佐紀石塚山古墳から道を挟んでお隣にある佐紀陵山古墳。垂仁天皇皇后日葉酢媛命の「狭木寺之陵」として、宮内庁が管理している。ちなみに両古墳の間のある道で南を向いて左側にある古墳である。
先の「佐紀石塚山古墳」の所でも書いたが、両古墳が形成している谷のような場所を細い車一台通れるかというような細い道を道の両側の松並木や木々の間から覗く墳丘を眺めながら歩くのは何ともいえず楽しい。ただ惜しむらくは、墳丘が近すぎて、墳丘の全景を写真に撮ることはできないことである。
さて、佐紀陵山古墳は、墳丘長207mの前方後円墳で、4世紀末葉の築造であると考えられている。そしてこの古墳は、日本書紀等で埴輪起源神話で良く知られている。
日葉酢媛命は、垂仁天皇の二番目の皇后であり、丹波道主王の娘と伝えられ、垂仁天皇との間に、景行天皇の他二皇子二皇女を産んだとされる。
垂仁天皇が在任中、日葉酢媛命がなくなった折、これまで殉死が行われていた風習を、野見宿禰の進言に基づき、人形の埴輪を埋葬することで、殉死に替えたという説話である。ちなみに、日葉酢媛命の陵として治定されている佐紀陵山古墳には、人形埴輪は、見つかっていない。
また、手塚治虫の「火の鳥・ヤマト編」では、この埴輪起源説話がモチーフの一つとして使われている。
古墳を眺めていると、墳丘の裾は石垣で保護されており、後円部、前方部、造り出し部などがくっきりと見える。石垣がきれいなので、修復されたのは、割と新しいのかもしれない。
周濠は、お隣の佐紀石塚山古墳よりは広い、特に前方部は盾形になっていて、周濠の水も豊かである。
この古墳でも、盗掘は行われていて、特に大正時代の盗掘は克明に記録が残っている。後円部にある石室は、円筒埴輪に覆われた方形壇があり、その中に竪穴式石室が築造されており、内部は、石棺ではなく木棺であったという。鏡などの副葬品もあり、墳頂には衣蓋型埴輪や盾型埴輪が置かれていたらしい。
古墳時代前期後半(四世紀中ごろ)の大型前方後円墳で埋葬施設等が判明している数少ない事例である。埋葬施設で考えると、石塚山古墳が、長持形石棺を使用していると考えられるので、この古墳よりも後に造られたことは、この面からも裏付けられる。おそらく、佐紀盾列古墳群で一番最初に造られた大型古墳は、この古墳ではないだろうか?
また、佐紀陵山古墳とほぼ同じ形をしているのが、五色塚古墳や丹後の網野銚子塚古墳等畿内にいくつかある。特に日葉酢媛命自身、丹後の丹波道主王の娘であるという伝承は興味深いものがある。
この後は、佐紀石塚山古墳の前方部の前を通り、佐紀高塚古墳へ向かうようにしよう。
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