はざみ山古墳を見学したのち、まずは藤井寺駅をめざして北へ向かって歩く、葛井寺の横に連なる商店街を抜けると近鉄藤井寺駅に着く。そこから、線路を渡り、東西に走っている府道を西へ歩くと右手に雄略天皇陵に治定されている島泉平塚古墳、島泉丸山古墳が見える。ちなみにこの2つの古墳は羽曳野市にある。どうも藤井寺市と羽曳野市の市境は結構複雑になっている様子である。
拝所は、陵墓の東側にあるのだが、この古墳が珍妙な形になっている。江戸時代末期の雄略天皇陵として治定されたのは、島泉丸山古墳だけでだったらしいのだが、明治になって、このころの古墳は前方後円墳という知識が入り、円墳である島泉丸山古墳の東側にあった、方墳である島泉平塚古墳を巻き込んで前方後円形に仕立てている。なので陵域の中を島泉丸山古墳の濠がある奇妙なことになっている。
この状況は、Googleなどの航空写真を見ると一目瞭然なので参考にリンクを貼っておく。
〈島泉丸山古墳 地図〉
拝所がある島泉平塚古墳は、一辺50m、高さ8mの方墳で、無理矢理、島泉丸山古墳とくっつけられているので、島泉平塚古墳と丸山古墳の間は平坦地となっていて、墳丘らしきものはなさそうである。
無理矢理くっつけたものだから、中心の軸がずれているので、本来墳丘がありそうな場所に家が建っている状況なので、丸山古墳の古墳全体は結構見やすくなっている。前方後円墳であれば、こういう風景は見れないはずである。
「高鷲原」と書かれた石碑も妙な感じである。どうも落ち着かない気がする。明治政府もやっちゃったなあという感じである。
島泉丸山古墳については、直径75m、高さ8mの円墳であり、周囲を幅20mの周濠が囲んでいる。なお北側の周濠は近世に改変が加えられたものである。古墳の築造については、5世紀後半から6世紀と言われているが、明確なものはなさそうである。
それらの古墳の埋葬者として考えられている雄略天皇は、倭の五王のうちの最後、武王にあたる人物と考えられている。群馬の稲荷山古墳から出土した鉄剣に書かれた「ワカタケル」大王は、雄略天皇を指しているとされ、大和王権の勢力範囲は、九州から関東まで広がっていたと考えられている。
しかし、それだけの力のあった大王の御陵としては、島泉丸山古墳では小さすぎるということで、早い段階から、雄略天皇陵としては疑問視されていた。そこで、この古墳より西、松原市にある河内大塚山古墳が有力視されていたが、近年、今城塚古墳などの発掘調査から、河内大塚山古墳の築造年代も、今城塚古墳に近い時代と考えられるようになり、真の雄略天皇の陵とは言えなくなってきている状況になっている。また、例えば、森浩一氏は、「天皇陵古墳への招待」という本の中では、むしろ島泉丸山古墳の方が雄略天皇陵と考えるのに疑問がないとこれまでの考え方を変えている。最近は、河内大塚山古墳よりも土師ニサンザイ古墳あるいは岡ミサンザイ古墳の方を、雄略天皇陵と考える研究者が多いようである。
島泉丸山古墳から北へ住宅街の中を歩いていくと、一辺20mの方墳と考えられている隼人塚古墳があり、雄略天皇陵い号陪冢とされている。
住宅に囲まれていて、住宅の隙間を縫って墳丘に近づくことができる。墳丘の上に石碑が立っているが、残念ながら文字を読み取ることはできなかった。
地元では、「ハイト塚」と呼ばれており、「歯痛神」として親しまれているらしく、石碑ももしかしたらそういうことを刻んでいるのかもしれない。歯痛→ハイト→隼人と変換されたみたい。日本書紀の清寧天皇のときの隼人から連想されたのかもしれない。
しかしながら、隼人塚古墳の位置が、島泉丸山古墳から100mほどとかなりの距離があるため、陪冢ではないという話もある。また、古墳であることを疑問視する声もあるようだ。
