第三章 前半 からの続きです
さて次に先生は民主主義も根拠はいい加減と切って捨てます 民主主義の根幹は「国民主権=主権在民」である」「封建主義を振り切り独裁者の暴政から逃れて民主主義は素晴らしいと思っている しかしそれを実現する為には大前提がありそれが「国民が成熟した判断を出来ること」である
第一次世界大戦は国民の大騒ぎした結果、外交で収まりがつかず850万人が犠牲となった 第二次世界大戦も民主主義国家であったドイツで「ナチス」が第一党で国民投票により台頭した
日本だって1937年の日中戦争まで民主国家であった日米戦の期間は登場独裁だが国民始め新聞も軍国主義を支持した
さて現在をみればアメリカや日本は「主権在民の民主国家」である 主権在民とは「世論が全て」であるから世論をマスコミと言い換えるとマスコミが第一権力になり立法・行政・司法もマスコミの下にある 民主主義がそんな事態になると誰も想像していなかった
そこで行政は「ポピュリズム(人気取り主義)」に流れ立法も(マスコミに踊らされる国民が)政治家を選ぶ 司法もその例外でない 「ポリティカリーコレクト(弱者こそ正義)」の考えで冷静さを欠いた判決がでる 検察も同様にマスコミの反応を見ながら国策捜査をやる 民主国家は現実として世論こそが正義でマスコミが第一権力者になる
そして大前提に立ち返ると「国民が成熟してゆけば」上に指摘したことは昔話ですむが実は「国民は永遠に成熟しない」のである 放って置けば民主主義が戦争を起こし地球まで潰してしまう(恐れがある)
爺の感覚が反発する 民主主義は政治制度の一つである 最初から完璧なもので無い かつそれを運用する国民も制度に精通しなければ 更に対象である社会が枠組みを変えてゆくのであるから絶えず改良を計り形式民主主義に陥る事を避けねばならない ドイツも日本も1930年代には国民の教育と制度の運用に誤りがあり共に国を誤った 藤原先生は「衆賢なりや 愚なりや」の課題に「衆愚なり」と断をくだした
又日本では戦前も戦後もマスコミの煽りや誤誘導(ミスリーディング)は酷い しかし先生が指摘する「お馬鹿な国民」には教育の質を高め「国民主権」を担える実力を付ける様にするのが親心でないか?
さて先生は主張する お馬鹿国民による混乱を防ぐには「真のエリート」が必要である イギリスやフランスそしてアメリカにも真のエリートはいる 国の為に命を捧げるようなエリートが賢くない国民をリードするのである 日本でも戦前派真のエリートがいたが戦後アメリカの占領政策で旧制中高校をつぶした結果 エリートはいなくなり偏差値が高い官僚だけになってしまった
しかし爺はこれにも賛同しかねる 1945年日本を敗戦に導いたのは軍人はもちろん外務官僚・内務官僚もみな先生の言う真のエリート(なる者達)だ アメリカでも40歳代の大統領ケネディを支えたのは東部のエスタブリシュメント(エリート)と言われた連中でヴェトナム戦争介入でどへまをこいた 最近では仏でCPE問題を事実上撤回したのは大統領・首相を補佐するエリートの失敗である
更に先生は吼える 「平等」もフィクションである 先生は勉強は出来たが女性にもてなかった サッカーも一所懸命練習したがベッカムの足元にも及ばぬとして平等を否定します
本来英国王支配に対する「平等」が王侯支配の無くなった今日人権がらみの「差別」に対する対立軸となり力でねじ伏せるような流儀とあいなった
この主張にも爺はそうかな?と首を傾げます 先生がもてなかったりサッカーが下手なのは個体差の問題で「平等」の問題ではありません 先生は問題を意識的にすり替えているか間違えています 「平等」とは醜男でも結婚が出来,短足でもサッカーを許されている状態を言うのです とは先生の例証に対する冗談ですが「門地・身分・性別・宗教・思想・信条」等などにより差別をしない/受けないという事です 権力側が譲らなければ対立せざるを得ないでしょう
ついで先生は力による対立に対処するのは「惻隠」である 武士道精神の中軸である弱者・敗者・虐げられた者に対する思いやりだ
最後に「論理」だけではもたない 「自由」と「平等」は両立しない かくも美しい言葉に酔ってしまった所に世界の直面する苦境の原因があると明言されます
あー疲れた
爺の後知恵:
あんまり長いので章節ごとに反論を書きました 第四章では「情緒」「形」の解説を通じ愛国心に代わる「祖国愛」を訴えます
