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ロシア軍、ついにウクライナ侵攻 若干の雑感と解説

2022-02-24 23:30:10 | その他(海外・日本と世界の関係)
24日、ついにロシア軍がウクライナに侵攻した。来るべき時が来たと当ブログは感じている。自称「専門家」の一部には、ロシア軍は侵攻しないとの甘い見通しを振りまく人もいたが、当ブログは侵攻は必ず起こるし、その時期も北京五輪が終わればすぐにでもあり得ると考えていた。ここでは、その根拠を示すとともに、今後起こりうる展開も含めて述べておきたい。

なお、あらかじめ述べておくが、当ブログ管理人は昨年10月4日付記事で告白したとおり、マルクス主義者であるとともに、いわゆる「共産趣味者」でもある。旧ソ連が失敗したのはソ連の官僚指令型社会主義が「人間の顔」をしていなかったからであり、社会主義のすべてが否定されたわけではない。人間の顔に装いを改めた新しい社会主義は必ず復興するし、またそうあらねばならないと考えている。従って以下の記事は「ロシア視点」で記述しながらも、帝国主義的なプーチン政権のロシアの立場を擁護するものではないことはお断りしておきたい。野蛮な帝国主義は、マルクス主義者としての当ブログ管理人が目指す人間の顔をした社会主義とは対極のものである。

 *   *   *

当ブログ管理人が「侵攻は必ず起こるし、その時期も北京五輪が終わればすぐにでもあり得る」と判断した根拠は主に以下の2点である。

<根拠1>ロシアが2022年の新年早々から10万を超える兵力をウクライナ国境へ集結させていたこと

日本でもこのニュースは報道されている。軍事オタクならともかく、軍事に疎い一般の人々にとって、10万が軍事作戦上どのような意味を持つのかを判断するのは難しいかもしれない。しかし、自衛隊の兵員数が陸15万、海4.5万、空4.7万、計25万(出典:「令和2年版防衛白書」(防衛省・自衛隊ホームページ))という数字を示せばその巨大さがわかるだろう。自衛隊の兵員の約半数をウクライナ戦線に投入するのと同じことが起きているのである。ロシアのような広大な国土面積を持つ国では、兵員を移動させるだけでも莫大な経費がかかる。単なる軍事的威嚇や「こけおどし」のレベルでここまではしないであろう。新年早々、ロシアの本気度を見せつけるには十分な兵員数である。

<根拠2>ウクライナの死活的重要性

第2の根拠は、ロシアにとってのウクライナの死活的重要性である。ウクライナはロシアにとって裏庭というべき存在であり、ロシア革命によるソ連建国後、第2次大戦中の一時期、ナチス・ドイツに奪われたことがあるものの、ソ連が奪還した。以降、ウクライナはソ連内の共和国として存在し、ソ連解体後も現在のゼレンスキーが大統領に就任するまではずっと親露派政権が続いてきた。ウクライナはナチスから奪還後、ロシアにとって敵対的外国勢力には一度も割譲したことがない絶対不可侵の土地である。

ソ連・ロシアでは第2次大戦中の独ソ戦を「大祖国戦争」と呼ぶが、ウクライナ東部ハリコフは、ソ連軍とナチスドイツ軍が激突、死闘が繰り広げられ、多くの犠牲者を出した。世界地図を見ればわかるが、ウクライナ・ベラルーシ両国が親露派の手中にある限り、NATO加盟諸国は陸路で直接ロシア領内に入れない。一方でここを失うなら、ロシアにとってウクライナ領内に展開するNATO軍と国境で直接対峙しなければならない事態に陥る。これはロシアにとって悪夢そのものであり、第2次大戦後、最大の危機と言っても過言ではない。独裁者と呼ばれようが屁とも思わず君臨してきたプーチンにとって、この事態を指をくわえて傍観するなら、それは彼自身にとって「第2次大戦後のロシア史上初めて、敵対的外国勢力にウクライナを売り渡した男」の汚名を着せられることを意味する。それはプーチンにとって耐えがたい屈辱であり、政治的死と同じである。ロシアにとっての死活的利益と、彼自身にとっての名誉を守るためなら、どんなことでもするであろう。

以上の2つの根拠から、当ブログは遅かれ早かれ侵攻はあると考えてきた。ロシアに侵攻を思いとどまらせる唯一の手段は、ウクライナが望むNATO加盟を阻止することである。だがそのための外交努力が失敗した以上、侵攻は時間の問題だった。ただそれでも北京五輪閉幕までは待つだろうと当ブログは考えていた。北京五輪中に軍事行動を起こせば、開催国であり、ネット用語でいうところの「レッドチーム」仲間である準同盟国・中国の支持を失うという大きな政治的損失を伴うからである(レッドチームとは、東西冷戦時代に用いられていた「共産圏」という用語に意味としては近いと思う)。ロシアにとってウクライナはいつでも踏みつぶせる程度の小国であり、2週間やそこら待ったところで大勢に影響はないのである。

大半の日本人にとって初めて聞く話かもしれないが、ウクライナのゼレンスキ―大統領は元コメディアンである。政治経験、行政経験はなく、ポピュリズムと、旧ソ連時代、スターリンに虐げられてきたウクライナ国民の歴史的反ロシア感情をうまくくすぐり、大統領の地位をかすめ取った。

ウクライナ国民は、このようなばかげた人物を国のトップに選んだ政治的代償を、これから最も大きな形で払うことになる。コメディアンを大統領に選んだウクライナ国民の行動について、「吉本興業のお笑い芸人が大阪維新に担がれて首相を射止めるようなもの」だと例えれば日本人にもぐっと理解が容易になるであろう。面白半分に維新所属の犯罪予備軍を選挙で連戦連勝させるようなことをしていては、日本もいずれ戦争を招き寄せることになる。日本人にとっても教訓とすべきであろう。

同時に、忘れてはならないのは、ウクライナが四半世紀前、チェルノブイリ原発事故により国土の大部分を放射能で汚染された国家だということである。今回、ウクライナ軍は、チェルノブイリ事故で住民全員が強制避難させられ、無人となった原発労働者の町、プリピャチでロシア侵攻に備えた軍事訓練を行った。「高層マンションなどの建物が当時のまま残されていて、市街戦を想定した訓練に最適だ」というのがプリピャチを選んだ理由だというが、こんなばかげたことをやらかすこと自体が、コメディアン出身の大統領らしく、政治がテレビのお笑い番組レベルに退化してしまっている。放射能汚染に長期間晒され続けた人間は、この程度の思考力、判断力しか持ち得なくなるという事実を余すところなく示している。

そして、この光景はおそらく、日本でも福島原発事故で汚染された東北・関東を中心に、今後10~20年後どんなことが起こるかを示す先行事例でもある。このまま東京に首都を置いていては、日本は立ちゆかなくなるであろう。今からでも遷都、首都移転を真剣に考えるべきだと思う。

ロシアは今後、どこまで軍事作戦を続けるだろうか。親露派支配地域である「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」はおそらくロシアに併合され、チェチェン(旧ソ連時代の「チェチェン・イングーシ自治共和国」)のように自治共和国に降格されるかもしれない。ウクライナ全土を併合するには莫大なエネルギーを必要とするため、ロシアといえどもそこまでは難しいと思う。ロシアの目標はウクライナのNATO加盟を阻止することにあり、その目的が達成されれば十分であろう。

さしあたり、ゼレンスキ―大統領をモスクワに連れ去り、「NATO加盟はあきらめろ。それができないなら辞めろ」と脅す可能性はある。何しろ、旧ソ連はいわゆる「プラハの春」当時、市民とともに官僚指令型社会主義を「人間の顔をした社会主義」に改革しようとしていたチェコスロバキア共産党・ドプチェク第1書記をチェコに侵攻して連れ去り、モスクワで「改革路線を放棄」するまで脅した前科があるからだ。

ゼレンスキーを連れ去り、「NATO加盟をあきらめるか、辞めるか」迫り、受け入れるまでモスクワから帰さない。その上で、ゼレンスキーを辞任させ、ロシア国内でしているのと同じように、反ロシア派を殺すか逮捕し立候補できないようにして、親露派候補者だけの大統領「選挙」を実施、ウクライナを再び傀儡政権の下に置く--このあたりがロシアの考える「落としどころ」ではないだろうか。

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アフガニスタン情勢に思う

2021-09-10 18:36:30 | その他(海外・日本と世界の関係)
タリバンによるアフガニスタン全土制圧という事態が仮になかったとしても、今年は9.11テロ20年の「節目」として、元々、アフガニスタンに光が当たる予定の年でした。大手メディアの中には、9.11から20年の企画としてすでに番組制作を終えていた局、記事執筆を終えていた新聞社もあるかもしれません。

ソ連軍も米軍も勝てなかったアフガニスタンに、今後軍事介入をしようとする奇特な国は、(可能性ゼロとは言い切れませんが)しばらく現れないと思います。タリバンを掃討できそうな国内勢力も見当たらず、しばらくはタリバンの天下が続くと思います。

今回もし光が当たらなかったら、次に当たるのはかなり先のことになるでしょう。私たちの存命中に、もう一度光が当たるチャンスがあるかどうかというところではないでしょうか。だからこそここで私たちが頑張らなければ、との思いがありました。

米軍撤退の報道を受けて、アフガニスタンが再びタリバンの手に落ちるのでは……との予想はしていたものの、アフガニスタン政府軍は悪くても年内いっぱいくらいは保つと思っていたので、想定外だったのは「制圧の速さ」です。8月いっぱいも保たないとはよもや思ってもいませんでした。

しかし、カブール陥落から3週間経った今、改めて振り返ってみると、タリバンは「20年目の9.11」を目標に、意識的かつ周到に全土制圧準備を進めてきたのではないかと思えてなりません。

タリバン報道官は「シャリア法体制で民主主義の国はない」とアフガニスタンでの民主主義に否定的な発言をしていますが、イスラム教を国教としながら部分的にでも選挙を導入している国など、探せばいくらでも見つかるはずです。

アメリカの介入で前回、タリバン政権が崩壊して20年、不完全ながらも一定の自由や権利をアフガニスタン市民は享受してきました。籠の中から大空へ、一度羽ばたいた鳥がみずから籠に戻ってくることはありません。自由や権利の意味を知った市民が20年前と同じような状況に完全に戻ってしまうことはあり得ないと思います。そこに一縷の望みをつなぐことが、今後のアフガニスタン支援の鍵になるような気がします。

アフガニスタン情勢が、まずい方向に向かっているとはっきり自覚したのは、なんと言っても中村哲さんの死でした。地方の軍閥は、井戸を掘っている丸腰の民間外国人1人も守れないのか、と驚くとともに、アフガニスタンの今後の苦難を思いました。

多くのアフガニスタン人が、井戸を掘りに来る中村哲さんを心待ちにしていたと聞きます。現地の人に中村哲さんが愛されていたことはうれしく思いますが、アフガニスタン中の人々が心待ちにしていたら、1人しかいない中村哲さんが来るのはいつになるか分かりません。

哲さんを待つのではなく、ひとりひとりのアフガニスタン人が、自分で井戸を掘ろうと思うようになったとき、アフガニスタンは本当の意味で民主主義のスタートラインに立つのだと思います。それまでにどれだけの時間がかかるかは分かりません。しかしその日は遅かれ早かれ必ず来ると信じます。

私たち日本の市民にできることは、そのためのサポートだ……と書こうとして、ふと、一瞬手が止まりました。アフガニスタンの女性が置かれた過酷な状況は、ぜひ私たちが世界に向け発信しなければならない大切なことのひとつです。しかし、その前に日本の女性の人権状況は大丈夫なのでしょうか。

