彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

べらぼうの話(5)須原屋

2025年02月02日 | ふることふみ(DADAjournal)
書物問屋須原屋市兵衛は、江戸で大きな商いを行っていた須原屋の店舗のひとつ
伊勢国北畠氏の子孫との伝承もあります。

前回も書いた通り、出版関連は上方が中心で江戸に下って行くのですが、五代将軍徳川綱吉の頃に江戸で出版事業を始めたのが須原屋茂兵衛でした。以降須原屋茂兵衛家は明治まで9代に渡って商売を行い、現在も続いています。

そんな須原屋は江戸時代を通して分家やのれん分けなどで店舗を増やして行き、そのなかでも田沼期から寛政の改革期に大きく活躍したのが須原屋市兵衛でした。
有名な出版としては杉田玄白らが記した『解体新書』。他にも平賀源内の著書も発行しています。
そして、林子平の『三国通覧図説』も発行していましたが、子平の著書が松平定信の怒りに触れたため『三国通覧図説』は版木の処分、須原屋市兵衛は重過料の罰を受けるのです。
須原屋市兵江衛は蔦屋重三郎とは違った形ではありますがこの時代の出版界をけん称される版元であることは間違いありません。

須原屋は『武鑑』も発刊しています
僕の手元には萬延元年(1860)の物がありますが、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたあとの形もちゃんと反映されています



また文化年間の『孟子』には江戸に須原屋平助(日本橋通三丁目)、京都に須原屋平衛門(富小路通三条下る)もありました

他にも、須原屋茂兵衛と共に『江戸名所図会』を発刊した須原屋伊八
『一目千本』の絵を描いた北尾重政の父である須原屋三郎兵衛
北尾重政の墓の正面に墓がある荻生徂徠との交流が深かった嵩山房(小林新兵衛門)

などが歴史に業績を残しています。
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べらぼうの時代(2)

2025年01月26日 | ふることふみ(DADAjournal)

 田沼時代に彦根藩主であった井伊直幸は直弼の祖父となる人物であるが彦根藩主になるまでに大きな障害があった。
直幸の父・直惟は江戸時代を通して唯一二度の大老職を務めた井伊直興(直該)の子として生まれるが兄弟が多く彦根藩主に就く可能性は少なかった。しかし直興隠居後に彦根藩主を継いだ直通と直恒が次々と亡くなり直惟が彦根藩主になったのです。徳川家重の加冠役を務めますが病弱を理由に弟・直定に家督を譲って隠居しすぐに病没、直定は直惟の子である直禔が成長するまで待ち藩主の座を譲るが直禔は在任60日で亡くなってしまい直定が再び彦根藩主の責務を負うこととなった。

 井伊直幸は直惟の子であり直禔の弟でるため再任した直定の次に彦根藩主を任されるのは自分であると自負するようになっていたはずである。しかし直定は宇和島藩伊達家から伊達伊織を養子に迎えて井伊家を継がそうとした。直幸はこれに反発、そして幕府からも直幸に家督を継がせるように命が下り直幸は彦根藩主となった。直幸が彦根藩主になったのは宝暦5年(1755)であり、直幸と深い関わりを持つこととなる田沼意次が台頭するのは3年後である。こののち両者は与板藩井伊家を仲介として閨閥関係を築いてゆき、与板藩主であり意次の次女を正室に迎えていた井伊直朗は若年寄にまで出世している。歴史に「もし」は禁句であるが、もし田沼意次が失脚していなければ与板藩は加増され、直朗は老中になっていた可能性は高い。
 早い段階で田沼派に組み込まれていた直幸だったが、意次は早くから井伊家の権力を利用しようとはせず、直幸自身も彦根藩領での治政を行っていた。特に井伊家一門への教育に対して力を入れていて、世継ぎ以外の子弟たちにも教育が行き渡るように控屋敷の役割を改善している。この成果が井伊直弼を育てる一翼にもなったのだ。また直幸の嫡男であった直富は直幸が江戸に参勤しているときに国許をよく治めていた。直富の話はのちに譲りたいと思うが田沼時代の彦根藩では井伊直幸と直富父子による藩政改革が確実に進んでいた。それは幕府内において田沼意次と意知父子が幕政改革を進めていた形とよく似ている。

