文久3年(1863)12月30日、一橋慶喜ら5名が朝議参与に就任しました。
就任したのは慶喜の他に松平容保・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂です。
これは譜代大名以外の諸侯が国政に関わることができる制度が出来上がったことを意味します。実際にここに参加している5名が3日おきに二条城で行われる会議への出席を義務つけられる物でした。
この中で、今までの江戸幕府の制度によって政治に参加できたのは会津藩主の松平容保だけで、御三卿の慶喜、親藩の春嶽、外様の宗城と容堂は政治に口題することも許されなかったのです。
このように諸侯が国政に参与する考え方は、前薩摩藩主島津斉彬が考えていたことで、藩兵三千人を上洛させて、武力を背景に諸侯の国政参与を訴えようとした矢先に亡くなってしまい、その遺志を斉彬の弟の久光が受け継いで行動し、実現したものでした。
しかし、藩主の父という立場でしかない久光は官位を持っていなかったためにこの日に任命されず、半月後に従四位下左近衛権少将に叙されてから朝議参与に加わったのです。
慶喜、容保を除く4名が幕末の四賢公と称されて後々まで記録に残るのは、このことがきっかけになっています。
就任したのは慶喜の他に松平容保・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂です。
これは譜代大名以外の諸侯が国政に関わることができる制度が出来上がったことを意味します。実際にここに参加している5名が3日おきに二条城で行われる会議への出席を義務つけられる物でした。
この中で、今までの江戸幕府の制度によって政治に参加できたのは会津藩主の松平容保だけで、御三卿の慶喜、親藩の春嶽、外様の宗城と容堂は政治に口題することも許されなかったのです。
このように諸侯が国政に参与する考え方は、前薩摩藩主島津斉彬が考えていたことで、藩兵三千人を上洛させて、武力を背景に諸侯の国政参与を訴えようとした矢先に亡くなってしまい、その遺志を斉彬の弟の久光が受け継いで行動し、実現したものでした。
しかし、藩主の父という立場でしかない久光は官位を持っていなかったためにこの日に任命されず、半月後に従四位下左近衛権少将に叙されてから朝議参与に加わったのです。
慶喜、容保を除く4名が幕末の四賢公と称されて後々まで記録に残るのは、このことがきっかけになっています。