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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

「万葉の旅」をたどる⑮ ~恭仁宮~

2019-01-31 23:29:55 | 文学をたどる
 奈良県と京都府の県境にある恭仁宮。関西本線加茂駅から恭仁宮は北へ歩いて30分ほどの所にあるが、途中木津川にかかる恭仁大橋を渡っていくことになる。恭仁大橋から木津川を眺めると川から案外高い位置にかかっているため、なかなか壮観である。山の緑と川の青さがさわやかである。

 

 昔、木津川は泉川と呼ばれていた。東を見れば、この山々の向こうには近江の国にも繋がっている。そして関西本線はほぼ木津川にそって走っている。

 

 西側は、この川を下っていけば、京都、大阪へと続いていくことになる。

 この恭仁大橋の北側のたもとには、万葉歌人、大伴家持の歌碑が建っている。

 

 歌碑には、「今造る 久邇の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし」と刻まれている。歌意としては、今造っている久邇の都は、山川が清らかなのをみると、なるほどと思われますといういみになるのでしょうか。恭仁の都を寿いでいる歌である。このころの家持は、まだ20代、内舎人に任官したばかりである。歌としては、まだまだ平凡な感じである。

 

 恭仁宮は、家持の歌にもかかわらず、残念ながらわずか4年で放棄され、難波宮へ遷都となる。そして、恭仁宮は、山城国分寺と転用されることになる。恭仁宮が放棄されたのちの荒れた様子を、田辺福麻呂が次のように歌っている。

 三香の原 恭仁の京は 荒れにけり 大宮人の うつろいぬれば
 咲く花の 色は変はらず ももしきの 大宮人ぞ 立ち変はりける

 

 現在、恭仁宮跡には、大極殿跡の基壇と礎石、そして山城国分寺塔跡の基壇と礎石が、田園に囲まれて広い敷地の中にポツンと残っている。悠久の時間を感じる風景ではある。

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