東京五輪組織委員長が「女がいると会議が長い」と放言して辞任したのはつい最近のことです。世界経済フォーラムが発表した「ジェンダーギャップ指数」では、日本はここ数年来順位は右肩下がりで、「政治」部門に限って言えば、156カ国中147位。つまり下から10番目でとうとうワースト10入りしてしまいました。

日本より下の9カ国は、カタール、ナイジェリア、オマーン、イラン、ブルネイ、クウェート、イエメン、パプアニューギニア、バヌアツ。ほぼすべてがイスラム圏か、男性の部族長が「酋長」などと呼ばれ、ふんぞり返っている部族国家ばかりです。

ここにアフガニスタンの名前がないことにも驚きます。「政治」部門のジェンダーギャップ指数で言えば、アフガニスタンより日本のほうが下という衝撃的状況に置かれています。国際社会はアフガニスタンより日本の女性の地位を心配しているかもしれません。

私は、日本とアフガニスタンの女性の人権状況を、同じ問題として捉えたいと思っています。まず私たち自身が、足下で自分たちの人権のことも頑張らなければならないと思います。米軍を70年近く駐留させている日本と、米軍を追い出したアフガニスタン。頑張らなければ、アフガニスタン市民の方が日本より先に「外国軍のいない本当の民主主義」を実現させてしまう、という冗談のようなことが現実になるかもしれない。

カブール陥落のニュースを聞きながら、ふと、そんなことを考えてしまいました。

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続・ポスト・コロナの新世界を展望する 変わり始めた世界、変われない日本、そして希望

2020-05-25 22:13:49 | その他(海外・日本と世界の関係)
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2020年6月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 新型コロナウィルスの世界的大流行が始まって、3か月以上が経過した。この間のめまぐるしい世界の動きを追い切れなくなり、疲れ果てて「情報収集戦線」から離脱気味の読者諸氏も多いと思うが、それは当然のことである。人間は無限に情報処理能力を上げられるコンピューターではないからだ。こんなときに有効なのは、あえて情報を遮断し、様々な人や組織の検証もされていない言説や細部の動きからは距離を置くこと、地球儀を少し離れた場所から眺めるくらいの俯瞰的な視点で世界を展望しながら、思索にふけることである。

 「家を出て、人に会って、仕事をするという普通の生活の形が壊れてしまった」――筆者の地元紙・北海道新聞(2020年4月21日付)に作家・池澤夏樹さんが寄せた論考である。池澤さんは続ける――「子供の頃、悪いことをすると押し入れに閉じ込められた。今、監禁が刑罰として効果があることを世界中の人々が実感している」。

 日本には禁固刑が今でも存在しているし、世界にも類似の刑罰がある。犯した罪に対する償いとして、一定期間、行動の自由を差し出す禁固や懲役などの刑罰は、法律学の世界では自由刑と呼ばれる。原発事故を起こした日本やCO2の大量排出を長期間にわたって続け、反省のそぶりも見えない世界の100億人類に対し、地球が監禁の刑罰を与えた。今回のコロナウィルス禍をそのように読み解くことも、科学の世界ではともかく哲学や宗教の世界では十分可能だろう。

 ●世界は「禁固刑」に疲れ、自由を渇望

 人間同士を会わせないようにするために、ロックダウン(罰則を伴う強制的な都市封鎖)を続けてきた欧米各国、強制力の伴わない「自粛」要請を続けてきた日本、いずれにおいても人々は長引く「禁固刑」に疲れてきている。「刑」を解き、自由にするよう求める人々の意思は、5月に入って以降、以前のような日常に向かって世界を急速に逆流させ始めたかに見える。この疫病が、感染者の致死率50%という数字とともに世界を震撼させたエボラ出血熱と異なり、震撼するほどのものではないという認識が広がってきたことも「自由への渇望」の背景として見逃すことができない。

 一方、世界的変化への希望が後退するにつれ、本誌前号の記事の冒頭で述べた筆者の「異様な高揚感」は急速にしぼみつつある。「思ったほど世界というのは変わらないものなのだ」「もしこれほどの危機でも世界が変われないとすれば、世界を変えるためにはどれだけ巨大なエネルギーを必要とするのだろう」という思いが急速に強くなっているのである。

 すでに世界で100万人単位の死者数を出しているこの疫病を決して軽視できないことはもちろんだが、実際、前述したエボラ出血熱など破局的な死亡率の疫病に比べると、新型コロナウィルスの感染者に占める死亡率はそれほど高いわけではない。WHO(世界保健機関)が公表している国・地域別の感染者数・死者数データを基に、筆者が感染者数に占める死者数の割合を算出した結果、表の通りとなった。



 ●感染者数、死亡率データから見える「社会のかたち」

 この表から見えてくるのは、欧州諸国だけが15~20%近い死亡率で突出しており、それ以外の国においてはおおむね4~6%の範囲に集中しているということである。国民の20人に1人、学校の1クラスで1~2人が死亡する程度の率ということになる。欧州以外の各国政府にとってはいわゆる社会的マイノリティ(少数派)対策に注入する程度の予算と政治的エネルギーで十分対処できる事態であり、それだけにこれら各国市民は「対策に割く政治的、社会的、経済的リソースがない」という言い訳を自国政府に許してはならないというべきである。

 この結果を額面通りに受け取ることはもちろんできない。衛生状態、人口密度、貧富の格差をはじめとする経済情勢などさまざまな要素を加味しなければならないし、そもそも非民主主義国、情報公開が十分でない国も含まれている。一部の国に関しては、WHOに提出している資料・データが正確かどうか再検討の余地もあろう。

 欧州諸国に関しては、民主主義とともに、検査や治療などの医療体制、医療保険制度などの国民福祉体制にも長い歴史がある。手厚い検査や治療、正確な情報公開が行われているがゆえの高死亡率だとすれば、悪いことだとする評価はむしろ誤りとして排除しなければならない。一方、欧州諸国以外と同じ「低死亡率」グループに属している米国には国民皆保険制度がない。貧困層のほとんどが医療費を払えず、通院もできない現状で多くの貧困層が「コロナによる死亡」とされないまま統計がまとめられている可能性を否定できないと考えられる。ロシアやサウジアラビアに至っては、地域による偏りをなくすためデータを掲載したものの、両国の医療水準やプーチン独裁、絶対王政という政治的非成熟性を考えると、1%に満たない死亡率というデータ自体の信頼性を疑わざるを得ない。

 日本に関しても事情は同じといえる。「37.5度以上の発熱が4日以上継続」という検査の要件を満たすのにPCR検査がほとんど行われず、「接触者・帰国者センター」へのアクセスもできない状況では最も基本的なデータである正確な感染者数すらつかみようがない。実際、新型コロナに感染しながら、検査もされないまま軽症で自然治癒していった人も多いとみられる。政府の打ち出す対策が「アベノマスク」のようにことごとくピント外れなものばかりの状況の中で、この程度の死亡率に抑えられているとすれば、一般市民の高い防疫意識に基づいた自主的で積極的な感染拡大対策(手洗いの励行など)の賜物だろう。

 東日本大震災のときにも見られた現象だが、日本人の「ガバナビリティ」(被統治能力と訳されることが多いが、筆者はあえて「奴隷化能力」という新たな訳語を提起したい)はこのような危機的状況のときに極大化される。政府が頼んでもいないのに、元から地域社会を支配していた相互監視体制と同調圧力が自然強化され、大多数の国民が向かうべきと規定した路線から逸脱した者は徹底的に叩かれる。「元のレールに戻る」よう警告を受け、従わなければ抹殺される。市民社会の論理というより、どちらかといえば「ムラ社会」の論理に近い日本社会のありようが、死亡率を最小限にとどめたというのが筆者の現在の推論である。だが一方で、このありようこそが日本社会を息苦しくさせ、技術革新を停滞させ、社会そのものの変化の芽も摘んでいる元凶にほかならないのである。

 ●リモートワークとエッセンシャル・ワーカー、対照的な風景の中で

 とはいえ、急激に人類を襲ったコロナ禍は、日本社会の本当の危機をまたも浮かび上がらせた。9年前の東日本大震災でも日本社会の危機が浮かび上がったが、見えた風景はまったく異なる。9年前は、巨大地震、津波、相次ぐ原発の爆発により、破局的事態が一気に訪れたものの、そうした事態は東日本という一部地域に限定され、北海道や西日本はほぼ無傷で残った。それに対し、今回は破局的事態ではあるものの、そのピークがいつになるかの予測が難しく、また全世界が一気に危機的状況を迎え、地球上のどこにも逃げる場所がないという意味で、9年前とはまったく様相が異なるのである。

 9年前も、日本での原発事故を見て、脱原発に舵を切る国がいくつか現れた。立法院(国会)で電気事業法を改正し脱原発を方針化した台湾、2022年までの原発からの撤退を決めたドイツ。韓国も文在寅政権発足以降、脱原発の方針を決めている。察しのいい読者諸氏はすでにお気づきかもしれない。韓国、台湾、ドイツ――福島原発事故を受けて直ちに脱原発の方針を決めたこれらの国々こそ、今まさに新型コロナ対策でも最も成功しているグループなのである。

 一方で、9年前と今回の危機には共通点もある。人口が密集する大都市のあり方、エッセンシャル・ワーカー(9年前にはこの言葉は今以上に知られていなかった)の重要性などが再び浮上した点である。このうち前者に関しては、9年前を上回る規模で世界に変革を迫る原動力になりつつある。準備もないまま、人間同士の接触を減らすため、なかば強制的に移行を余儀なくされたテレワークなどのリモートワーク(オンラインでつながりながら離れた場所で仕事をする働き方)が、試行錯誤を経ながらも、事務職など一部職種の人々にとって、すし詰めの通勤電車や無駄な会議の連続といった非効率を排除できるとわかった点は大きい。これらは今後、「禁固刑」が解かれ社会が日常を取り戻したあとも続けるべき改革であろう。全員が事務所に集まって仕事をする形態でなくなると、研修や業務評価といった点をどうするか懸念されているが、全面リモートワークではなく希望者限定、あるいは業務の一部のみリモートワークに移すなどの中間的形態であれば弊害も少ない。ただその場合、単に大都市の通勤電車の混雑率が若干下がる程度にとどまり、リモートワークによる改革が目指した効果のほとんどは失われることになる。大半の労働者が月のほとんどを結局、事務所に出勤しなければならないのであれば、最大の改革になるはずだった企業の地方移転に向けたインセンティブは働かず、東京一極集中が今後も続くことになるからである。感染の危険が下がれば「全員事務所に出勤せよ」となり、リモートワークはまたも壮大な実験のままで終わる危険性がある。日本はこの道を進みそうな悪い予感がしている。

 対照的に、対人サービス業、接客業を中心に、リモートワークなどそもそもしたくてもできない業種も多い。医療、福祉、公共交通、運送・物流、生活必需品を扱う販売店の従業員などである。どんなに感染が怖くても、生活必需品・必需サービスを取り扱っているために閉店も休業もできず、接客も続けざるを得ない人々である。今回、エッセンシャル・ワーカー(直訳すれば「必要不可欠な労働者」)という英語から直輸入された単語とともに、これらの業種の人々に少しだけ光が当たるとともに、彼らに対する差別も行われるなど功罪両面が明るみになった。従来、これらの業種の労働者は、社会的に必要不可欠な仕事をしているにもかかわらず、日本でも世界でも低賃金・長時間重労働に苦しめられてきた。やや極端な表現をすれば、使命感だけが彼ら彼女らを支えており、それをいいことに政府も自治体も消費者も、全員が彼ら彼女らに甘え、「使命感搾取」という状態に置き続けてきたのである。これらエッセンシャル・ワーカーに対して必要なのは、その仕事の重要性に見合う待遇を保障することであり、気休めに過ぎない「頑張れ」横断幕やライトアップなどでは決してない。そのような小手先のごまかし自体が、彼ら彼女らの新たな怒りを引き起こしつつあることに、私たちの社会はもっと敏感でなければならない。

