島原を抜けて、さらに千本通を下る、すると市電が置かれている公園を見つける。ここが梅小路公園。最近は、鉄道博物館などが出来て、京都の新しい観光スポットとして老若男女問わず賑わっている。
静態保存されている市電に乗るなどして休憩。実際に市電に乗った記憶は、少しだけある。たぶん、小学校の低学年ぐらいの頃。記憶にあるのは、この市電、広軌1形車。ちなみに市電は1978年9月までで営業していた。
そういえば、母校、立命館大学の以学館の前の広場には市電の敷石が移設されている。
その後、JR東海道線で千本通が分断されているので、ここから西へ入り、西大路通りからJRをくぐるようにする。
途中、保元の乱で敗れて切られた源為義の墓や保元、平治の乱の勝者、平氏の栄華を築いた平清盛の西八条殿の後に建てられた若一(にゃくいち)神社などを経由して、いよいよ平安京の表玄関羅城門跡へと向かう。
源為義は、源頼朝の祖父にあたる人物で、保元の乱で崇徳上皇、藤原頼長方についたが、後白河天皇、藤原忠通、平清盛、息子である源義朝などの天皇方に敗れ、京都の船岡山で処刑された人物である。その後、七条通りに為義墓と伝えられる竹林があり、江戸時代の前期、貞享3年に整備され、権現寺が供養することになったそうだ。その後京都駅の拡張工事などに伴い、現在の場所に移転してきたとのことである。
※詳細は、このブログの「京都の伝説を歩く【15】源為義墓」を参照
また、若一神社は、平清盛の西八条殿の跡地に建っていると伝承されており、祭神である若一王子は、平清盛が、西八条邸のあった場所で、祭神である若一王子のご神体を掘り出して、この地に祀られるようになったと伝えている。
また、境内は、そう広くなく、鳥居や本殿、拝殿、平清盛ゆかりの神水、祇王の歌碑などがあった。また鳥居の前の歩道に、平清盛が植えたと伝えられる楠があり、この大木を避けるために、西大路通が少し湾曲している。
羅城門跡は、あとかたもなく、公園内に石碑があるだけである。
羅城門、平安時代の中期、天元3年に暴風雨で倒壊してから、再建されることはなかったらしい。また、羅城門の礎石を、藤原道長が、法成寺の建設に際して、この羅城門の礎石を掘り出し、再利用したと伝えられる。
平安京大極殿跡を出て、およそ2時間で平安京を駆け抜けたことになる。ここからは、国道171号線にでて大阪へ向かう。
この辺は、気分は、テレビ大阪の「充電させてもらえませんか」であった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます