2月27日(土)古市古墳群を横断する形で建設された西名阪自動車道の高架下にある赤面山古墳の現地説明会が開催された。赤面山古墳については、以前、このブログの中でも取り上げたことがあり、(「古市古墳群を歩く(藤井寺市編)⑤~大鳥塚古墳と赤面山古墳~」を参照)大鳥塚古墳と古室山古墳の間を通る西名阪自動車道の高架下に保存されている一見、ただの残土が積もったのかと思ってしまうような一辺15メートル、高さ2メートルの小さな方墳である。
今回、古墳の規模を確定させるために発掘調査が行われたものである。
【西側調査区】
墳丘の高まりは見られるが、葺石とかの外部施設は見つかっていないとのこと。
【東側調査区】
東側の調査区も西側と同様に葺石などの外部施設は確認されていない。濠があるかもということで調査範囲を広げたがそれも見つからなかったとのこと。
【北側調査区】
北側の調査区が一番保存状態がよく、葺石等の外部施設やテラス部分に置かれていた円筒埴輪が一部残存しているところが検出されている。
葺石も残っているが、かなり少ないので古墳全体を葺石が覆っていたとは考えにくく、一段目だけに葺石が置かれていたのではないかとのこと。
基底石についても、すでに破壊されているが、おかれていたであろう場所は確認されている。濠とかは検出されていない。
発掘調査の結果、赤面山古墳の墳丘については、一辺25メートルの2段築造の方墳であることが確認された。また、今回検出された円筒埴輪については、窯を使わない野焼きで製作されたものとのこと。この古墳と隣接している大鳥塚古墳のものと近いものなのだそうだ。円筒埴輪の他に形象埴輪の破片も北側の調査区で検出されている。
この円筒埴輪の特徴から赤面山古墳が築造されたのは、誉田山古墳に先立ち、4世紀の末から5世紀の初め頃のものであると考えられるという。北側にある古室山古墳とかかわるものはないかということで調査区を広げたらしいのだが、残念ながら、見つけることはできなかったとのこと。
この赤面山古墳については、この古墳自体というよりも、この古墳の保存を可能にした自治体の先見性に目を見張るものがある。赤面山古墳が史跡に指定されたのは昭和31年のことであり、宅地開発から守るために大鳥塚古墳や古室山古墳などと一緒に指定を受けたという経緯がある。そしてそのことが、西名阪自動車道の建設から古墳を守ったことになったのである。今後の文化財行政を考えていく上でいい手本になっているのではないかとも考えられる。この時代に、小さな古墳でも保存する意義を認めたことが凄いと思う。
この古墳が保存できた経過をきちっと市民に提示することで、文化財をどうやって残していくのかということを考える契機になると考えられる。そう考えるとせめて案内板ぐらいは欲しいなあ。これは、藤井寺市の文化財行政が誇るべき仕事なんですよ。
調査地から北へ目を移すと古室山古墳の後円部にある梅林が目に入る。梅の花は咲き始めていた。春はすぐそこまで来ているのである。
今回、古墳の規模を確定させるために発掘調査が行われたものである。
【西側調査区】
墳丘の高まりは見られるが、葺石とかの外部施設は見つかっていないとのこと。
【東側調査区】
東側の調査区も西側と同様に葺石などの外部施設は確認されていない。濠があるかもということで調査範囲を広げたがそれも見つからなかったとのこと。
【北側調査区】
北側の調査区が一番保存状態がよく、葺石等の外部施設やテラス部分に置かれていた円筒埴輪が一部残存しているところが検出されている。
葺石も残っているが、かなり少ないので古墳全体を葺石が覆っていたとは考えにくく、一段目だけに葺石が置かれていたのではないかとのこと。
基底石についても、すでに破壊されているが、おかれていたであろう場所は確認されている。濠とかは検出されていない。
発掘調査の結果、赤面山古墳の墳丘については、一辺25メートルの2段築造の方墳であることが確認された。また、今回検出された円筒埴輪については、窯を使わない野焼きで製作されたものとのこと。この古墳と隣接している大鳥塚古墳のものと近いものなのだそうだ。円筒埴輪の他に形象埴輪の破片も北側の調査区で検出されている。
この円筒埴輪の特徴から赤面山古墳が築造されたのは、誉田山古墳に先立ち、4世紀の末から5世紀の初め頃のものであると考えられるという。北側にある古室山古墳とかかわるものはないかということで調査区を広げたらしいのだが、残念ながら、見つけることはできなかったとのこと。
この赤面山古墳については、この古墳自体というよりも、この古墳の保存を可能にした自治体の先見性に目を見張るものがある。赤面山古墳が史跡に指定されたのは昭和31年のことであり、宅地開発から守るために大鳥塚古墳や古室山古墳などと一緒に指定を受けたという経緯がある。そしてそのことが、西名阪自動車道の建設から古墳を守ったことになったのである。今後の文化財行政を考えていく上でいい手本になっているのではないかとも考えられる。この時代に、小さな古墳でも保存する意義を認めたことが凄いと思う。
この古墳が保存できた経過をきちっと市民に提示することで、文化財をどうやって残していくのかということを考える契機になると考えられる。そう考えるとせめて案内板ぐらいは欲しいなあ。これは、藤井寺市の文化財行政が誇るべき仕事なんですよ。
調査地から北へ目を移すと古室山古墳の後円部にある梅林が目に入る。梅の花は咲き始めていた。春はすぐそこまで来ているのである。
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