 ●大打撃を受けたサービス業、飲食店はどうなるか

 ロックアウトや外出自粛によって最も打撃を受けたのは、人の移動自体を商売にしている観光、ホテル、交通、飲食店といったサービス業である。このうち観光、ホテル、交通に関しては外出自粛が解かれない限りいかんともしがたいが、若干様相が異なるのが飲食業界である。

 仮にこの新型コロナの感染拡大がなかったとしても、飲食業界は曲がり角にあり、早晩、大幅な改革は避けられない運命にあった。「すき家」などのチェーン店で5年ほど前から顕在化した極端な人手不足、相次ぐ24時間営業の打ち切りなどに見られるように、高度成長期からデフレ時代に築いた経営手法が行き詰まり、壁につき当たっていた。牛丼一杯が300円~500円あれば食べられる吉野家は日本の安売りの象徴といわれ、長く続いたデフレと人余り時代の寵児としてもてはやされた時期もあった。賢明な本誌読者のみなさんには説明不要かもしれないが、労働者を店舗に24時間拘束し続け、賃金も光熱費も24時間、365日分ずっと支払い続けながら顧客に提供される牛丼と、1日8時間だけ労働者を拘束して、その分だけの賃金を支払い、光熱費も8時間分だけ支払いをすればすんでしまう工場で製造され、スーパーやコンビニに並べられる弁当が、ほとんど同じ価格であること自体がそもそもおかしいのである。

 日本の飲食店の異常な安さを指摘する海外からの訪日客の声を幾度となく筆者は耳にした。海外では麺類などの軽食であっても、食べ物を注文すれば2000~3000円程度かかることがほとんどだが、人件費などのコストを考慮すれば海外のほうが適正価格であることは言うまでもない。ただでさえ低賃金、長時間重労働という労働者の犠牲の上に薄氷の上で踊っていた日本の飲食業界は、コロナという未曾有の危機の前に脆くも瓦解した。たとえ今後、外出自粛が解かれ、飲食店に客足が戻り始めるとしても、こうしたばかげた業界構造まで「すべて元通り」でいいわけがない。日本の飲食業界は、コストの適正な価格への転嫁をはじめ、これまでの悪慣行を見直し、ゼロベースであり方そのものを見直すくらいのことをしないと、コロナ後もおそらく生き残れないであろう。

 ●「先見の明」あった先月号予測~あらゆるメディアが「新自由主義の死」を予測

 最後に、新型コロナ禍をきっかけに大きく変わった重要な点がある。多くの有識者・メディア・政治家など、社会の支配層を占める人々によって「新自由主義の死」が公然と語られ始めたことである。

 みずからも新型コロナに感染し、長期の入院を経て生還したボリス・ジョンソン英首相は、NHS(国民皆保険制度)の下で献身的な治療を尽くしてくれた病院スタッフの個人名をひとりひとり挙げた上で、謝意を表明。「確かに社会というものはあるのです」と述べた。かつて新自由主義の時代の幕開けを告げたマーガレット・サッチャー英首相(当時)は「社会など存在しない。あるのは自立した個人だけ」だと言い放ち、自己責任と自助努力による「英国病」克服を訴えたが、同じ保守党出身のジョンソン首相がやんわりとそれを否定してみせたのである。もしかすると後の時代、英国における新自由主義への「死亡宣告」として振り返られることになるかもしれない重要な転換点だろう。

 水道民営化にかねてから反対してきた岸本聡子さん(在オランダNGO「トランスナショナル研究所」研究員)は、ヨーロッパの実例を基にこう警告する。「(水道が民営化された国々・地域では)企業が利潤を獲得するだけ、水道料金は高くなる。料金の支払いができない世帯は、それを禁止する法律がなければ水道を止められる。感染症予防のために手洗いは必須だが、手洗いのできない世帯が先進国でも増えている」。感染症予防と衛生対策のための最も基本的な社会資本である水道が民営化で企業に売られたことが新型コロナ禍の拡大につながっている可能性を示唆する注目すべき指摘である。世界で最も水道民営化が徹底し、先行していたのはフランスだ(なお、首都パリは高い代償を払い、すでに水道を再公有化している)。なるほど、フランスの感染者数に対する死者数の割合は世界一で、感染者の5人に1人が死亡しているのだ!

 疫病は確かに人類共通の敵ではあるが、人々を平等には襲わない。富者よりも貧者、資本家よりも労働者、テレワークのできる恵まれた知識労働者よりも逃げ場のないエッセンシャル・ワーカー、強健な若者よりも病弱な高齢者、指導的立場にいる白人よりも被支配的立場を強いられている有色人種などのマイノリティに集中的に襲いかかる。それゆえ、感染症との戦いは疫学的対処ももちろん必要だが、それ以上に人々の平等と「生活水準の全体的な底上げ」が重要なのである。

 人間は弱い生物であり、自分ひとりで解決できることには限りがあり、それには「社会」と連帯、助け合いを必要とする。新型コロナが明らかにしたのは、そんな当たり前の現実だ。貧困家庭に生まれたこと、不慮の事故に遭い障害を背負ったこと、社会の支配的な人たちと異なる皮膚の色や性別に生まれてきたことが、果たして自己責任だろうか。新自由主義を信奉してきた人々は、今こそ思い知るときだろう。今日は成功を謳歌しているあなたが明日も成功者で居続けられる保障などどこにもないのだ。多くの新自由主義者が自分の誤った考えを捨て、「社会」と連帯、助け合いの輪に加わるなら、世界をよりよい明日へとつなぐことができる。新型コロナがピークを過ぎつつある現在、見えてきたおそらく唯一の、そして最大の「希望」といえる。

(2020年5月24日)

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ポスト・コロナの新世界を展望する 「変わるかどうか」ではなく「どう変わるか」が問題だ

2020-04-25 12:52:48 | その他(海外・日本と世界の関係)
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2020年5月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 ●異様な高揚感

 1月に中国・武漢で発生した新型コロナウィルスは瞬く間に世界人類を覆った。メディアで報道されているのは明けても暮れても感染者数や死者数のニュースばかりだ。

 人類史的に見れば100年に一度の危機的な情勢の中で、こんなことを書くのは不謹慎のそしりを免れないと思うが、今、筆者はなぜか異様な精神的高揚感の中にある。昨年春あたりからずっと、睡眠薬が手放せないほどの精神的不調にあったのが、ここ2か月くらいは急回復し集中力も増してきている。睡眠薬をそろそろやめてもいいと考え始めているくらいなのだ。

 この高揚感の原因ははっきりしないが、この間ずっと筆者を悩ませてきた忌まわしい安倍政権、日本人の誰も終わらせ方がわからなくなりつつあるこの異常な長期政権にはっきりと終わりの兆しが出てきたことが、少なくともその要因のひとつではあろう。

 最近「サル化する世界」という刺激的なタイトルの著書を出版し、発売わずか2日で早くも重版に達したという内田樹(たつる)神戸女学院大学名誉教授は指摘する。「70%が反対する政策であっても、30%が支持すれば実施できるという成功体験に自民党は慣れ過ぎた。国民を分断して敵味方に分けて、味方を優遇して敵を冷遇するというネポティズム〔筆者注・縁故主義〕政治しか彼らは知らない」。内田名誉教授は「自民党がかつてのような国民政党としてもう一度党勢を回復するということはない。安倍政権が終わった時に同時に自民党という政党も終わる」と予測する(注1)。

 インドネシアでスハルト長期独裁政権を支えた与党「ゴルカル」は、「ゴルカルおよび政党に関する法律」によってインドネシアでは他の政党と明確に区別されていた。ゴルカルは政党ではなく、さまざまな業界の利害を代表しつつその調整を図る「職能団体」であるとされ、その特別性のゆえに他の政党が拠点を結成してはならないとされた地方町村部にも組織を置くことが認められていた。国会でも議席の特別配分枠を与えられるなどの優遇措置と引き替えにスハルト政権を支える義務を負っていた。

 朝鮮民主主義人民共和国を支配する朝鮮労働党は、全国民を「核心層」(党・政府の核心的支持層)、「敵対層」(党・政府への反対層)、「動揺層」(政治経済社会情勢によって揺れ動く両者の中間層)に三分して支配していると、朝鮮情勢に詳しい重村智計(としみつ)元毎日新聞論説委員は指摘する。朝鮮の全人口に占める比率は「核心層」30%、「動揺層」50%、「敵対層」20%だという。朝鮮労働党も30%の「核心層」だけを固めて残り70%を統治しているのだ(注2)。

 独裁的な政治体制の下では、強い政治的決意で政府与党を支持する勢力が30%程度存在すれば社会を統治できることは、ゴルカルや朝鮮労働党の実例が示している。自民党1党支配体制の下で選挙も議会も司法も形骸化し、党内からの安倍後継者も反対者も現れず、30%程度に過ぎない「核心層」を固めて統治する安倍政権のスタイルは、いつの間にか朝鮮やスハルト時代のインドネシアとそっくりになっている。実現を目指すべき政策も消え、所属議員に多額の献金をしていた理美容業界を、小池百合子東京都知事の提唱した営業自粛要請の対象から除外するよう頑強に抵抗するなど、自民党の「職能団体」化も極限まで来ている。筆者の目には自民党が「日本版ゴルカル」に見えて仕方ないのだ。そのゴルカルが、スハルト政権崩壊の後を追うように雲散霧消していったことを考えると、内田さんの予測は案外いい線を行っているのではないかと筆者は思うのである。

 今日のような時代の大きな変わり目には、物事の細部は大きな意味を持たないことが少なくなく、内田さんのように時代の潮流を読む大きな目を持っているほうがいい。

 ●テロリストも真っ青のクルーズ船対応

 筆者に安倍政権の「終わりの予感」を抱かせたのは、なんといっても2月、横浜港に入港した豪華クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」をめぐる対応であった。このクルーズ船に関しては、浴びせるようなラッシュ報道があったので詳細は繰り返さないが、安倍政権の対応はわざわざ感染者を濃密で閉鎖的な船内空間に捨て置き、感染を極大化させる最悪の対応にほかならない。筆者は職業柄、動物の感染症を研究するため、細菌やウィルスを培養後、隔離して顕微鏡などでその生態を観察する研究者らと話すこともあるが、細菌やウィルス数を隔離して研究可能なレベルにまで増やすため、小さな試験管やシャーレに閉じ込めて培養することが多い。安倍政権のクルーズ船対応は、小さな試験管やシャーレに細菌やウィルスを閉じ込める培養施設のやり方とそっくりなのである。しかも、あろうことか安倍政権は「ウィルス培養シャーレ」と同じ状態に長期間置かれ、感染の危険性が極大化された乗客に対し、下船時の検査で陰性だったという理由だけで経過観察もせず、電車などの公共交通機関を使って帰宅するのを認めてしまった。

 もし、東京オリンピックを「破壊」するため、直前に東京でひと騒ぎ起こしてやろうと細菌・ウィルステロを計画したものの、どうすれば最も効果的に実行できるかわかりかねていたテロリストが世界のどこかにいるとしたら、安倍政権がわざわざその手ほどきをしたにも等しい。「安倍、サンキューな」とこの地球のどこかでテロリストが微笑んでいるかもしれない。安倍政権と自民党に、なぜ破防法が適用されないのかわからないくらいだ。

 結局、前号の記事でも触れたように、東京オリンピックは1年延期が決定した。この安倍政権の対応のまずさを見ていると、1年延期しても開催できるとは筆者にはとても思えず、いずれ中止に追い込まれるだろう。東京オリンピック「破壊」を企てていたテロリストたちがもしいるとしたら、彼らの野望がなんと安倍政権みずからの手で実現するのだ。