 田沼時代のキーパーソンは田沼意知である。意次の嫡男として期待され若年寄に就任したが、反田沼派の陰謀により江戸城内で暗殺された。その死から半年後に井伊直幸は大老になる。大老の意見は将軍すら変えることができないという絶対権力でありながら井伊直該から70年近く大老に就く者はいなかった。田沼政権もこの権力は欲していなかったが、意知という政治の担い手が暗殺されたため意次は井伊家の大老としての権力に縋ったのである。この結果、直幸は意次の傀儡と目されのちの歴史家から「江戸時代に唯一必要がなかった大老」や「田沼意次に利用された大老」との評価を受けることとなる。

井伊直幸の墓(世田谷区豪徳寺 2007年撮影)

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べらぼうの時代(1)

2024年12月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2025年大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の主人公は蔦屋重三郎である。この名前を聞いてどんな人物であるのかをすぐに答えられる方は少ないのではないだろうか? しかし名前は知らなくても彼が日本史に残したものは私たちの記憶に刻みつけられている。それは私たちが想像する江戸文化にぴったり符号するからである。  蔦屋重三郎をひと言で表すならば版元。江戸時代の出版社であるが、当時の版元は文化人の発掘からプロデュース、印刷、販売の全てを行なっていた。重三郎も「耕書堂」という屋号でこの全てを行なっており、重三郎が育てた文化人は浮世絵師では喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎など、作家では山東京伝・十返舎一九・曲亭馬琴などが挙げられる。この名前を見るだけでもその活躍が描かれるドラマには期待が膨らむのではないだろうか。  これほどの前置きを書きながら、湖東湖北の歴史をメインに紹介している本稿では直接蔦屋重三郎に関わることができない。窮余の策として重三郎が活躍した「田沼時代」から「寛政の改革」の頃を記して行きたいと考えている。身勝手な発言であるが、私(古楽)が長年興味を持ち続けた分野が田沼時代であるため話が飛躍してしまう可能性が否めないのはお許しいただきたい。  さて、歴史上でも珍しい個人名に「時代」が付く「田沼時代」とはどのように考えれば良いのであろうか? 簡単に言えば「田沼意次が実権を握っていた時代」となるが意次自身は江戸幕府の組織に組み込まれた老中のひとりであり、しかも老中首座に登ってはいない。つまり独裁者として幕府を動かしたのではないのだ。では田沼意次はどのようにして幕政を動かしていたのかと言えば、将軍の信頼と有力大名との閨閥関係の構築である。 前者について、意次の父・田沼意行が下級藩士でありながら徳川吉宗に認められ吉宗が紀州藩主から江戸幕府八代将軍へと立場を変えたときに紀州藩から連れて行った家臣であり、のちに吉宗自ら意次を九代将軍となる家重の小姓に抜擢した。意次自身も家重によく仕え家重が亡くなるときに十代将軍家治に対して「主殿(主殿頭・意次の官位)は、またうどの者(全との人・有能な者の意)なり、行々こころを添えて召仕はるべし」と遺言したとの逸話が残っている。家治はこの遺言を守り、意次を重用し続け老中職を任せることになったのだ。 後者について、身分の低い家から立身出世を遂げた者に周囲が冷たいため、意次は自分の子ども達を有力大名と縁付かせてゆく。嫡男田沼意知の正室は田沼時代を通して老中首座であった松平康福の娘を迎えている。また他の息子たちも大名家へ養子に出した。そして意次の次女(宝池院)は与板藩主井伊直朗に嫁ぎ、直朗は彦根藩主井伊直幸の八男・直広を婿養子に迎えていたため、田沼意次と井伊家にも閨閥として繋がりが出来ていたのだ。
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揺れる近江(9)

2024年11月24日 | ふることふみ(DADAjournal)

