彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

牧野富太郎の妻(前編)

2023年05月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 牧野富太郎は、裕福な商家「岸屋」に生まれ義祖母・浪子から25歳まで不自由がない生活を与えられ成長。子どもがそのまま大人になったような人物との印象を受ける。だからこそ植物に向き合える研究者になれたのだが、それを許してくれる理解者と、苛立ちを覚える敵という両極端な人間関係を形成することにもなる。
 この点で富太郎が特に迷惑をかけながら最大の理解者にならざるを得なくなってゆくのが家族である。19歳で初めて伊吹山を訪れた直後に佐川へ帰郷した富太郎は従妹の猶と結婚する。これは浪子の強い押しがあったようだが、結婚後も富太郎は岸屋を新妻や田中知之助に任せて、店の金を浪費しながら趣味に生きていて家族もそれを許している。

 前稿で紹介した東京行きの3年後、22歳になった富太郎は再び東京に向かい現在の飯田橋駅近くに下宿し定住した。そして東京大学理学部植物学教室の矢田部良吉教授に認められて特別に理学部の資料を閲覧できる待遇を得たのである。東京に行ったまま帰らない富太郎は、猶に多額の金の無心をしているが長く続くものではなかった。
 この時期、富太郎の下宿を訪れ共に知識を確かめ合った人物の中には、既に『進化論』を日本に紹介し、のちに滋賀県水産試験場(彦根市平田町)でコアユの飼育に成功した石川千代松も含まれている。

 さて、岸屋が危機的状況に陥っているときも、富太郎は散財し東京で借金も重ねている。二度佐川に帰るがすぐに上京、26歳のときに東大(この頃は帝国大学に改名している)への通学途中に前を通っていた飯田橋の和菓子屋で働く幼さが残る15歳の少女に恋をした。小沢寿衛である。
 富太郎の著書『植物記』では「寿衛子の父は彦根藩主井伊家の臣で小沢一政といい陸軍の営繕部に勤務していた」と記している。富太郎は、11歳年下の少女に恋をしながらもなかなか想いを打ち明けられず知人に仲介してもらう形で二人は同棲を始めたらしい。
 すぐに長女・園子が誕生したが、富太郎にはまだ猶という妻がいたのである。現在に残っている猶と寿衛の手紙を読む限りではお互いの存在を知っていながら認め合っている(手紙参照:大原富枝『草を褥に 小説牧野富太郎』河出文庫)。手紙を読むと寿衛と富太郎は「牧ちゃん」「寿ちゃん」と呼び合うなど幼さが残り二人が勢いで同棲生活を始めたこともうかがえる。
 しかし、寿衛が第二子を妊娠しているときに、岸屋廃業手続きのため、富太郎は佐川へ戻る。足掛け3年を費やして佐川でも贅沢三昧をしながら廃業、猶と離婚し知之助と再婚させ後始末を任せたのちに東京に戻っているが、この直前に園子が四歳で亡くなる。牧野家は実家の支援がなくなり、少ない収入で生活を送ることになるが、富太郎と寿衛の間には13人の子どもが誕生し(7人が早逝)、寿衛が家計を支えて続けることとなるのだ。


牧野富太郎と交流があった石川千代松像(彦根市船町)
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