彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

揺れる近江(7)

2024年09月22日 | ふることふみ(DADAjournal)

近江地震史を再開したい。
 半年ぶりとなるため前回の内容を少し振り返ると、円融天皇の御代である天延4年6月18日(976年7月17日)近江で初めて被害が記録されている大きな地震とその復興作業において関寺で働いていた霊牛に藤原道長が会いに行っていて、もしかすると紫式部も越前国に向かうときに霊牛と縁を結んだのではないか? との話を書いた。そして今稿では紫式部が越前国から戻ってすぐの地震となる。

 紫式部が京都へ戻り、藤原宣孝の妾になってから一年が過ぎようとしていた頃の長徳4年10月1日(998年10月28日)、京で日食が起こる。午後三時頃から欠け始めた太陽は一時間をかけて二割ほどの食を示したのちに元に戻り始めたが完全に食が終わる前に地に沈んでゆく。人々が不安で空を眺めていたことであろう日食の最中に大地震が起こった。ここまでは『光る君へ』でも描かれていたが、実はこの二日後にもまた地震が起こっている。

 しかし災害史を調べる上でこの長徳4年の地震に注目することはほとんどない。4年前の正暦5年(994)からほぼ毎年のように「大震」と記された地震が起こっていたことや、この年は春から大火、洪水、飢饉が起こり夏には日本で初めて赤疱瘡(麻疹)が大流行、秋になり天然痘も都を襲っていることなど京都では落ち着く間がないほどに混乱していたからだ。新型コロナが世界的大流行となり世界の常識が一変したことは私たちの記憶に鮮明に刻まれているが、これよりも情報がない時代に未知の病が起こした民衆の不安はどれほどであっただろうか? そんな苦しみのなかでの日食と大地震である。

 生き残った人々は毎日の生活を続けて行かねばならないのであるから、どんな事態になろうとも前を向かねばならない。紫式部も藤原宣孝の妾になっていたとはいえ当時は男性が女性の屋敷を訪ねる妻問婚が一般的であったため自らが屋敷の使用人に指示を出さねばならず、気を張った日々を送ったことと推測される。

 長徳4年の地震のあと、安倍晴明ら陰陽師は一条天皇に『天文密奏』を奏上している。これは天皇のみが読むことができる意見書のようなもので、自然災害と政治の乱れを重ねた内容であったことは想像できる。当時の権力者である藤原道長が天災を利用した可能性も高いが、嵯峨天皇や淳和天皇などの例も見られるように一条天皇も自らの不徳として心の傷を抉ってゆくことになる。長徳地震の翌年、一条天皇は災害を理由に元号を「長保」と改元している。

 ここまで長く書いて申し訳ないが、長徳四年の地震について近江での被害を明確に記した史料は見つけられていないが日食も地震も近江では他人事ではなかったのではないだろうか?


一条天皇圓融寺北陵(京都市右京区) 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『相良海老』

2024年09月18日 | 書籍紹介
『相良海老』を1か月近くかけて読了、他に浮気しながら少しずつ読んでました『安明間記』との副題もあり、安永と明和年間の田沼三代(意行・意次・意知)を記した物ですが、反田沼感情いっぱいです。

田沼推しは何度も挫折しそうになりますが、我慢して読みました。

反田沼の書ですが、田沼意次の家紋が丸に一文字から七曜紋に変える理由などはこの書が参考になっている面もまりますし、意知が佐野善左衛門に暗殺される時に鞘ぐるみで脇差を抜くなど、この書でも悪く書けない場面は逆に歴史的信頼も上がる(もしくは寛政期辺りでも田沼政権に認められたところもある)という穿った読み方もできます。

途中にあった話では…

石田三成は、佐吉と呼ばれた頃に美少年として豊臣秀吉に愛されて佐和山20万石の大名になり権力を恣にした。
同じく美少年だった田沼意次は、龍介(龍助)と呼ばれた頃に徳川吉宗に愛されたけど600石しか与えられず、吉宗は「龍介を寵愛してるけど天下の為になる人物じゃないから大禄は与えない」と言った。

だから、秀吉より吉宗の方が人を見る目があって凄いってことらしいけど…
むしろ吉宗の方が、人間としてクズじゃね?
まあ、2人とも根っからの女好きだから、この話し自体的外れですよね

また、後の世に田沼意次に利用された無能な大老とも言われている井伊直幸に対しての狂歌が記されていて

立(たて)からも 横から見ても 二本棒
 伊井馬鹿ものと 人はいふなり

確かに縦も横も「井」の字は二本棒だし、「ばかもの」は井伊家の官職である掃部「かもん」をやじっているのでしょうね


個人的に井伊直幸公は、大好きですし名君のひとりと思っているのですが…
てか、幻の11代藩主とも称される井伊直富さんの評価は当時から高かったのですね
父に諫言して自害した風説まであったとは驚きました。

この本、田沼推しには精神的にキツいですが、相良藩があった牧之原市で購入できました
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本居宣長宅跡と鈴屋

2024年09月16日 | 史跡

寛政7年(1795)3月25日、蔦屋重三郎が伊勢国松阪の国学者・本居宣長と面会しました。


宣長の随筆『雅事要案』には

「同廿五日来ル 一 江戸油通町蔦屋重三郎来ル 右ハ蔭春海ナトコンイノ書林也」

と記しています。

春海はたぶん宣長と同じ国学者の村田春海ではなでしょうか?

近年では、春海の隣に住んでいた斉藤十郎兵衛が東洲斎写楽だとも言われていますし、春海は若い頃に吉原に通っていたようですので、蔦屋重三郎と本居宣長は村田春海を仲介して面会を果たしたと考えて間違いないでしょう。


田沼時代に様々なアイデアで流行を作り続けた蔦屋重三郎でしたが、寛政の改革で罰を受けながらも喜多川歌麿や写楽をプロデュースして行くのです。

しかし、その一方で初期の頃から版元として着実な仕事も続けていて、その版元としての正当な仕事として世間の話題になりつつあった国学書の版権を得るために伊勢まで出向いて本居宣長に面会したのでしょう。


面会の記録はほとんど残っておらず、蔦屋重三郎も旅行記などを残していないために細かい内容はわかりませんが、商売の話がメインだったように思います。


2人が会った場所は本居宣長宅でしょうから、現在「本居宣長宅跡」になっている場所でしょう









そして、2人が出会った建物は松坂城跡に移築された「本居宣長旧宅 鈴屋」です。







本居宣長像(鈴屋内)


2人の面会から2年後(寛政9年5月6日)蔦屋重三郎はこの世を去る

蔦屋にとって最晩年ともなる旅行の記録をもっと知りたかったと残念にも思えてしまう。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする