佐紀陵山古墳と佐紀石塚山古墳の間を通る道が、今度は佐紀高塚古墳の後円部の先端を通ることになるが、ここは、左折して。佐紀石塚山古墳の前方部、拝所の前を横切り、佐紀高塚古墳の前方部にある称徳天皇陵の拝所に向かうことにした。
佐紀高塚古墳(称徳天皇陵)の拝所は、周囲が水田に囲まれていて、非常に景色のいい場所にある。
この拝所は、春から秋にかけては、田園風景が絵になる。奈良にある陵墓の中でも、拝所までの参道の風景としては、ベスト3に入るような気がする。
この佐紀高塚古墳は、墳長127mの中型の前方後円墳で、狭いながら、周囲を周濠が巡っている。佐紀陵山古墳、佐紀石塚山古墳と同一の丘陵上に無理やり築造されており、他の二つの古墳とは違い、この古墳だけは、主軸を東西に向けている。ただこの二つの古墳の主軸と直交するように設計されていることから、当初から、この三つの古墳をこの丘陵上に造ろうという計画があったのかもしれない。
それぞれの古墳の被葬者は、何らかの密接な関係があったのだろう。(佐紀高塚古墳の被葬者は、他の二つの古墳と同格ではないだろうが。)
ただ、この佐紀高塚古墳については、あまり出土品などのデータがなく、古墳時代前期後半(四世紀代)の築造ではないかと言われている。
この古墳、北側からは、樹が多くてあまり展望が効かず、藪のようになっていて、わずかに周濠のようなものがあることが確認できる。
墳丘は、三段築造であるらしい。
拝所のある所から覗いてみると、周濠等が観察できる。
ただ、周濠に水は溜まっていない。この周濠については、江戸時代文久の修復の際に新たに造られたという可能性もあるようだ。
まあ、確かに地形図を見ても、墳丘の形が何となくいびつである。
佐紀高塚古墳については、何度か書いているように、奈良時代の称徳(孝謙)天皇の御陵とされている。この古墳が四世紀のものだとすると明らかに奈良時代の天皇である称徳天皇のものとは考えにくい。奈良時代は薄葬なので、山の中に埋めたという可能性はあるが、文献によると、全く違う場所が該当するようで、称徳天皇が建てた西大寺の西方、平城京の西北隅、京域の内外の境の場所、今の奈良自動車学校のあたりに埋葬されたのではないかと言われている。この辺りには高塚と言う地名が残っているらしい。
じゃあ、なぜというが、鎌倉時代以降に残る古い絵図などにこの古墳を称徳(孝謙)天皇陵とするものがあり、それを参考にしたのだろうと考えられている。しかし、なんとなく扱いが雑な気がするのは、称徳天皇に対する人気のなさに由来するのかな。それも、道鏡と天皇の関係がどうも暗い影を落としているのだろう。北山茂夫氏などは「女帝と道鏡」の中で結構厳しく書いておられる。
最近は、瀧浪貞子氏や里中満智子氏などの著作によって、少しずつ評価が変わりつつあるような感じである。
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