 ●民主主義国家での保健衛生対策には政府と市民の相互信頼が必要

 新型コロナ対策を東アジア各国だけに絞ってみても、この1か月あまりでますます日本「独り負け」がはっきりしてきた。独裁国家と民主国家を一律に論ずることは適切ではないので、それぞれ見ていこう。

 独裁国家である中国は、新型コロナの発生源であるにもかかわらず、武漢と湖北省を強権的に封鎖し、人の移動を禁止する措置が奏功。わずか3か月で封じ込めに成功しつつある。国会に相当する全国人民代表大会(全人代)を延期してまで人の移動を封じ込めた習近平国家主席は、大きく揺らぎかけた政治的威信を回復する可能性がある。全人代が夏までに開催できれば、中国は「新型コロナとの決戦に勝利」と大々的に宣伝するかもしれない。

 同じく独裁国家の朝鮮は、中国との国境を早々と封鎖した。国営メディアの「感染者ゼロ」との報道とは裏腹に、数千人単位の感染者が朝鮮人民軍にまで及んでいるとの情報もあるが、国民の間にパニックなどは起きていない模様だ。

 しかし、なんといっても最も筆者を驚かせたのは国営メディア・朝鮮中央テレビによる3月のニュース報道だ。米国で市民の不安感が増大、生活必需品の買い占めが拡大していると事実を報道した上で、こう述べている――『商業ネットワークでは必需品の需要を充足できず物価が上がり、人々が商品を大量に購入するので社会的混乱が醸成されている』。資本主義に対する社会主義の勝利とはっきり言い切らないところが憎い。自国にとって都合の良い事実を淡々と指摘、「我々式社会主義」と計画経済の優位性、資本主義の「無計画経済」ぶりをさりげなく国民にアピールしたのだ(注3)。

 朝鮮中央テレビのニュースは米国についての報道とはいえ、日本も事情は同じである。多くの日本人が東アジア最貧国とみなしていた朝鮮にこんなことを言われる日が来るとは思ってもいなかった。日本ではその「無計画経済」のせいで、感染拡大が深刻化して1か月半を経た本稿執筆時点でも、いまだにマスクをめぐる混乱が続いている。

 民主国家である韓国、台湾も感染封じ込めに成功しつつある。韓国は徹底したPCR検査の実施とともに、重症者だけを入院させ、軽症者は病院以外の施設で隔離する政策が奏功している。隔離という重大な私権の制限は民主国家の性格上、最小限でなくてはならないが、それでも日本のような市民の移動制限を伴わずに飲食店が再開可能な段階までこぎ着けつつある。台湾では前号で既報の通り、あらゆる政策資源を投入し、とうとう人が密集する行事の典型であるプロ野球の開幕さえ実現してみせた。

 あらゆる対策が後手後手に回り、死者数こそ少ないものの感染拡大が防止できない日本と感染防止に成功しつつある韓国、台湾を分けたものは何か。筆者は、政府と市民との相互信頼があるかどうかが鍵とみる。台湾は、香港での民主化運動弾圧に危機感を抱いた在外有権者が、先の総統選ではわざわざ飛行機で一時帰国してまで投票。総統選の直前の時期、台湾へ向かう飛行機はどの便も満席だったとの証言もある。投票率は最終的に70%を超え、市民は蔡英文・民進党政権に圧倒的な信任を与えた。台湾が、強権に頼らずスマートで効果的な対策を矢継ぎ早に打ち出せた背景に、「政府は市民の良識を信頼し、市民も政府に高い投票率、高い支持率で信任を与える」という相互信頼関係が見て取れる。

 韓国でも、先日行われた国会議員選で文在寅政権与党「共に民主党」が300議席中、180議席(60%)を獲得し、悲願だった議会多数の確保に成功した。投票率は66%とほぼ3分の2の有権者が投票した。民主主義国家で政府の施策が信頼を得るためには、市民の側に政府への信頼があることが絶対条件なのである。

 安倍政権の政策が後手後手に回っているのは、韓国、台湾と正反対だからである。日本では政府と市民が相互信頼どころかお互いに相手を「バカ」だと思っている現状がある。安倍首相が全国一斉休校を唐突に発表した2月末の記者会見でも、直前まで「首相が会見をやったらやったでどうせ批判される」と首相周辺は消極的だったと伝えられている(注4)。この非常事態にこのような最低最悪の政府しか持てなかったことこそ、コロナそのもの以上に日本をどん底に陥れた悲劇として後世、歴史に記録されるであろう。

 韓国、台湾が6~7割の高い投票率を維持し、台湾に至っては在外有権者がわざわざ帰国してまで総統選に投票しているのに、日本は自宅の隣の投票所にさえ「投票したい候補者がいない」と有権者の半分が背を向ける。そのくせ非常事態が起きると苛立ちは政府批判という健全な方向ではなく、反論できないドラッグストア店員など弱者に対し「お前のマスクはどこで入手したのか。隠しているなら出せ」などという理不尽な形でぶつけられている。こうしたサル並みの市民が安倍政権をのさばらせてきたのであり、日本の市民は内田さんからの厳しい「サル化」批判を甘受するより他になかろう。少なくない市民の間にこうした危機感があるからこそ「サル化する世界」は売れに売れているのである。

 ●グローバリズムからローカリズムへ、大都市から地方へ

 「新型コロナが収束後、世界は変わるか」と尋ねられたら、筆者は迷うことなくイエスと答える。問題は変わるかどうかではなく「どう変わるか」だ。

 すでにコロナ以前から明確に見えているひとつの方向性がある。グローバリズムからローカリズムへ、大都市から地方へという方向性である。英国のEU離脱はそのひとつの象徴だが、高い人口密度の中でどうしても人々が密接する形で生活せざるを得ない巨大都市に新型コロナは大きな打撃を与えた。巨大都市は感染症対策上の脅威とみなされ、その存在から再考を迫られるであろう。

 東京都の人口は、住民基本台帳ベースでも1395万人と、1400万人が目前だ。実際には住民票を移さないまま転入している人も多く、実勢ベースなら夜間人口でもすでに1400万人を超えている可能性がある。筆者の子ども時代(今から30年ほど前)は東京都、神奈川県、千葉県の3県合計でこれくらいの人口といわれたものだ。東京一極集中の是正が叫ばれながら、事態は逆の方向に一貫して進んできた。遠くない将来、首都直下型地震や南海トラフ大地震の危険なども指摘されているが、東京への人口流入はまったく止まる気配がない。大企業の本社の大部分が東京に集中しているが、本当に東京でなければならない業務がいったいどれだけあるのだろうか。今こそ業務を真剣に総点検し、大都市過密・地方過疎の問題を解決できる「地方移転」が可能な企業は決断すべきときだ。

 ドイツでは、第2次世界大戦後、大都市への人口集中を抑制する政策が採られてきたと指摘する識者もいる。大都市がナチスを生んだという反省から人口集中政策が否定されたとの主張もある。筆者が今回、本稿執筆に当たって探した範囲では、その主張を裏付ける資料は見つけられなかったものの、「少数意見を尊重する民主主義の理念ないし規模の小さな自治体を優先する補完性の原理の考え方がドイツにおける大都市の制度改革やその運用改善にあたって一般に浸透しつつあるのではないか」との仮説(注5)が提起されていることは日本でも注目されるべきであろう。実際、これらの仮説を裏付けるように、ドイツでは最も人口の多い首都ベルリンでも343万人と、東京の4分の1に過ぎないのである。人口百万人を超える都市もハンブルク、ミュンヘンを加え3つしかない。今回、ドイツで新型コロナ感染対策が比較的うまくいっている理由として、こうした人口分散政策を挙げることはあながち間違いではないであろう。

 同時に少なくとも現時点で言えることは、地方の時代がこれから本当の意味で来るということである。多くの企業が人と人の接触を極力避けるため、半ば強制的にテレワーク含むリモートワークの実験に踏み出すことを余儀なくされた。この実験は長期化し、日本社会をジワジワと変えていく可能性がある。長距離、長時間「痛勤」は無駄だとの考えが広まれば、人々は余裕時間を確保し、東京でなくてもいい仕事は地方に移るであろう。半世紀近く「社畜運搬車」状態だった東京の「痛勤」電車は貨物輸送などより生産的な役割のために解放されるだろう。一方、人口が戻ってくる地方で新たな町おこしの動きが出るかもしれない。

 人が地方に分散して住むようになれば、集中型エネルギー源として経済的に無駄の多い石炭火力発電や原発は淘汰され、小規模自然エネルギーへの置き換えが進む。どう見てもバラ色の方向への変化しか思い浮かばない。こうした社会への転換の中で、「集中」「重厚長大」「大量生産・大量廃棄」「経済効率」という物差ししかない自民党も時代の遺物として廃棄されるだろう。そこにこそ日本復活の鍵がある。

 ●生活必需品を自給できる国がポスト・コロナの勝者となる

 コロナ危機は、グローバリズムの下で、国際分業体制が当たり前と考えていた世界を揺さぶり、一気に鎖国に追い込んだ。この一時鎖国状態の発生によって、自分たちの国に何が不足しているかが浮き彫りになった。アメリカは公的医療保険制度、中国は民主主義体制――。「自由・平等・博愛」が旗印のはずのフランスに、意外にも平等と博愛が不足していることも見えてきた。露骨なアジア人差別の横行がその証拠だ。

 日本に足りないものが生活必需品の自給体制であることもはっきりした。世界保健機関(WHO)や世界貿易機関(WTO)など3国際機関は、このまま国境管理による鎖国政策が各地で続いた場合「国際市場における食料不足が起きかねない」との声明を発表している。

 食料自給率が37%の日本は、コロナ禍が長引けば飢える可能性がある。今後どうすべきだろうか。当面、自給が可能なものはコメ、卵、牛乳だ。これらを食べて当座の危機をしのぐしかないが、コメにしても他に栄養源がなかった戦前の日本は年間1200万トン近く消費していた。今では人口が当時の1.5倍に増えているのに年間生産量は800万トンを切っている。今コメが自給できているのは「他の栄養源が豊富になり、日本人が以前よりコメを食べなくなったから」に過ぎず、コメしか食べるものがなくなったときにこの生産量で足りるのかと聞かれれば、答えはノーである。

 読者のみなさんは「平成の大凶作」といわれた1993年の大冷害をご記憶だろうか。この年、厳しい冷害のため東北では作況指数ゼロの地域が続出。初夏を迎える頃には凶作の噂が広まり、早くも店頭からコメが消え始めた。最終的に200万トン近いコメが不足、日本は1961年の「完全自給達成」以降では初めて外国産米の大量輸入に追い込まれたのである。

 この年――1993年のコメ生産量が790万トンといえば、現在の状況がどれだけ深刻かご理解いただけるだろう。日本のコメの生産基盤は弱体化し、毎年「平成の米騒動」当時と同じ生産量しかあげられていないのである。それでも当時のような米騒動が起きないのは、日本人が以前ほどコメを食べなくなったからだ。この状態で海外産の他の栄養源すべてがストップしたら――これ以上は、もう怖くて続けたくない。

 トヨタなど一握りの大企業の利益と引き替えに牛肉・オレンジ輸入を自由化した歴代自民党政権は、国民の胃袋を満たすものを海外に差し出し、空腹の足しにならないものを守るという売国的外交政策を繰り返し今日まで来た。いわゆる保守派と呼ばれる人の手に本誌が渡るとはとても考えられないが、本来なら愛国的な保守の人たちにこそこの危機を理解してもらいたいと思っている。マスクがいつまでも市民の手に渡らない日米両国が「北」のメディアにすら笑われていることはすでに述べた。衛生用品や食料品などの生活必需品さえ満足に自給できない国は、「北」のミサイル襲来を待たずしてみずから滅ぶことになろう。くどいようだが、日本の市民にとって最大の敵は「北」ではなく自民党と安倍政権であることを今すぐ知らなければならないのである。

