彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

地名として残った川の名前

2015年08月09日 | ふることふみ(DADAjournal)
今から25年ほど前のことだろうか?
 「歴史に関係あるかどうかわからないけど」との前置きをされてから「能登川って川はどこにあるのですか?」と質問された。その瞬間まで能登川という地名は当たり前のように身近にあり、当然のように河川として存在するのだろうと思い込んでいた。しかし実際に調べてみると湖東地域に能登川と呼ばれる河川は存在しなかった。そして先の問いには「わからない」としか答えることができなかった。
 この出来事以来、私にとって能登川は大きな謎として心のどこかで取り除けないしこりの様に不気味に存在していた。今稿はそんな謎の一部に出た答えを紹介したいと思う。
 まず、結論から記すならば「のと川」と呼ばれる河川は実在した。今は「瓜生川」と名を変えているが繖山に源流を持ち、山に沿って麓の在所である旧五個荘地域・佐生などを通り伊庭へと抜けている。干拓により大きく姿を変えた大中の湖の名残である大同川の流水の一つとして今も重要な一級河川の一川なのだ。今、瓜生川がのと川であったことの名残は、県道二号線の橋に「新能登川橋」との表示を残すのみとなっている。これは文政二年(1800)に江戸幕府がまとめた五街道分間延絵図に収録された朝鮮人街道を描いた絵図『朝鮮人道見取絵図』に現在の瓜生川が「のとがわ」と記されていたことが証拠となっている。この絵図は東京美術が発行した本として図書館などで簡単に観ることができる。
 「のとがわ」と記されていた川が何故「瓜生川」になったのか? 私は、川は在所により呼ばれ方が違うのは当たり前と考えているので、朝鮮人街道や大中の湖に繋がる下流ではのとがわと呼ばれ、繖山の麓では瓜生川と呼ばれていたのが統一されたのではないかと思う。少し離れているが中山道と宇曽川が重なる辺りを治めていた高野瀬氏は瓜を帝に献上していたという話がある。ならば同じように湖東地域で瓜を作っていた場所が他にもあったのではないだろうか? そんな瓜を育て運んだ川の名前が瓜生川であってもおかしくないと思う。やがて短い川の名前は一つにまとめられるようになり「のと川」の名は消えたのかもしれない。
 この「のと川」にどのような由来があるのか、またどの漢字が使われてきたのかは諸説言われている。能登川地域に関わる方々が考証されているが今でも明確な答えは出ていないので今後の考証に期待したい。
 しかし、一川の限られた場所での河川名であり、関わった地域の小字名であった能登川は、地域の分村問題で村名となり琵琶湖を渡る船の寄港地として港名となり、港での馴染みから能登川と呼ばれていない場所に官設鉄道の駅名として採用された。消えたはずの名前が残り続けて、後世に謎解きの楽しみを残してくれているのだ。

県道2号線新能登川橋
コメント
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