 日本史において、政治的に大きな転換期は鎌倉幕府成立、明治維新、終戦であると考えている。その理由は主権の身分が変わることである。神話から始まった日本は大王、天皇、公家との流れを経て平安時代に到った。平清盛も武士でありながら自らの一族を公家にすることで政権を維持している。しかし治承・寿永の乱(源平合戦)で勝利した源頼朝が鎌倉幕府を開幕することで公家から武家へと主権が動いた。

 元暦2年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の戦いで平家滅亡。三か月半後の7月9日午刻(8月13日正午)に京都を大地震が襲った。震源地は琵琶湖西岸断層と推測されM7クラスの揺れだった。京都では法勝寺の九重塔崩壊(日本史上で寺社の木塔が地震で倒れた例は二件しかない)などの被害が記録されている。8月14日に地震対策のために「文治」と改元され「文治京都地震」と呼ばれることとなるが、余震は九月末まで連日続く。
 鴨長明は『方丈記』で文治京都地震のことを「山はくづれて、河を埋み、海は傾きて、陸地をひたせり(中略)都のほとりには、在在所所、堂舎塔廟、一つとして全からず」と書きそして「驚くほどの地震、二三十度震らぬ日はなし。十日廿日すぎしかば、やうやう間遠になりて」と残している。『平家物語』には被害が記されたあとに「たゞかなしかりけるは大地震也。鳥にあらざれば、空をもかけりがたく、竜にあらざれば、雲にも又のぼりがたし」と鳥や竜ではないので空に逃げることができないために恐怖から逃れられないとの比喩を記されている。また地震前の7月3日に壇ノ浦で亡くなった安徳天皇や平家を慰霊するための一堂が長門国(山口県)に建立されることが決定していた矢先の大地震であったため平家の怨霊が原因であるとも思われるようになった。

 当時の公家が「琵琶湖の水が北に流れてしまい、しばらくしてから元に戻った」との噂があったと記録されていて、2011年に塩津港遺跡の発掘調査から琵琶湖北岸に津波が襲った跡が発見される。同年は東日本大地震発災の年でもあり大地震と津波が注目され大きな話題となった。この発掘では塩津神社が現在の位置より西に約500メートルの湖添いに建っていたことがわかり、津波に飲み込まれたと考えられる神像も出土している。現在の塩津神社は明治時代の記録を見ると湖から舟に乗ったまま参拝できたようなので平安時代も同じ形式であったかもしれない。そうであるならば文治京都地震前に塩津神社を参拝した紫式部の参拝方法にも興味が沸いてくる。
話は横道に逸れてしまったが、文治京都地震は琵琶湖でも大津波が発生する史実を私たちへの警告として伝えてくれている。鴨長明は「月日かさなり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし」と、月日が経つと大地震があったことを誰も言わなくなったことを嘆いているのである。今の私たちは長明に笑われないであろうか?

現在の塩津神社
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揺れる近江(8)

2024年10月27日 | ふることふみ(DADAjournal)

 平安時代といえば、貴族や女御たちが優雅に文化を謳歌した平和な時代という印象がある。もちろんそれは間違いではないが、9世紀から12世紀まで約四400年間を同じ生活スタイルで過ごした訳でもない。応徳3年(1086)、藤原道長が望月の歌を詠み藤原北家の繁栄の頂点を極めてから68年が過ぎた頃、東北地方では後三年の役で武士たちが戦うことで土地を支配する社会を構築しつつあり、朝廷では白河上皇が堀河天皇を後見する「院政」を行うことで、藤原北家を中心とした貴族の政治に翳りが見え始める。