注1)「打って一丸」の危うさ(ブログ「内田樹の研究室」2020年3月6日付記事)

注2)「北朝鮮データブック」(重村智計・著、講談社現代新書、1997年)P.66

注3)この映像は動画投稿サイト「ユーチューブ」にアップロードされており、本稿執筆時点でも見ることができる。

注4)「朝日新聞」2020年2月28日付記事。

注5)「ドイツにおける大都市制度改革の現状と課題―都市州(ベルリン・ハンブルク・ブレーメン)と中心都市・周辺地域問題-」(片木淳・早稲田大学政治経済学術院公共経営大学院教授)

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時代の転換点に起きた新型コロナウィルス大流行~「ポスト・コロナ」後の世界を読む

2020-03-25 23:25:19 | その他(海外・日本と世界の関係)
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2020年4月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 年明け早々、中国湖北省武漢市でひっそりと始まった新型コロナウィルス(COVID-19)の大流行は、文字通り一夜にして世界の光景を一変させてしまった。地球上のあらゆる目抜き通りからは人が消え、誰もが自宅に閉じこもり、息を潜めて状況の推移を見守っている。

 世界史的に見ると、1720年代にはペストの大流行があった。1820年前後にはコレラが世界的猛威を振るった。1920年代には「スペイン風邪」が大流行。「職業としての政治」「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などの著作で知られるドイツの社会学者マックス・ウェーバーは同年、スペイン風邪で没している。そして今回のコロナウィルス大流行だ。未知の伝染病流行は、まるで計ったように正確に100年周期で起きている。

 伝染病流行がなぜこのような周期性を持っているのかは判然としない。地球上で歴史を作る生物は人間だけだが、伝染病の流行はしばしば歴史を作らない他の動物による影響も受けるからだ。生物の進化や退化、生活環境の変化も加味しなければならず、伝染病の流行がなぜ周期性を持つのかの説明は難しいのが実態だ。

 歴史的資料が少なすぎて検証が困難な1720年代の事情や、人間以外の動物の動向も無視して近代以降の人類史だけで見ると、1820年代のコレラ流行時はフランス革命とアメリカ独立から半世紀弱という時代だった。アメリカは次第に国際社会で力を付けつつあったが、1823年、モンロー大統領が自国第一主義を採り、国際社会には積極的に関わらない、とする有名な「モンロー主義」宣言をしている。また、1920年代のスペイン風邪流行当時は第1次大戦が終了した直後で世界は疲弊していた。アメリカは第1次大戦に最終段階になって参戦、ヨーロッパがみずから始めながら終了させられないでいた大戦に終止符を打ったことで国際的な威信を高めたが、100年続いたモンロー主義を転換して積極的に国際社会の秩序づくりに関わるには至っていなかった。そして、今回のコロナウィルス大流行も、EUから英国が離脱、トランプ政権が「自国ファースト」を唱え、国際社会との関わりを縮小させる方向性を強める中で起きている。

 こうしてみると、世界的な伝染病の大流行は、内政、外交ともに国際協調よりも自国優先の内向きの政策を採り、国際社会でリーダーシップを取る意思のない国が大勢を占める時期に起きていることが見えてくる。伝染病の局地的な発生はいつの時代も地球のどこかで起きているが、感染拡大防止に向けた国際協調体制を世界が足並みを揃えて構築できないとき、それが拡散して惨事にまで至るのだと考えるべきだろう。またこれに付随して、国際社会の「覇者」が交代局面を迎えている時期に大流行が起きているという共通点も見逃せない(1820年代はアメリカの発展、1920年代はアメリカ「覇権」の確立、そして今回はアメリカから中国への覇権交代という世界史的事情が背景に見える)。疫病の大流行がしばしば世界史の転換点になったと主張する著作も過去、数多く出されているが、実際には疫病それ自体が歴史の転換点になったというよりも、歴史の転換点に起きた疫病の大流行が後世に生きる人々から見てその象徴として認識されたという側面が大きいように思われる。疫病の世界的大流行に周期性があることも、こうした世界史との関係の中で説明できるのではないだろうか。

 ●<国際社会>世界の覇権はアメリカから中国へ移る

 ほぼ200年にわたって続いてきたアメリカの国際社会における覇権は、経済的にはともかく政治的にはこれで終わることになる。今回の新型コロナウィルスの発生源が中国だったにもかかわらず、中国は早期の「封じ込め演出」に成功し、国際社会での発言力を強める。

 中国は「一人っ子政策」の弊害がこれから表面化し、日本を上回るハイペースで少子高齢化に見舞われる。人口が高齢化する国が発展を続けることはあり得ないので、中国は「一帯一路」構想を通じてEUのような「アジア連合」の結成をもくろみ、その中心をみずからが占めようとするだろう。人口構成の若い東南アジア、中央アジア諸国の取り込みに成功すれば、北京はEU本部のあるブリュッセルのようになる。

 ブリュッセルに首都を置くベルギーも15歳未満の人口比率が世界194カ国中152位、逆に65歳以上の人口比率が23位という少子高齢化国家だが、単に政治的、社会的「司令塔」になるだけなら人口構成が若いこと、経済活動が活発であることは必要条件ではない。

 ●<国際経済>世界は緩やかに「大きな政府」へ向かう

 第2次大戦後、局地的戦争はあったが、世界の何分の一かが巻き込まれるような大きな戦争がなかった。このような平時は行政需要が増大し、官僚機構が膨張する。日本でも世界でも膨張する官僚機構をどのように縮小するかが課題となった。この問題に最も効果的に応えるのが新自由主義の導入だった。行政改革が合い言葉となり、公共サービスはどんどん解体、民営化された。1980年代頃から拡大した新自由主義は、2000年代に入る頃から弱者切り捨て、格差拡大として問題視されるようになった。

 国民皆保険制度を持たないアメリカで、新型コロナウィルスの拡大が止まらないことは、新自由主義の恐ろしさをまざまざと見せつけている。貧困層は検査通院すら困難なアメリカの事情を考えると、実際の感染者数は公式発表よりはるかに多いと見るべきだろう。

 アメリカでは現在、大統領選挙に向け予備選が行われているが、とりわけ民主党の候補者選びにおいて最左派のバーニー・サンダース候補が唱える「国営の皆保険制度創設」に若者の強い支持が集まっている。サンダースが所属する民主党内の最左派グループ、DSA(アメリカ民主的社会主義者)はわずか数年でメンバーを大幅に増やしており、若者を中心とした戸別訪問で支持者と票を発掘し、勢力拡大につなげている。ソ連時代の硬直した官僚的社会主義体制を知らない若い世代によって、社会主義は負のイメージを刷新されつつある。新自由主義の怖さを目の当たりにした世界は、新型コロナウィルスの大流行を機会に、一気に社会主義への移行は無理としても、大きな政府を求める人々の声を背景に、再びその方向に舵を切り始めると予測する。

 ●<日本社会>東京五輪が開催できず韓国、台湾との差が決定的になる

 今年7月に迫った東京五輪までに事態が収束する可能性はほぼゼロに近い。少なくとも東京五輪の予定通りの完全開催の目は消えたと言ってよく、本誌が読者のお手元に届く頃には何らかの重大決定(中止または大幅延期)が行われている可能性もある。仮に中止決定なら、日中戦争拡大により自主返上させられた1940年大会に続き、「開催決定後二度も大会中止に追い込まれた世界唯一の都市」という記録が打ち立てられる。大会招致関係者には耐えがたいかもしれないが、それはそれで意義あることだと本稿筆者は考える。

 2020年夏の五輪招致に当たって、IOC(国際五輪委員会)が2012年5月に実施した世論調査では、候補地となっていたマドリード(スペイン)、イスタンブール(トルコ)、東京の3都市のうち、住民の招致「賛成」はマドリード78%、イスタンブール73%に対し東京は47%。逆に「反対」はマドリード16%、イスタンブール3%に対し東京は23%だった。東京は賛成が圧倒的に少なく、逆に反対は3都市の中で最多であったことを改めて指摘しておきたい。

 この世論調査を受け、IOCは、東京が開催地となった場合に懸念すべき点として、夏の電力不足のほか日本国内の「熱気不足」を指摘している。初めから都民の半分も支持していなかった五輪、福島第1原発からの汚染水流出が止まってもいないのに「アンダーコントロール」とウソまでついて招致した五輪はやはり招致自体が間違っていたのである。

 開催決定後も、エンブレム選定をめぐるゴタゴタや旧国立競技場解体後に浮上した新国立競技場の工法変更などトラブルが続いた。3月20日の聖火到着式では聖火リレー用の聖火がなかなか点火しないばかりか、航空自衛隊「ブルーインパルス」による空への五輪マーク描画も5色の煙があっという間に強風で流され失敗に終わった。東日本大震災被災者を置き去りして「復興五輪」のかけ声だけを空しく響かせてきた東京五輪の前途を暗示するようだ。予定通りの開催が不可能となった今、東京五輪は延期ではなく中止しなければならない。

 新型コロナウィルス対応をめぐって、東アジアの中では日本と韓国・台湾との間に潜在的に存在していた政治的・社会的レベルの差が表面化してきた。医療崩壊を言い訳に、重症患者に対する検査さえ満足に行おうとしない日本政府への不信、批判が拡大しつつある。専門家の間で意見が分裂し、不毛な批判、罵倒合戦が繰り広げられている日本の状況は、福島第1原発事故の頃とそっくりだ。

 韓国ではドライブスルー方式により、自家用車に乗ったまま病院の建物内に入らず新型コロナウィルスのPCR検査が受けられるようになり、感染者の確定を容易にしている。軽症者も含め、感染の全体像を明らかにできれば、致死率が高くないことが科学的に証明され、国民に安心感がもたらされる。

 台湾では国民健康保険証のICチップに入力された個人データを基に、1人当たりマスク購入枚数に上限を設け、健康保険証と引き替えにマスクが確実に購入できるシステムが短時間で構築された。不足するマスク増産のため、受刑者による刑務作業がマスク製造に切り替えられ、効果を上げている。台湾政府がこのような実効性のある政策を次々に打ち出しているのに、日本ではマスクの品不足とネット転売屋とのいたちごっこが繰り返され、トイレットペーパーを買えない市民は政府ではなくドラッグストア店員に無秩序に怒りをぶつけ混乱を拡大させている。

 1955年の保守合同によって自民党が結党して以降、日本ではこれまで65年間で4回しか政権交代をしていないが、韓国では1987年の民主化以降の33年間で3回、台湾でも1996年の民主化以降24年間で3回の政権交代が実現している(韓国は政党が頻繁に変わっているので、ここでは右派・左派間の政権移動を政権交代と定義している)。大統領制の韓国・台湾と議院内閣制の日本を一律に論じられないとしても、日本の政権交代の少なさ、改革への「拒絶反応」の強さは異常だ。政治の「民主化度数」で日本はすでに両国に大きく水をあけられ、今、その背中も見えなくなりつつある。

 そこに追い打ちをかけるように新型コロナウィルス対応の「差」が表面化した。筆者は、東アジアで韓国・台湾が先進国、日本は「衰退途上国」との評価が確定する時期を2020年代末期と予測していたが、日本のこの体たらくを見ていると、その時期は大幅に早まることになろう。