とにかくこの隼人塚古墳で、古市古墳群の現存している古墳は完全制覇することができた。我ながら頑張って、よく歩いたもんだ。
拝所は、陵墓の東側にあるのだが、この古墳が珍妙な形になっている。江戸時代末期の雄略天皇陵として治定されたのは、島泉丸山古墳だけでだったらしいのだが、明治になって、このころの古墳は前方後円墳という知識が入り、円墳である島泉丸山古墳の東側にあった、方墳である島泉平塚古墳を巻き込んで前方後円形に仕立てている。なので陵域の中を島泉丸山古墳の濠がある奇妙なことになっている。
この状況は、Googleなどの航空写真を見ると一目瞭然なので参考にリンクを貼っておく。
〈島泉丸山古墳 地図〉
拝所がある島泉平塚古墳は、一辺50m、高さ8mの方墳で、無理矢理、島泉丸山古墳とくっつけられているので、島泉平塚古墳と丸山古墳の間は平坦地となっていて、墳丘らしきものはなさそうである。
無理矢理くっつけたものだから、中心の軸がずれているので、本来墳丘がありそうな場所に家が建っている状況なので、丸山古墳の古墳全体は結構見やすくなっている。前方後円墳であれば、こういう風景は見れないはずである。
「高鷲原」と書かれた石碑も妙な感じである。どうも落ち着かない気がする。明治政府もやっちゃったなあという感じである。
島泉丸山古墳については、直径75m、高さ8mの円墳であり、周囲を幅20mの周濠が囲んでいる。なお北側の周濠は近世に改変が加えられたものである。古墳の築造については、5世紀後半から6世紀と言われているが、明確なものはなさそうである。
それらの古墳の埋葬者として考えられている雄略天皇は、倭の五王のうちの最後、武王にあたる人物と考えられている。群馬の稲荷山古墳から出土した鉄剣に書かれた「ワカタケル」大王は、雄略天皇を指しているとされ、大和王権の勢力範囲は、九州から関東まで広がっていたと考えられている。
しかし、それだけの力のあった大王の御陵としては、島泉丸山古墳では小さすぎるということで、早い段階から、雄略天皇陵としては疑問視されていた。そこで、この古墳より西、松原市にある河内大塚山古墳が有力視されていたが、近年、今城塚古墳などの発掘調査から、河内大塚山古墳の築造年代も、今城塚古墳に近い時代と考えられるようになり、真の雄略天皇の陵とは言えなくなってきている状況になっている。また、例えば、森浩一氏は、「天皇陵古墳への招待」という本の中では、むしろ島泉丸山古墳の方が雄略天皇陵と考えるのに疑問がないとこれまでの考え方を変えている。最近は、河内大塚山古墳よりも土師ニサンザイ古墳あるいは岡ミサンザイ古墳の方を、雄略天皇陵と考える研究者が多いようである。
島泉丸山古墳から北へ住宅街の中を歩いていくと、一辺20mの方墳と考えられている隼人塚古墳があり、雄略天皇陵い号陪冢とされている。
住宅に囲まれていて、住宅の隙間を縫って墳丘に近づくことができる。墳丘の上に石碑が立っているが、残念ながら文字を読み取ることはできなかった。
地元では、「ハイト塚」と呼ばれており、「歯痛神」として親しまれているらしく、石碑ももしかしたらそういうことを刻んでいるのかもしれない。歯痛→ハイト→隼人と変換されたみたい。日本書紀の清寧天皇のときの隼人から連想されたのかもしれない。
しかしながら、隼人塚古墳の位置が、島泉丸山古墳から100mほどとかなりの距離があるため、陪冢ではないという話もある。また、古墳であることを疑問視する声もあるようだ。
とにかくこの隼人塚古墳で、古市古墳群の現存している古墳は完全制覇することができた。我ながら頑張って、よく歩いたもんだ。
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