 そして、地震活動も活発になる。寛治6年(1092)に越後で大津波を伴う地震発生(余談ではあるがこの年に井伊家初代・井伊共保が亡くなっている)。4年後の嘉保3年11月24日辰刻(1096年12月17日午前8時頃)東海地方を中心に畿内も揺れた。揺れは大きなもので六回、一時間以上続く。地震発生後、伊勢国から駿河国に渡る太平洋沿岸で大津波が発生し伊勢国湾岸を大津波が襲う。駿河国でも寺社、官庁、民家などの建物が400余流されたと記録されている。京都では内裏の大極殿の柱がずれ、応天門の西楼傾いた。他にも東寺、奈良の東大寺や薬師寺・興福寺などに被害が出た。また交通の要所である瀬田の唐橋が両岸の一部を残して倒壊した。被害者は一万人を越えたと伝わっていて被災地の範囲から南海トラフではないか?と考えられている。 
 堀河天皇は地震の一か月後に「永長」と改元したため「永長地震」呼ばれているが、改元だけでは天変地異は抑えられないようで、こののちには「永長」から約百年後の「建久」まで36回の改元が行われることとなる。改元原因のすべてが天変地異によるのではないが、施政者たちが世の乱れを元号へ責任転嫁した結果である。 

 さて永長地震から2年後の承徳3年1月24日卯刻(1099年2月22日午前6時頃)畿内は再び激しく揺れた。地震と疫病により「康和」と改元され後世に「康和地震」と呼ばれる揺れは、大和国で興福寺の大門・回廊が倒壊し、京都でも大地震であった記録が残っているが永長地震のような強い揺れが長い時間複数回起った様子は見られない。
 一説として康和地震は永長地震の余震として発生した大和国が震源の内陸地震と考えられていた。しかし近年になって被害の日付が約一年ずれている古文書(康和二年一月□四日)が発見され土佐国を大津波が襲ったことが記されていた。これが真実とするならば近畿地方を震源とした内陸地震で土佐国を津波が襲う可能性はなく、康和地震はマグニチュード八クラスの南海トラフ地震であった可能性も出てくる。こう考えるならば、南海トラフ地震は一度発生したあとでも同規模の余震や本震が数年単位で続けて起る可能性も示しているのである。


瀬田の唐橋
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揺れる近江(7)

2024年09月22日 | ふることふみ(DADAjournal)

近江地震史を再開したい。
 半年ぶりとなるため前回の内容を少し振り返ると、円融天皇の御代である天延4年6月18日(976年7月17日)近江で初めて被害が記録されている大きな地震とその復興作業において関寺で働いていた霊牛に藤原道長が会いに行っていて、もしかすると紫式部も越前国に向かうときに霊牛と縁を結んだのではないか? との話を書いた。そして今稿では紫式部が越前国から戻ってすぐの地震となる。

 紫式部が京都へ戻り、藤原宣孝の妾になってから一年が過ぎようとしていた頃の長徳4年10月1日(998年10月28日)、京で日食が起こる。午後三時頃から欠け始めた太陽は一時間をかけて二割ほどの食を示したのちに元に戻り始めたが完全に食が終わる前に地に沈んでゆく。人々が不安で空を眺めていたことであろう日食の最中に大地震が起こった。ここまでは『光る君へ』でも描かれていたが、実はこの二日後にもまた地震が起こっている。

 しかし災害史を調べる上でこの長徳4年の地震に注目することはほとんどない。4年前の正暦5年(994)からほぼ毎年のように「大震」と記された地震が起こっていたことや、この年は春から大火、洪水、飢饉が起こり夏には日本で初めて赤疱瘡(麻疹)が大流行、秋になり天然痘も都を襲っていることなど京都では落ち着く間がないほどに混乱していたからだ。新型コロナが世界的大流行となり世界の常識が一変したことは私たちの記憶に鮮明に刻まれているが、これよりも情報がない時代に未知の病が起こした民衆の不安はどれほどであっただろうか? そんな苦しみのなかでの日食と大地震である。

 生き残った人々は毎日の生活を続けて行かねばならないのであるから、どんな事態になろうとも前を向かねばならない。紫式部も藤原宣孝の妾になっていたとはいえ当時は男性が女性の屋敷を訪ねる妻問婚が一般的であったため自らが屋敷の使用人に指示を出さねばならず、気を張った日々を送ったことと推測される。

 長徳4年の地震のあと、安倍晴明ら陰陽師は一条天皇に『天文密奏』を奏上している。これは天皇のみが読むことができる意見書のようなもので、自然災害と政治の乱れを重ねた内容であったことは想像できる。当時の権力者である藤原道長が天災を利用した可能性も高いが、嵯峨天皇や淳和天皇などの例も見られるように一条天皇も自らの不徳として心の傷を抉ってゆくことになる。長徳地震の翌年、一条天皇は災害を理由に元号を「長保」と改元している。

 ここまで長く書いて申し訳ないが、長徳四年の地震について近江での被害を明確に記した史料は見つけられていないが日食も地震も近江では他人事ではなかったのではないだろうか?