 ●<日本経済>構造転換に失敗した日本経済はますます観光依存を強める

 新型コロナウィルスの影響で、ここ数年、日本経済を支えてきた外国人観光客の客足はぱたりと途絶えた。2012年まで、年間600~800万人台で安定的に推移していた外国人観光客数は、2011年の福島第1原発事故という大きなマイナス要因があったにもかかわらず2013年から爆発的に増え始め、2018年には3000万人を超えた。5年で5倍はあまりに急激であり、当然ながら弊害も出る。最大の観光地の京都では路線バスが外国人観光客に占拠されて市民が乗れないなどの苦情が出始め、ついには「観光公害」という新語さえ登場。市長選では全候補が「観光客の抑制」を公約に掲げざるを得ないほどの異常事態となった。新型コロナウィルス大流行はそんな矢先の出来事だった。

 今、閑古鳥の鳴く観光地では多くの観光施設が経営破たんの危機にあり、早くも収束後を見越した外国人観光客待望論が出始めている。これに対し「中国一辺倒の観光政策」の見直しを求める声も上がる。日本の観光政策は、収束後どちらに向かうだろうか。

 筆者は「結局、外国人観光客は日本に戻る」と予測する。福島第1原発事故という負のイメージにもかかわらず、外国人が日本に押し寄せていたのは、バブル崩壊後「失われた20年」の中でまったく経済成長しなかった結果、日本がアジアでも有数の「安い国」になったことと大きく関係している。外国人観光客にアポなしで「突撃」して密着取材する民放テレビのバラエティ番組が人気を集めているが、先日、筆者が何気なくそれを見ていて率直に驚いたのは、フィリピン人とタイ人の観光客が、日本の100円ショップで「日本は物価が安い。このショップで売られているものの大半は私たちの国では190円くらいする」と述べていたことだ。かつて中国製やマレーシア製なんて「安かろう悪かろう」の代名詞だと多くの日本人は思っていたが、今や事態はすっかり逆転していたのである。

 日本が安い国になったことは、相対的に外国人観光客の経済力が強まったことを意味する。加えて、衰退する製造業に代わってアメリカのGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)のような知的産業中心への産業構造転換にも失敗した結果、日本は観光で稼ぐくらいしか生きる道がなくなりつつある。中国人観光客に批判的な人たちは、観光業が日本のGDP(国内総生産)比5%であることを根拠として「観光客くらい来なくても大した影響はない」とうそぶいているが、パチンコ・パチスロ産業のGDP比が4%、農業に至ってはわずか1%であることを考えるなら、その影響を軽視できないことは明らかだ。今や観光は、農業の5倍、パチンコ・パチスロ産業に匹敵する経済規模となっている。これを失って日本経済が立ち行かないことは明らかであり、日本はギリシャ、イタリア、スペインのような「産業構造転換に失敗後、観光国家転身に成功した国」を今後のモデルとせざるを得ないのではないだろうか。

 以上、新型コロナウィルス大流行の収束後に予想される政治、経済、社会の変化を世界、日本のそれぞれ別に予測してみた。筆者はこの予測にある程度自信を持っており、大きく逸脱することはないと思っている。

(2020年3月22日)

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逃げるは恥だが役に立つ?~離脱、脱出が2020年代のキーワードかもしれない

2020-02-01 22:32:57 | その他(海外・日本と世界の関係)
 ●歴史を「横」に眺めてみると……

 2019年代最後の年の大みそか、カルロス・ゴーン被告が除夜の鐘とともに自家用飛行機でレバノンに脱出してから、もう1ヶ月経ったのかと思っていたら、今度は1月末をもって、英国のEU離脱がついに成った。2016年の国民投票で離脱が決まってから3年半も揉め続けてきたのが一体何だったのかと思うほど、2020年代開始とともにあっさりと決まった離脱。北アイルランドの帰属をめぐって長年続いた後、調停された内戦の再燃を防ぐ措置が盛り込まれたことで、離脱の最大の障害がなくなったことが背景にある。

 そして、英国王室からの離脱が決まったヘンリー王子とメーガン妃のカナダ・バンクーバー島への移住に続いて、結婚問題が暗礁に乗り上げた秋篠宮家の眞子さんにも皇室離脱の動きがあることを、週刊誌が報じている(参考:女性自身の記事)。これらの動きは一見するとバラバラで、お互いに個別の事象として何ら相互に影響を与えるようなことではないように思われる。強引に結びつけるのにも無理があると、筆者も思っていた。

 しかし、歴史を「縦」にではなく「横」に展開してみると、思わぬ発見につながることがある。一党独裁体制だった東ヨーロッパでいっせいに民主化ドミノが起き社会主義体制が崩壊したのと、中国で天安門事件が起きたのはともに1989年だが、これを単なる偶然で片付けることはできない。「一党独裁による言論抑圧」という同じ問題に端を発し、同じように民衆が抗議に立ち上がったという共通項があるからだ。違うのは、東ヨーロッパで社会主義体制は倒れたのに中国では倒れなかったという点だけだ。

 日本で長かった自民党政権が倒れ、民主党政権に移行したのは2009年。その1年後にはチュニジアで政権に抗議して1人の青年が焼身自殺したのをきっかけに、中東・アフリカ北部でいっせいに反政府運動が起き「アラブの春」と呼ばれる状況が生まれた。エジプトではムバラク長期政権が倒れた。これらも長期支配していたのが大統領個人か政党かという違いがあるものの、長期政権の崩壊という意味で共通項がある。ただ、それでも日本とアフリカは地理的に遠すぎて、強引に結びつけるのにも無理があり、偶然の要素が強いと思っていた。

 だが、今振り返れば、2008年に起きたリーマン・ショックによる経済混乱が世界に波及しており、経済混乱の結果の長期政権崩壊だったという意味でちゃんと共通項を持っている。歴史を「横」にして眺めると、案外世界はつながっているのである。

 英国のEU離脱は、離脱派、残留派に国論を二分しての激しい政治闘争の末、たまたま解決がこの時期になったに過ぎないし、ヘンリー王子とメーガン妃の件もたまたまこの時期に話が出たに過ぎないように見える。ゴーン被告も眞子さんも、火種はもう何年も前からくすぶり続けていた件が深刻さを増した結果であって、偶然で片付けようと思えばさして難しいことでもない。

 しかし、一見するとバラバラに見える一連の出来事が、ある共通項を持っていたり、ある一定の方向性を持っていたりということは、歴史を「横」に眺めてみた場合、往々にしてある。そして、現在進行形の段階ではわからなくても、後に歴史として眺めた場合、「あの一連の動きこそが時代の転換点だった」と評価されることもある。歴史感覚を持つとは、要するにそういうことである。タイムマシンに乗って未来から現在を眺めるような感覚で俯瞰してみると、バラバラに見えた出来事が線で結ばれて見えてくる――そんな瞬間があるのだ。

 英国のEU離脱、ヘンリー王子とメーガン妃の王室離脱、ゴーン被告の日本脱出、眞子さんの結婚問題による皇室離脱の可能性――これらはいずれも現にいる場所からの離脱、脱出という共通の方向性を持っている。ひとつひとつは小さな出来事であっても、こう立て続けに「脱」の方向で事件が続くと、どうやらこれが2020年代(~2030年代)を読み解くひとつのキーワードになりそうな気がなんとなくしてきた。

 ●改革挫折で「統合」の時代終了へ

 第二次世界大戦後の世界は、ともかくも「統合」の方向で動いてきた。各国がバラバラに自国の利益だけをめざして行動し、衝突したのが大戦だったという共通認識が世界をその方向に動かしてきたことは間違いない。だが、大戦終了からほぼ人間の一生に等しい75年もの歳月が過ぎ、統合から「脱」の時代へという世界的潮流がかなりはっきりしてきたように見える。これら一連の事件がその「号砲」かもしれないという思いが、新年以降、次第に強くなってきたのだ。

 生物学者ダーウィンの「強い者が生き残るのではなく、変化に適応した者が生き残るのだ」という有名な発言をご存じの方は多いだろう。種として、あるいは個として、生き残りたければ日々、激動する世界の中で変化に適応していかなければならない。統合よりも「脱」への動きが目立ってきたのは、生き残り戦略としてそのほうが合理的だと考える人が増えたからである。

 現にいる場所が本当に自分にとってふさわしい場所なのか。自分が今まで所属し、帰属していることが当たり前と考えてきた社会や集団が、多大な犠牲を払ってまでも残留するに値する場所なのか。自分自身の「ありよう」をゼロベースで考える。もう一度、スタート地点に立ち返って、自分と自分が帰属する集団との関係を捉え直し、メリットよりデメリットが勝っていると思うなら、これまでタブーと思われていた「脱」に舵を切ってみる。2020年代、そうした動きは今まで以上にはっきりしてくるだろう。

 第二次世界大戦後の世界を、思い切り乱暴に、いくつかの時代に区切るなら、1970年代までははっきり「統合」へ向かいながらも抵抗の闘いがあちこちで起きた時代だったと思う。80~90年代はモラトリアムとでもいうべき停滞の時代で、2000年代から2010年代は、世界のあちこちで改革への動きが表面化した時代だった。2010年代に入る前後に「アラブの春」が起きたのも、日本で民主党政権ができたのも「改革」への動きだったと捉えれば納得がいく。いま所属、帰属している社会集団にとりあえずとどまったまま、内部からの改革をめざす。おおむね20年スパンで時代を切り取ると、流れが見えてくるような気がする。

 しかし、結論からいうと、2010年代に試みられた改革は日本でも世界でも挫折した。「アラブの春」が結局は民主主義的な政治体制の誕生につながらなかったことは、腐敗したムバラク政権がイスラム政権に代わったエジプトを見ればはっきりしている。日本でも民主党政権は失敗した。筆者は「コンクリートから人へ」のスローガンが間違いだったとは思わないが、「政権交代などできないと思っていた日本でもできるんだ」という期待を「やっぱり日本人に政権交代なんて無理」というムードに変えてしまった民主党政権の罪は100年に一度レベルの重いものだと思う。はっきりいえば安倍政権なんてそれだけが理由で持っているようなものだ。EUで行われた改革も挫折。人々が求めていた新自由主義的政策の放棄は実現せず、EU加盟国同士、市民同士の格差を拡大させただけだと人々に思わせてしまったことが、挫折の背景にある。

 ●統合から「脱」の時代へ 大切なのはゼロベース思考

 2020年代という新しい10年代が始まったこの新年早々、「脱」への動きが加速している背景は、乱暴だがこうした動きと重ねてみるとだいたいの説明がつくと思う。自分が所属、帰属している社会集団の内部にとどまって改革をいろいろ続けてきたけれど、最終的にダメだった。改革の可能性が閉ざされたいまの場所にこのままとどまっていても未来がない。それならば、多少の危険を冒してでも今いる場所の外に出るしかない――人々がそのように考え、行動する新しい10年間(場合によっては20年間)が始まったのだ。

 「逃げるは恥だが役に立つ」というテレビドラマが数年前ヒットしたが、このタイトルの語源はハンガリーのことわざだ。「どんなに格好悪くても、生き延びればいつかチャンスはやってくる」という意味合いで使われる。最後まで主君に忠誠を尽くし、主君が倒れるときは運命を共にする「忠臣蔵」をいつまでも変わらず愛し続ける日本人には理解しがたいメンタリティかもしれない。しかし、ダーウィンの言葉の通り、変わることを拒絶し、世界潮流に背を向ける日本は少子高齢化で内部崩壊を迎えつつある。自家用飛行機で日本を脱出したゴーン被告がここまでさんざんに叩かれている背景に、単に悪事を働いたということ以上に「自分だけさっさと逃げやがって。こっちは脱出したくたってできないんだよ」という若干の妬みや羨望が含まれているように感じるのは筆者だけだろうか。日本人は、叩いている暇があるなら、むしろこの閉塞状況を「一気に飛び越えた」ゴーン被告の行動を見習い、参考にしたほうがいいと思う。

