陵を探すことにしよう。
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