一条天皇圓融寺北陵(京都市右京区) 
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紫式部の見た近江(5)

2024年08月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 長徳2年(996)、紫式部は父・藤原為時の越前守任官を受けて越前まで同行したが紫式部のみが翌年に都に戻っている。この理由について定説では紫式部が藤原宣孝の求婚を受け入れたためであるとされている。しかし、地方に下向すればその任期である4年は戻れないことは事前に知られていることであり、それを覚悟して越前に向かった筈の紫式部がどの段階で宣孝に求婚され、父親よりも歳上の男性の妻ではなく妾になる道を選んだのかもわからないが、史実として紫式部は家族とわかれて帰路についた。

 これまで記してきた通り、往路では打出浜から湖西沿いに琵琶湖を北上したと考えられている。そして帰路は湖東沿いではないか? との説になっている、その説を押すのが「磯の歌」と「老津島の歌」であり、米原市や近江八幡市(もしくは野洲市)を通ったとも言われているのだ、そして確実に帰路の歌とされている唯一の和歌もこの考えを後押ししている。その和歌は「水うみにて、伊吹の山の雪いと白く見ゆるを」との詞書がある。この一文から紫式部が湖上で伊吹山が雪で白くなっている様子を見ていたことがわかり、帰路は冬に琵琶湖を渡ったことも証明されていて、湖東経由で伊吹山を見たのだろうと予想されているのだ。そんな伊吹山を見て

 名に高き 越の白山 ゆき馴れて 伊吹の岳を なにとこそ見ね

 との和歌を記した。「天下に知られた越前から望む白山の雪を見慣れてしまうと、伊吹山の雪景色はそれほどのことはない」と訳せばいいのか、伊吹山の雪景色の美しさを知る私たちにとっては紫式部に宣戦布告されたような気持ちにもなる。結婚のために帰京する道中だからこそ高揚した気分で美しい景色すら目に入らなかったのかもしれない。などの解釈ができる。同時に白山の雪景色を知っているために越前で冬を過ごしたあとの和歌であることも証明される紫式部が帰路に琵琶湖上で読んだ和歌と特定できることも貴重なのだ。
 しかし、この和歌が詠まれたことと紫式部が湖東航路を通過したとこは同じ土俵では語れない。伊吹山の雪景色は湖西からも望め、塩津港から湖東経由で都に向かうと考えると朝妻港や沖島辺りを通らねばならず、遠回りである。物見遊山ではない旅なのだ。また湖西からの伊吹山は少し遠くに感じてしまうために白山より見劣りしたことも認めざるを得ない面もある。一部研究者のなかでは、紫式部は帰路も湖西を南下したのではないだろうか? との考えもあり、残念ながら私もその説を推している。

 こうして紫式部の琵琶湖を渡る旅は終わった。『源氏物語』にはこれを活かすかのように近江の景色が登場する場面もある。物語に触れながら平安時代の近江に出会ってみてはいかがだろうか。


高島市から見た伊吹山(2024年8月 撮影)
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紫式部の見た近江(4)

2024年07月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
『紫式部集』に載せられている和歌について、どのような順番で並べられたものであるのかも諸説がある。越前への往復で読まれた六首についても、五首(和歌の掲載順に番号を付けると20番から24番)が連続して記され、少し離れて一首(82番)を載せているのだがこの分け方の理由も不明であるため、先の五首を往路、後の一首を帰路の和歌として順番通りに鑑賞したくなる。逆説的に解釈に多様性を加え、和歌を詠んだ推定地を明確にしようとすると順番通りで良いのか? と疑問が湧いてくる。その一首が先に紹介した湖西を北上した航路では通らない場所が出てくる「磯の歌」であり、もう一首が今稿で紹介する和歌である。

 前稿、先の五首の内で四首目に塩津山を越える場面に至った。ここは近江と若狭の国境であり『紫式部集』の和歌が詠まれた順番通りならば「塩津山の歌」の次は若狭の一首にならなければならない。しかし次に記されているのは「水うみに、老津(おいつ)島といふ洲崎に向ひて、童べの浦といふ入海のおかしきを、口ずさびに」という詞書である。直訳すると「湖に『老津島』という洲崎(海中などに突き出た岬)があり、この岬に向かうように『童の浦』という入江があるのが面白くて思わず口ずさんだ」となるだろうか?そして詠まれた和歌も面白い

 老津島 島守る神や 諫むらん 浪もさはがぬ 童べの浦

 簡単な意味としては「老津島を守る神様が注意してくれたのだろうか。童べの浦という場所なのに子どもたちの騒がしさがなく、波が穏やかです」となる。一首前に塩津山の地名から人生の辛さを重ねた紫式部の言葉遊びを紹介したが、ここでも「老」と「童」の地名が向かい合っていることから賑やかな子どもを叱る老人を想像させる言葉遊びである。

 しかしこの和歌には大きな問題がある。湖岸道路を走っていると野洲市のマイアミ浜近くで「紫式部歌碑」の案内板を目撃する。ここに刻まれた和歌が「老津島の歌」なのだが、この和歌は近江八幡市百々神社の鳥居前にも歌碑がある。これは「老津島」に沖島と奥津嶋神社がある長命寺山(昔は島だった)という2か所の候補地があつためである。そして「童べの浦」という地名は現存しない。場合によっては東近江市の乙女浜ともされているが確信もない。詳細は次稿に譲るが紫式部式部がどちらかの地(あるいは両方)を訪れた可能性は皆無と考える可能性もある。場合によっては紫式部が近江旅の途中で偶然耳にした地名であったのかもしれない。この和歌は、近江国の特定の地域ではなく琵琶湖を渡る途中で夕立に襲われ怖い思いをした場面もあったものの全体的には夏の穏やかな波で船旅を楽しむなど、近江という地を通過した安心感から生まれた総括と考えるべきなのかもしれない。


百々神社の紫式部歌碑(近江八幡市北津田町)
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紫式部の見た近江(3)

2024年06月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 紫式部を連れた藤原為時一行は打出浜から出港し夕立などの恐怖を乗り越えて琵琶湖を北上、横断を果たし塩津港に上陸した。
そのまま塩津で一泊し翌日、塩津神社に参詣したと言われている。塩津神社からは琵琶湖を眺めることができ間違いなく近江の絶景の一つであると言えるが紫式部は和歌を残してはいない、もしかすると琵琶湖上で感じた負の感情が強すぎて筆が進まなかったのではないだろうか?
 塩津から敦賀に向かうためには塩津山の深坂峠という山道を越えなければならず、紫式部はますます不安になるのではないかと心配しながら次の和歌を鑑賞すると「塩津山といふ道のいとしげきを、賤のおのあやしきさまどもして、『なを、からき道なりや』といふを聞きて」との説明じみた詞書が記されている。直訳すると、塩津山という草木が生い茂った歩きつらい道。ここを越えるために(為時に雇われて付いてきている)風体の貧し人夫たちが「ここはやっぱり歩きにくい難儀な道(からき道)だ」と言っているのを紫式部が聞いた。と、次に記録される和歌がどのような状況で詠まれたものであるかという情景を細かく教えてくれている。少し補足を加えるならば、越前から都へ戻る紫式部が呼坂という場所で「輿も舁きわづらふを、恐ろしと思ふに」と「自分の乗る輿をかく者たちが大変そうで恐ろしく思った」との記録を残していることから越前へ向かう陸路でも紫式部が輿に乗っていた可能性が高い。こう考えるならば、不安定に揺れる輿に乗りながら人夫たちの「からき道」という愚痴を聞いたことが和歌へと繋がったのであろう。

