岩屋大塚古墳の横を通って、さらに東へ進んでいく。地図で確認するとこの道は都祁山道というようだ。割とライダーの人達に人気がある道なのか、数台のバイクが追い越していく。風を切って走るのも季節が良ければ楽しいのであろう。
10分も歩かないうちに、ずっと右手を流れていた高瀬川と交差することになり、ちょうど橋を渡ったところにハミ塚古墳の石室があった。
といっても豪快にコンクリートで石室の入り口が塞がれており、中の状態はわからないようになっていた。
なかなかインパクトのある状態で、これまで写真でしか見たことがなかったのだが、道路工事で破壊されてい、何も残っていないぐらいの印象を持っていた。
今回、この古墳を訪れてみて、かなり道路工事等で破壊されてはいるものの、墳丘なども一部残っており、コンクリートの向こう側にも石室が残っているであろうことが確認できた。
しかし、なんぼなんでもこれはやりすぎではないのかな、ここまで完全に閉鎖する必要はあったのかなと思う。
ただ、コンクリートで天井を渡しているので、もしかしたら強度を保つために、この位置にコンクリートが必要だったのかもしれないが、せめてのぞき窓ぐらい造っても良かったのではないだろうか。
コンクリートの塀の両側に少し羨道部の石があるので、わずかにそれで石室の姿を偲ぶしかないのかなあ。
ハミ塚古墳は、東西46.7m、南北44.1mの規模と推定されている方墳で、6世紀後半の築造と考えられている。コンクリートの向こうに現存すると考えられる横穴式石室の規模は、両袖式で全長12mで、そのうち玄室の長さは5.7m、奥壁の幅は、2.92mとなっている。調査時の写真で見ると、天井石等は残っていないようだったが、側壁等に使われている石材がかなり大きいのがわかる。玄室内は、白石と黒石による玉砂利が敷かれていたらしい。
また、家形石棺もかなり破壊された状態で見つかっており、復元すると棺の蓋の長さが270cmで、3対の縄掛け突起があったとのこと。
墳丘も、裏側に回って観察することができる。
墳丘の上に登れそうな道もあったが、途中でトタン板で遮られており、墳丘の上には登れなかった。ただ、古墳が2段築造であることの痕跡は感じることができた。
ハミ塚古墳については、岩屋大塚古墳などと同様に物部氏の一族が被葬者として考えられそうである。ただ、一般的に、この時期方墳に埋葬されるのは、蘇我氏と関連する人物と考えられているので、このハミ塚古墳については、方墳ということで、そのあたりの考え方とどう整合性を取られていくのか、興味のあるところではある。
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