さて次に先生は民主主義も根拠はいい加減と切って捨てます 民主主義の根幹は「国民主権=主権在民」である」「封建主義を振り切り独裁者の暴政から逃れて民主主義は素晴らしいと思っている しかしそれを実現する為には大前提がありそれが「国民が成熟した判断を出来ること」である
第一次世界大戦は国民の大騒ぎした結果、外交で収まりがつかず850万人が犠牲となった 第二次世界大戦も民主主義国家であったドイツで「ナチス」が第一党で国民投票により台頭した
日本だって1937年の日中戦争まで民主国家であった日米戦の期間は登場独裁だが国民始め新聞も軍国主義を支持した
さて現在をみればアメリカや日本は「主権在民の民主国家」である 主権在民とは「世論が全て」であるから世論をマスコミと言い換えるとマスコミが第一権力になり立法・行政・司法もマスコミの下にある 民主主義がそんな事態になると誰も想像していなかった
そこで行政は「ポピュリズム(人気取り主義)」に流れ立法も(マスコミに踊らされる国民が)政治家を選ぶ 司法もその例外でない 「ポリティカリーコレクト(弱者こそ正義)」の考えで冷静さを欠いた判決がでる 検察も同様にマスコミの反応を見ながら国策捜査をやる 民主国家は現実として世論こそが正義でマスコミが第一権力者になる
そして大前提に立ち返ると「国民が成熟してゆけば」上に指摘したことは昔話ですむが実は「国民は永遠に成熟しない」のである 放って置けば民主主義が戦争を起こし地球まで潰してしまう(恐れがある)
爺の感覚が反発する 民主主義は政治制度の一つである 最初から完璧なもので無い かつそれを運用する国民も制度に精通しなければ 更に対象である社会が枠組みを変えてゆくのであるから絶えず改良を計り形式民主主義に陥る事を避けねばならない ドイツも日本も1930年代には国民の教育と制度の運用に誤りがあり共に国を誤った 藤原先生は「衆賢なりや 愚なりや」の課題に「衆愚なり」と断をくだした
又日本では戦前も戦後もマスコミの煽りや誤誘導(ミスリーディング)は酷い しかし先生が指摘する「お馬鹿な国民」には教育の質を高め「国民主権」を担える実力を付ける様にするのが親心でないか?
さて先生は主張する お馬鹿国民による混乱を防ぐには「真のエリート」が必要である イギリスやフランスそしてアメリカにも真のエリートはいる 国の為に命を捧げるようなエリートが賢くない国民をリードするのである 日本でも戦前派真のエリートがいたが戦後アメリカの占領政策で旧制中高校をつぶした結果 エリートはいなくなり偏差値が高い官僚だけになってしまった
しかし爺はこれにも賛同しかねる 1945年日本を敗戦に導いたのは軍人はもちろん外務官僚・内務官僚もみな先生の言う真のエリート(なる者達)だ アメリカでも40歳代の大統領ケネディを支えたのは東部のエスタブリシュメント(エリート)と言われた連中でヴェトナム戦争介入でどへまをこいた 最近では仏でCPE問題を事実上撤回したのは大統領・首相を補佐するエリートの失敗である
更に先生は吼える 「平等」もフィクションである 先生は勉強は出来たが女性にもてなかった サッカーも一所懸命練習したがベッカムの足元にも及ばぬとして平等を否定します
本来英国王支配に対する「平等」が王侯支配の無くなった今日人権がらみの「差別」に対する対立軸となり力でねじ伏せるような流儀とあいなった
この主張にも爺はそうかな?と首を傾げます 先生がもてなかったりサッカーが下手なのは個体差の問題で「平等」の問題ではありません 先生は問題を意識的にすり替えているか間違えています 「平等」とは醜男でも結婚が出来,短足でもサッカーを許されている状態を言うのです とは先生の例証に対する冗談ですが「門地・身分・性別・宗教・思想・信条」等などにより差別をしない/受けないという事です 権力側が譲らなければ対立せざるを得ないでしょう
ついで先生は力による対立に対処するのは「惻隠」である 武士道精神の中軸である弱者・敗者・虐げられた者に対する思いやりだ
最後に「論理」だけではもたない 「自由」と「平等」は両立しない かくも美しい言葉に酔ってしまった所に世界の直面する苦境の原因があると明言されます
あー疲れた
爺の後知恵:
あんまり長いので章節ごとに反論を書きました 第四章では「情緒」「形」の解説を通じ愛国心に代わる「祖国愛」を訴えます