 しりぬらむ 往来に慣らす 塩津山 世に経る道は からきものぞと

 直訳すれば「(人夫のあなたたちは)何度も行き来しているのだから塩津山が『からき道』であることは知っていたでしょう? この世の中の道(人生?)は、からいものなのです」と解釈すればよいであろうか? この和歌のポイントは「からき道」の辛さを「塩津山」の塩と重ねる言葉遊びであり、困難な山道と人生の辛さすらも詠み込んだことである。私的に解釈を加えるならば無位無官の苦しみを味わい続けた為時一家が越前守という大役に向かうために越えなければならなかった苦しい時期すらも組み込まれていたのかもしれない。

 一般的に『枕草子』で現在のSNSで書かれるようなみんなに共感してもらえるコメントを上手に文章にした陽キャラのイメージが強い清少納言と、『源氏物語』や『紫式部日記』で人間の栄光や心の闇を炙り出した文学者肌の紫式部は、対照的に描かれている。しかし紫式部も言葉を遊びとして楽しむ一面も持っていたのである。


塩津浜の歌碑
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紫式部の見た近江(2)

2024年05月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
『紫式部集』に残された和歌のうちで大きな議論を交わされるものが何首か存在する。前稿で紹介した三尾が崎の次に記されている和歌も激しく論争される一首である。「又、磯の浜に、鶴の声々鳴くを」との詞書と

 磯がくれ おなじ心に 鶴(たづ)ぞ鳴く なに(汝が)思ひ出づる 人や誰ぞも

「磯の浜で私の心と同じような気持ちで鶴が(次々に)鳴いている。お前たちは誰を思い出して鳴いているのだろう」との解釈になるであろうか。
 滋賀県民が磯と聞けば米原市と彦根市の市境付近にある地名が頭を過る。しかし紫式部が越前に向かうために湖西に近い航路を使って近江を旅し、季節は夏であることは確定していると考えられているため、現在の高島市と大津市の市境付近にある三尾から、米原市の磯まで船が琵琶湖を横切ったことは不自然である。また鶴が詠まれるのは冬に多いため、磯の歌は往路ではなく帰路に詠まれたものではないか? とも言われている。しかしこの和歌は三尾が崎で「都恋しも」と詠んだ寂しさをより深くするように都で出会った人を思い出してそっと涙する様子を鶴の鳴き声に重ねていて、京に向かっている帰路よりは京から離れる往路にこそ味わい深いのではないだろうか? 磯という言葉は特定の地名ではなく磯という漠然とした雰囲気で使われた可能性は否めない、鶴と冬との季節の関りについては今後の課題にしたい。
 続いては「夕立しぬべしとて、空の曇りて、ひらめくに」と、夕立が起りそうで空が曇り稲妻が光る様子を伝え、

 かき曇り 夕立つ浪の 荒ければ 浮きたる舟ぞ 静心なき

「空が曇ってきて、夕立になるとのことで波が荒くなってきた。浮いている舟は(激しく)揺れて心穏やかではいられない」と解釈するならば紫式部たちは舟に乗って湖上を進んでいるときに夕立に遭った様子が浮かんでくる。当時の舟は小さく安定感は悪かった。小さい舟だということは体感するスピードも牛車になれた平安貴族には驚きしかなかったのでないだろうか? また風の影響も考慮しなければならない。この和歌に「夕立」という言葉が含まれているため前述したように紫式部たちが越前に向かった季節が夏であると確定されているのである。琵琶湖の状態を考えても冬に湖上を渡るより夏のほうが湖面も穏やかであった。しかし突然の豪雨と強風そして稲妻が襲い、逃げる場所のない湖の上でひたすら神仏に願うしかなかったであろう。一行がどのあたりで夕立に遭ったのかを詳しく知ることはできないが、この日の内に竹生島を眺め塩津港まで上陸したと考えられている。紫式部の琵琶湖横断は期待感よりも哀愁と恐怖が強かったのかもしれない。


塩津港遺跡(2015年12月 撮影)
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