丹切15号墳から少し尾根を登ったところに、新たな墳丘を見つけたので傍に寄ってみた。
南側に回り込んでみると、くぼんだ所の奥に横穴式石室が大きな口を開けていた。
また、みつけたぞ~とばかりに石室に近寄ってみる。今度は、簡単に潜入が出来そうだ。
古墳の玄室の側壁と奥壁が残っており、中にはいとも簡単に入ることができる。
石室の形式は、すでに羨道部が破壊されているのでよくわからないが、残っている玄室の大きさは、幅1.7m、長さ2mを測る。
石室は、小ぶりな石材を乱積みにしているが、平べったい石も使っており、丹切33号墳につながっていくのかなと思ったりもする。
墳丘の上に登ってみると、天井石が露出している。
右手の石などはちょっと傾いているような気もする。奈良県遺跡地図によると、直径12m、高さ3mの円墳である。離れてみると少し腰高な感じがした。
この古墳の奥にももう一つ墳丘があり、少し期待して近寄ってみるも、すでに石室は破壊されおり、大きな孔があいているばかりであった。
たぶんこれが17号墳なのかな?
この向こうからは、山すそが広がっており、いくつか古墳らしきものを見つける。また樹木にはピンクのリボンがくくられており、古墳のありかを示しているのかもしれない。
足元を見ていても、どうも石室の痕跡ではなかろうかという所もあり、正直、これらが遺跡地図のどれにあたるのか皆目見当はつかない。
これらの群集墳は、かなり山を登っても存在しそうではあるが、この辺りで辞めておくのがいいのだろう。
そして、振り返るとさび付いた説明板の存在に気付く。
この位置にあるという事は、学校から来るのではなく、近隣の寺院の方から来ることを想定しているようだ。
どうも里道が走っているようでもある。(調べると17号墳と18号墳の間に丹切の集落から上井足の谷集落に続く里道が走っているとある。)
年季の入った説明板で、榛原町の教育委員会作成のものである。ちなみに榛原町は、町村合併を経て宇陀市になっている。
この時気づいたのだが、看板のある場所は、丹切15号墳、16号墳のちょうど北側であった。
ここから、15号墳や16号墳のあった尾根に上がり、元来た道を引き返し、学校に戻ることにした。
少し気になったのだが、泉森皎他著「大和の古墳を語る」という本には、高校の近くに3基保存されているとあるのだが、丹切33号墳と34号墳しかみあたらない。あと一つはどれだろう。
遺跡地図には、36号墳の説明で保存となっているので、あるはずなのだが・・・。
帰りに見てみると、学校のフェンスを出て、33号墳に向かう階段の所が、どうも古墳っぽい気がした。
もしかしたらこれが36号墳なのかもしれない。
この後は、学校の事務室に、入室許可証を返還し、学校をでた。たぶん2時間近くいたので、なんかあったんちゃうかと思われたかもしれない。(笑)
※34号墳については、平日であれば、学校に事前の許可を得て見学することができる。
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