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朱色の鳥居をくぐって、何段あるんだろうかと思うほど長い階段を登っていくと談山神社の朱塗りの楼門と三方向を囲んだ拝殿と本殿が見えてくる。
そして、楼門の右手から拝殿の中には入ることができる。拝殿は山の斜面からせり出すように造られていて、これも舞台造りの一つなのだろう。
拝殿では、談山神社の由来を伝える「多武峰縁起絵巻」の江戸時代に筆写された摸本が展示されている。ありがたいことに、三脚の使用はできないが、写真の撮影はOKなので、いくつか心覚えのある場面について写真に収めた。
これは、のちに談山神社の名称の由来となった場面。蘇我入鹿を討伐するために、多武峰の談山(かたらいやま)にて、藤原鎌足と中大兄皇子が談合している様子。
蘇我入鹿が飛鳥板葺宮で暗殺された場面。首が飛んでますね。刀を持っているのが、中大兄皇子で、弓を弾いているのが、藤原鎌足、奥の女性が皇極天皇か?
これが、「乙巳の変」の始まりであり、ここから大化の改新スタートすることになる。
拝殿の回廊と釣り灯篭。緑が青々として美しい。もう少し時期を遅ければ、紅葉で真っ赤だったのだろう。
本殿。江戸時代の嘉永3(1850)年に造替。三間社隅木入春日造といわれるものらしい。日光東照宮の手本となったらしい。
ちなみに主祭神は、藤原鎌足である。
多武峰の縁起によると、もともとは、寺院で、飛鳥時代、藤原鎌足の死後、摂津の国の安威とい所に、埋葬されたが、(それが、現在茨木市にある大織冠神社、将軍塚古墳であると伝わる。)、鎌足の長男である定慧が、鎌足とゆかりの深い、この地に改葬し、十三重塔や講堂を建立し、法楽寺と称したと伝えられる。
談山神社の名称は、先も少し述べたが、本殿の裏山である中大兄皇子と藤原鎌足が談合した「かたらいやま」の故事から明治時代になって、廃仏毀釈により、寺院から神社に改めたときに談山神社と称した。
談山神社の拝殿と本殿を出て、西に少し進むと、これも重要文化財の十三重塔が、緑の樹々に囲まれて聳え立っている。
この十三重塔は、戦国時代の享禄5(1532)年に再建されたもので、木造十三重塔としては、世界で唯一のものであるらしい。
これも、もう少し後の時期であれば、さらに美しかったであろう。この時期でも十分に美しいけれど。
談山神社については、もう少し書きたいこともあるので、その2に続きます。
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