平将門の首は歌詰橋近くに埋葬されたとの伝承があり、現在は山塚古墳と呼ばれている。
しかし関東から近江まで首だけになって飛んでくるような将門の怨念がそのまま塚の中で大人しくなるはずはなかった。昭和48年に発刊された『日本の首塚』(遠藤秀男 雄山閣出版)には愛知郡千枝村の将門首塚伝説として「空をとんできた首が落下したので祀ってやった。ところが後で塚からぬけ出して宇留川を流れ、里人にひろわれて平流山上に葬られた。この山塚に祈ると武器類を貸してくれたと伝えている」と記されている。
宇曽川が氾濫したときにチャンスとばかりに将門の首が川に飛び込んで、激しい流れに力尽き荒神山近くに流れ着いた。一説には平将門が流れてきたからこの辺りを平流と呼ぶようになったともいわれている。実際に明治の古地図(『彦根 明治古地図一』彦根市)でもこの辺りには平流の地名が残っている。
さて、そんな将門の首が葬られた平流山とはどこだったのだろうか?
地名が残っている場所から考えて荒神山であり荒神山神社をその候補地に指摘する声も聞かれる。場合によっては荒神そのものが将門を指すという考え方もある。しかし先ほども挙げた明治の古地図を見ると塚村と呼ばれる地域が長命寺領で彦根藩領ではなかったために空白地になっているが、その場所は前方後円墳のような形をしている。そしてこの地には本当に巨大な前方後円墳があり旧稲村神社鎮座地であったことが説明されている。つまり平流と呼ばれる地域に密接した場所に古墳と神社があったことになる。
今はすでに掘削されて整地されてしまったこの古墳こそが将門の首が葬られた第二の地だと私は考えている。そして『日本の首塚』に書かれたもう一つのキーワードである「祈ると武器類を貸してくれる」との伝説についても考証したい。それは将門が最初に祀られた山塚古墳に関わる話である。
佐々木氏が近江の守護であった頃に武具工平松家を山塚古墳がある石橋(字名)に住まわせた。平松家は村田と姓を改めて佐々木氏の具足師を務めていた。その後は織田信長や豊臣秀吉からも同じ仕事が与えられ、江戸時代になりこの地が彦根藩領になるとそのまま井伊氏の具足師も務めることになり明治まで山塚古墳周辺を村田家が管理していたのだった。 宇曽川という一川(いちが)を通じて将門に関わる二か所の古墳があり、その片方を具足師が管理していたことが武器類を貸すという伝説に発展していったのかもしれない。
ただし、この二か所の古墳を繋ぐのは宇曽川だけではない。川という水運と、東山道という陸運を利用して京の天皇にも瓜を献上するという形で繋がりを持つ国人領主高野瀬氏が大きく関わっていたのではないか、とも考えられるのだ。
しかし関東から近江まで首だけになって飛んでくるような将門の怨念がそのまま塚の中で大人しくなるはずはなかった。昭和48年に発刊された『日本の首塚』(遠藤秀男 雄山閣出版)には愛知郡千枝村の将門首塚伝説として「空をとんできた首が落下したので祀ってやった。ところが後で塚からぬけ出して宇留川を流れ、里人にひろわれて平流山上に葬られた。この山塚に祈ると武器類を貸してくれたと伝えている」と記されている。
宇曽川が氾濫したときにチャンスとばかりに将門の首が川に飛び込んで、激しい流れに力尽き荒神山近くに流れ着いた。一説には平将門が流れてきたからこの辺りを平流と呼ぶようになったともいわれている。実際に明治の古地図(『彦根 明治古地図一』彦根市)でもこの辺りには平流の地名が残っている。
さて、そんな将門の首が葬られた平流山とはどこだったのだろうか?
地名が残っている場所から考えて荒神山であり荒神山神社をその候補地に指摘する声も聞かれる。場合によっては荒神そのものが将門を指すという考え方もある。しかし先ほども挙げた明治の古地図を見ると塚村と呼ばれる地域が長命寺領で彦根藩領ではなかったために空白地になっているが、その場所は前方後円墳のような形をしている。そしてこの地には本当に巨大な前方後円墳があり旧稲村神社鎮座地であったことが説明されている。つまり平流と呼ばれる地域に密接した場所に古墳と神社があったことになる。
今はすでに掘削されて整地されてしまったこの古墳こそが将門の首が葬られた第二の地だと私は考えている。そして『日本の首塚』に書かれたもう一つのキーワードである「祈ると武器類を貸してくれる」との伝説についても考証したい。それは将門が最初に祀られた山塚古墳に関わる話である。
佐々木氏が近江の守護であった頃に武具工平松家を山塚古墳がある石橋(字名)に住まわせた。平松家は村田と姓を改めて佐々木氏の具足師を務めていた。その後は織田信長や豊臣秀吉からも同じ仕事が与えられ、江戸時代になりこの地が彦根藩領になるとそのまま井伊氏の具足師も務めることになり明治まで山塚古墳周辺を村田家が管理していたのだった。 宇曽川という一川(いちが)を通じて将門に関わる二か所の古墳があり、その片方を具足師が管理していたことが武器類を貸すという伝説に発展していったのかもしれない。
ただし、この二か所の古墳を繋ぐのは宇曽川だけではない。川という水運と、東山道という陸運を利用して京の天皇にも瓜を献上するという形で繋がりを持つ国人領主高野瀬氏が大きく関わっていたのではないか、とも考えられるのだ。