 筆者が小学生の頃、こんな出来事があった。「りんごを食べたいと思っている子どもが2人います。でもりんごは1つしかありません。そんなとき、あなたならどうしますか」という先生からの「お題」に対し、10人中9人が「もう1つりんごを買ってくる」とか「りんごを2等分し、分け与える」という無難な回答をするなか、ある男子児童が「2人の子どものうちどちらか1人、殺せばいい」と答えた。先生は「人を殺してはいけません」でその場を終わりにしてしまった。

 筆者は、子どもの頃から尖った変わり者だったから、この先生の発言に違和感を持った。殺人を肯定したいのではない。そもそも「2人の子どもにりんごが1個」という状況――供給が需要を満たせない経済状況にどうやって対処するかを問うお題であって、殺人の是非を問うお題ではそもそもなかったはずだが、という違和感である。初めは問われてもいなかった、まったく無関係な別の規範を途中から突然持ち出し、重要な選択肢の1つを検討もしないまま潰してしまうという議論のやり方にアンフェアさを覚えたのである。たとえその解決法がタブーであるという社会的合意があったとしても、だ。

 物事をゼロベースで考えるということは、このタブーを取り払ってみるということである。繰り返しておくが殺人を肯定したいのではない。この事例は極端すぎるので置くとしても、それまで誰もがタブーだと考えてきた選択肢こそが本当の意味で唯一の解決策だった、ということは歴史のある局面においてはあり得る。日本の何が問題で、どこに着地すべきかについてはもうこの20年近く議論し尽くしてきたし、大方の日本人が着地すべき場所もわかっている。それにもかかわらず、そこに「たどり着く方法」(=解決策)がない、という閉塞状態を一気に飛び越え、しかるべき場所に正しく着地するために、タブーとして排除されてきた選択肢(民営化された企業の再国有化など)をもう一度真剣に検討すべき時期にさしかかっているのではないか、と筆者は主張したいのである。

 もしそれが本当の動きにならない場合、日本からも「脱」の動きが表面化する2020年代になるような予感がする。ゴーン被告の脱出がその号砲でないことを願ってやまない。

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2020年代の大胆(?)予測~向こう10年の世界はこうなる

2020-01-25 22:22:46 | その他(海外・日本と世界の関係)
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2020年2月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 新しい年が明けた。本誌が読者のみなさんのお手元に届く頃には正月気分などとうに失せているであろう。東京オリンピックの年を手放しの礼賛で迎える人はおらず、本誌読者の多くは憂鬱な年の始まりだと思っているかもしれない。

 しかし、今年は単なる新しい年の始まりではなく、2020年代という新しい10年代の始まりでもある。一寸先は闇とはいえ、来たるべき10年間がどのようなものになるかを予測しておくことは無駄な作業ではないと思う。

 「人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分勝手に選んだ状況のもとで歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、あたえられた、過去からうけついだ状況のもとでつくるのである」(「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」マルクス)とあるように、未来は現在、そして過去からの連続の上にしか存在し得ない。現在の日本と世界の姿を正しく分析できれば、未来を予測するのはそれほど困難な作業ではない。

 ●内外政治~分断克服への模索続く、国内は変化なし

 まず政治について、2020年代は内外ともに国民国家内部でも、国家間関係でも分断の動きが強まった10年間だった。英国のEU離脱の確定と、米国のトランプ政権登場はその最も象徴的な動きである。選挙という民主主義を保障するはずの手段が分断を加速させたことも2010年代の大きな特徴だ。しかし、こうした分断は広範な市民的合意が必要な問題の解決を不可能にする。少数の支配層、既得権益層が喜ぶだけで市民が分断から得るものがないとわかれば、2020年代は分断克服への動きが顕在化する可能性がある。

 国内では、野党共闘に向けた努力が続くものの、1993年の細川連立政権、2009年の民主党政権がいずれも内部対立で瓦解したこと、各級選挙における自公の基礎票の手堅さを踏まえると、野党による政権奪取は2020年代も困難であろう。自民党に代わって政権獲得が可能な位置にいる党がないという55年体制当時と同じ状況が生まれている。

 現在の政治状況が55年体制の事実上の復活であることをデータで示しておきたい。以下の表は、1983年6月の参院選と2019年7月の参院選における各党の得票率を比較したものである。1980年、それまでの参院全国区を比例区に変更する公選法改正が行われた後、初めて実施されたのが1983年参院選だ。若干の総定数の変更はあるものの、これ以降今日に至るまで、参院の選挙制度の変更は小幅なものにとどまっており、中選挙区制が小選挙区制に置き換えられた衆院のようなドラスティックな変更がないため、このような比較に向いているのである。

 結果は驚くべきものであった。自民、公明の得票率はほぼ同じ。共産党に至っては小数点以下までまったく同じである。その他の政党では2019年の立憲民主党が1980年の日本社会党に、国民民主党が民社党にほぼ対応している。1983年当時、社会民主連合(社民連)は議席が衆院だけであったためこの表に登場していないが、参院に議席を有していれば2019年の社民党に対応していたと推測できる。当時と今で異なるのは、公明党が野党から与党になったことくらいで、公明党を野党に割り戻して再計算すると与党陣営、野党陣営全体での得票も当時と今でほぼ変わらないことになる。


※1983年参院選の得票率は「データ戦後政治史」(石川真澄/著、1984年、岩波新書)より抜粋

 55年体制崩壊後、「政権交代可能な保守2大政党制」への試みが続けられ、数え切れないほどの政党が離合集散を繰り返し、浮かんでは消えた。その変動の歴史が終わった後、見えている風景は1980年代とほぼ同じものだ。

 自民党の最大の強みは公共事業を通じた利権誘導体制にある。選挙ポスターに自民党公認の文字さえあれば、候補者が人間でなくても当選してしまいかねないほど自民の集票基盤は大きく、疲弊したといわれながらもそれほど崩れていないことは1980年総選挙との比較を見ても明らかである。この「自民党ブランド」が1強体制を支えているのだ。

 今後、自民党が1993年当時のような中途半端な割れ方ではなく真っ二つに割れるようなことになれば、保守2大政党制が成立したと「錯覚」するような状況が出現することは一時的にはあり得る。だがその場合でも、自民党を割って出た勢力はこの強力な「自民党ブランド」を失うから、民主党~民進党がそうであったように徐々に衰退過程に入り、その後は現在と同じ状況に戻るだけであろう。日本には2大政党制が成立する基盤はなく、今後もその試みが成功する見通しはないと断言してよい。基本的には次の10年間も日本の政権は自公中心に展開するというのが筆者の予測である。

 自民党の政権追放の可能性がきわめて薄いとなれば、現在の「自民党的価値観」が受け入れられず、そこからの転換を願う市民は今後どのようにすればいいのか。戦後イタリア政治史は重要な示唆を与えてくれている。イタリアで戦後、単独では常に過半数に達しないものの、30~40%の議席を獲得、第2党以下を大きく引き離して長く第1党の座にあったキリスト教民主党(DC)は、総選挙で議席構成が変わるたび、多数派工作のため連立相手を組み替えて巧みに政権を維持した。自公政権の枠組みは変えられないとしても、自公両党の力が弱まって過半数を割り込んだ場合、私たちに比較的近い思想、政治的位置を取る「よりましな政党」を自公が不本意ながらも連立相手に迎えなければならないという事態は起こり得る。イタリアの政治学者ジョバンニ・サルトーリは、母国で頻繁に起きるこうしたDC中心政権下での連立組み換えを「周辺型政権交代」と呼んだ。

 日本で2020年代、現実的に起こり得るのはむしろこうした周辺型政権交代であろう。そのときのため、自民党と明確に異なった政治的立ち位置と一定の議席数を持つ政党を私たちと政治をつなぐ「パイプ」として育てることは、これからの10年間の検討課題である。

 ●経済~日本の位置はさらに低下し「衰退途上国」の呼称が一般化する

 経済に関しては楽観的な見通しはない。人口高齢化は労働力人口そのものに加え、1人あたりの労働時間数をも制限する方向に働く。何をするにも「労働者の健康に配慮することが最優先」となり、労働効率は大幅低下を余儀なくされる。労働集約型産業は大幅な合理化を迫られ、対応ができない企業は経済から退出させられるであろう。

 運輸・交通、医療・福祉・介護など公共的性格を持ち、企業的運営によっては持続不可能であっても容易な退出が許されない部門をどうするかは、すでに現在でも大きな問題として浮上している。自公政権にこの問題を解決する意思も能力もないことは明らかであり、2020年代のどこかの段階で、この分野を得意とする小政党が自公から与党に迎えられることがあるかもしれない。さしあたり、その候補となりそうな政党も現時点で出てきているが、具体名を挙げることは控えておきたい。

 2020年代、日本に対しては「衰退途上国」とする評価が一般的となり、この呼称もある程度定着するであろう。人口高齢化、少子化が加速的に進行する以上、形態はどうあれ衰退は避けられないが、そうである以上、よりましな衰退を追求する責任が政治・行政にはある。筆者が見る限り、日本が参考にできそうなのは英国だ。ともに君主制で島国、完全な二大政党制ではなく野党陣営が分裂傾向を強めている点でも両国は酷似しており、英国はある意味では日本にとって理想的な衰退モデルといえる。EU離脱によって独自政策を進めやすくなる英国の動向を、日本は注視すべきであろう。

 ●法の支配と正義~罰せられるべき者は罰せられず、必要ない者が罰せられる司法に国民の不満が爆発する

 日本国民にはあまり実感がないかもしれないが、2020年代、日本の国際的信用と地位を最も決定的に傷つけるのは、実はこの分野になる。あれほど巨大な艱難辛苦を国民に強いた原発事故の責任者や、白昼公然とレイプ事件を起こした「自称ジャーナリスト」が、国策企業である、または安倍首相の取り巻きであるというだけで刑事責任を問われず、裁判に持ち込んでも無罪となる。その一方で(大量解雇を伴う日産の業績回復を筆者は実績とは思わないが)、カルロス・ゴーン被告に対する検察の人質司法は、同じ日産経営者の立場にあった日本人に対する対応と比べてあまりに不公平すぎる。これでは日本の検察が「皮膚や目、毛髪の色」を理由に対応に差をつけていると疑われても仕方がないであろう。新年早々、自家用ジェット機で日本から脱出、レバノンに到着したゴーン被告が行った会見では、日本人が期待していた政府高官の名や脱出方法については語られなかったが、少なくとも日本の司法のアンフェアさを国際世論に印象づけることができたという意味で成功と評することができよう。

 日本政府にとって目障りとなれば、他の同様の立場にある人物との公平性も考慮されず一方的に拘留され、弁護士の立ち会いも許されない環境で自白を強いられた挙げ句、起訴されれば99%有罪となる。一方で国策企業や首相の取り巻きであれば99%無罪があらかじめ決まっている。こうした事実はすでに海外メディアを通じて世界中に発信されており、日本の国際的地位、信用に回復不能な打撃となりつつある。この国には法の支配も正義もなく、今後の復活の見込みもない――多くの日本の市民がそう思うようになったとき、どんなことが起きるだろうか。

 「私の人生をめちゃくちゃにしたあの人に、どんな手を使っても復讐してほしいんです。成功したら報酬を払います。金額はそちらのご希望通りでかまいません」と言いながら、依頼者が札束の入ったスーツケースを開け、中を見せる。「わかりました。そのご依頼、お引き受けしましょう」と「闇の仕事人」が請け負う――テレビドラマや映画、小説ではおなじみのワンシーンであり、ひとつのジャンルを確立している分野でもあるが、国家が罰すべき者をきちんと罰していない、法と正義が実行されていないと多くの市民が感じれば、2020年代の遠くない時期、これがフィクションではなく現実となるおそれがある。不倫や薬物などの騒ぎを起こした有名人に対する最近のネットでの異常なまでのバッシング、「私刑制裁」の横行はその明らかな予兆である。

 ●IT技術~ネットの「フェイク」化が進行、アナログへの揺り戻しの動きも

 インターネット、とりわけツイッターやフェイスブックのようなSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)に関しても、予測は悲観的にならざるを得ない。現時点でもSNSがフェイクニュースの発信・拡散源になっているという世界的傾向があるからだ。

 欧米諸国を中心に、書き込みがきちんと事実に基づいているかを調査する「ファクトチェック」の動きも始まっているが、効果は限定的なものにとどまるだろう。飲料のビンに中身が半分入っているのを見て「もう半分に減っている。直ちに不足対策をしなければ」と考える人と、「まだ半分も残っている。こんな状態で政府が不足対策をするなんて税金の無駄だ」と考える人が激しく論争を始めても、どちらも「飲料が半分残っている」という正確な事実に基づいているためウソだという決めつけはできない。どちらも自分が正義だと信じているため譲歩するつもりもない。自分の立場に近い人々が紹介され、表示されることが多いSNSの性質上、「不足対策」派も「税金の無駄」派も自分の味方ばかり集め、ますます同類で団結を強め、コスモ(小宇宙)化する。SNSが社会分断を加速させる役目を果たしたことは、2010年代を総括すれば明らかだ。

 筆者は時折、北海道庁前で毎週金曜夕方に行われる反原発定例行動に参加することがあるが、そこで「もうネットはやめました。でもあなたのスピーチ原稿は勉強になるので、郵送かFAXでください」という人にこの間、何回か出会った。SNSでの不毛な「闘争」や情報の真偽の見極めに疲れ、ネットから「降りる」動きが出始めている。

 この傾向は2020年代を通じて加速する。「ネット上の情報を自由に操作して支持を集めることができるごく一部の強者」と、ネットに展望がないと見て、みずからの意思で能動的に「降りる」決意をした人――この両極端の行動を取れる人が2020年代の勝者となる。どちらにも立てず、ウソとも真実とも判定できない巨大な情報の海でもがく大多数の「ネット中間層」は敗者になるというのが筆者の予測である。

 ●原発、公共交通はどうなるか

 最後に、本稿筆者のライフワークである原発、鉄道を中心とする公共交通の今後について触れておきたい。

 原発は、政府・電力産業の巨大な下支えにもかかわらず、2020年代を通じて地位を回復させることはない。即時原発ゼロは政治的に困難で実現しないものの、電力会社にとっては安くても社会的にコスト高となった原発は徐々に衰退する。受け入れ地の決まらない核のゴミ(高レベル廃棄物、大量に発生する除染廃棄物)の処分をめぐって逆風がさらに強まり、2020年代後半には「ポスト原発」の姿がかなりはっきり見えるだろう。安倍政権退陣後は自民党内で現実路線が台頭し、自公政権の下で原発撤退の政治決断が行われる可能性はある。少なくともそれは政権交代の可能性よりは高いであろう。

 公共交通の分野では「災害復旧」と「貨物輸送」が鍵を握る。特に鉄道はその高い輸送力に注目した保守・右派勢力によって戦争遂行のために整備された歴史的経緯がある。大量・高速・安定輸送に強いという特徴を持つ鉄道は、不安定で担い手(トラック運転手)が減る一方の道路輸送に代わり、2020年代、貨物輸送部門から復権が始まるだろう。それは政策的に政府が望んだ結果ではなく、トラック輸送が困難になることによる「強いられた政策転換」として実現する。しかし、一度その効用が発揮され、国民にそれが可視化されると、一気に鉄道貨物復権が進む可能性がある。旅客・貨物を別会社に分割した国鉄改革が問われ、JRグループ再統合の気運が高まるだろう。リニア新幹線、九州新幹線長崎ルートなど国民不在の大型鉄道プロジェクトのいくつかは頓挫することになる。

 災害が多発する中で、寸断された地方路線の復旧をどうするかもすでに課題として見えている。地方路線の多くはすでに公共交通機関としての地位を降りているが、観光資源としての役割が再評価される。さしあたり、地方路線の維持が公共交通としてではなく観光面から始まることは、過去の経緯や日本の特殊性から見ればやむを得ないであろう。一時的な需要が中心で浮沈も大きい観光輸送中心から、安定した需要が見込まれる貨物輸送や地元利用中心へと地方路線の役割を変化させるため、どのような手法があり得るかを検討することが2020年代の公共交通政策の鍵を握ることになろう。

(2020年1月25日)

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今年を象徴する漢字は「核」 朝鮮半島危機と核兵器禁止条約が同時進行した2017年 来年は分水嶺に?

2017-12-25 22:04:54 | その他(海外・日本と世界の関係)
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2018年1月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 歳月の流れは速いものだ。新年早々、トランプ大統領が就任したのはついこの間のことだと思っていたのに、この号がお手元に届く頃には2018年の足音が聞こえていると思う。

 毎年この時期の恒例行事に「今年の漢字」がある。日本漢字能力検定協会が市民から募集した投票において、その年を象徴する漢字として1位となったものを京都・清水寺の森清範・貫主が揮毫するというものだ。

 その漢字に2017年は「北」が選ばれた。確かに、「北朝鮮」とその最高指導者・金正恩朝鮮労働党委員長の動向に世界が翻弄された1年ではあったように思う。しかし、そもそも朝鮮民主主義人民共和国の国名に「北」の文字は使われていないし、朝鮮政府もみずからを北朝鮮とは自称していない。南北「赤化統一」の野望も捨てていないし「北朝鮮」の呼称が通用するのも日本だけだ。いかにも内向きの論理で選ばれた「今年の漢字」だと思うが、そもそも日本の民間団体が国内向けのイベント兼パフォーマンスとして実施しているに過ぎないものにいちいち目くじらを立てるのも大人げないと言うべきであろう。

 朝鮮がどのような国であり、その指導者・金正恩が何をめざしているかについては、本誌先々月号(11月号)で詳しく分析しており、今号で改めて繰り返すことはしない。興味を覚えた向きは11月号を参照していただきたいが、朝鮮は、故・金日成主席の時代から一貫して核・ミサイル開発を志向しており、建国以来、天才少年少女を幼少時から選抜して特別待遇を与え、特別教育を施しては核・ミサイル開発に従事させてきた。その長年の「努力」の結実が現在のミサイル「乱射」状況につながっており、金日成主席時代から長年のウォッチャーとしてこの国を見つめ続けてきた筆者にとって驚くには値しない。要するにこの国は、指導者が「偉大な建国の父」から2代目、3代目と替わっても基本路線に変化はまったくないのだ。

 それにもかかわらず、なぜ今年になって急激に朝鮮半島危機が深刻化したのか。その理由はやはりトランプ大統領の就任をおいて考えられない。朝鮮は変わっていないのに、周辺環境が変わったために危機が引き起こされたのである。

 世界の科学者グループが発表している「世界の終末時計」。世界を1日24時間になぞらえ、「終末」の午前0時まであと何分あるかを示すこの時計は、東西冷戦時代にはしばしば話題に上ったものの、最近は忘れられかけていた。その終末時計がここに来てまた注目されるようになった。1953年、米ソ両国が相次いで水爆実験に成功した後、この時計はあと2分まで進められた。1991年のソ連崩壊による冷戦終了で時計は17分前まで巻き戻され、危機は去ったかに見えた。その後、途上国に核が拡散するにつれて再び終末時計は進められ、福島第1原発事故でも1分進んだ。トランプ氏の大統領就任前、3分だったこの時計は就任後30秒進み、終末まで2分30秒となった。1962年、世界を滅亡の淵に立たせたキューバ危機の時でさえ終末まであと7分あったこの時計が、今やその3分の1の時間しか残されていないというのだ。

 ●東京は生き残れるか

 トランプ大統領就任後、東京への核攻撃が、それまでの荒唐無稽なSF映画の中の話ではなく、現実にあり得る可能性のひとつとして取りざたされるようになった。キューバ危機当時と比べ、トランプ・金正恩の両指導者の行動がともに予測不能である点が大きく違っている。もちろん、キューバ危機当時の指導者だったケネディ米大統領、フルシチョフ・ソ連共産党第1書記の2人も理性的とは言いがたかった。ケネディは「もしどこかの社会主義国から西側諸国に核ミサイルが発射された場合、それをソ連から米国への核攻撃とみなす」と再三にわたって警告したし、フルシチョフも「もし愚か者が我が国や社会主義国を攻撃すれば、我々はその国を地上から抹殺できる。戦争は侵略者ばかりでなく資本主義をも滅ぼすだろう」と強気の姿勢を変えなかった。当時、米ソ両国の間で繰り広げられた「口撃合戦」を振り返ってみると、今、トランプ・金正恩両トップの間で行われている罵り合いと少しも変わらない。

 だが、全米の商店から買い占めのためあらゆる物資が消えたキューバ危機では結局、最後はかろうじて理性が勝った。「何の罪もない子どもたちが核のため、米国で、ソ連で、世界で次々と死んでいく幻影はケネディをひどく苦しめた」(側近ロバート・ケネディの回想)し、世界を何十回も滅亡させられるほどの核を持つ米ソ両国の首脳間に、電話のホットラインさえ整備されていない事実を知らされ、愕然としたフルシチョフは「もしあなたがお望みなら、キューバに配備した核をいつでも撤去する用意がある」との長文の電報をケネディに送った。フルシチョフが言葉だけでなく実際にキューバに配備済みの核兵器を撤去したため、ついに危機は去ったのである。

 トランプ・金正恩の2人にこのような理性ある対応が可能だろうか。「トランプはビジネスマンであり、損得に見合わないことはやらない」「さすがの金正恩も、自国が地図から消えることになる米国との全面戦争には踏み切れないだろう」との楽観論が日本社会を支配している。だがトランプは、既存のエスタブリッシュメント(支配層)に不満を抱き、失うもののないラストベルト地帯の労働者によって大統領に押し上げられた。故・金正日総書記が長男の金正男でも次男の金正哲でもなく三男・正恩を後継者に選んだのも「3人のうち一番気が強く、米国相手でも怯まない」からであり、また「朝鮮のない地球はあり得ない。我が国がもし滅びるならば、地球を道連れにすればよい」との金正日総書記の教えを最もよく理解しているからだとされる。創造より破壊を得意とする米国大統領と、兄弟のうちで一番気が強いが故に指導者の地位を射止めた金正恩のせめぎ合いは、今度こそ偶発的な米朝間の戦争に発展するかもしれないのだ。

 改めて確認しておかなければならないのは、国際法上、米韓と中朝は今なお戦争状態にあるということだ。すでに朝鮮戦争の休戦(1953年)から64年経過したが、あくまで休戦に過ぎない。米中両国はいずれも国連安保理の常任理事国であり、いざそのときが来たとしても国連や安保理が機能するとはとても思えない。先ごろ発生した朝鮮人民軍兵士の亡命事件のような偶発的事態をきっかけに南北間で戦端が開かれればどうなるだろうか。
北緯38度の軍事休戦ラインからソウル中心部まではわずか30キロメートル。日本で言えば東京~横浜間の距離とそれほど変わらない。朝鮮領内から戦車でも1時間で到達してしまう距離だ。反撃の間もなくソウルは瞬く間に占領され、韓国政府も機能しなくなってしまうだろう。こうした危険があるにもかかわらず、韓国の人口の4割がソウル首都圏に集中する状況を放置してきたのも、歴代韓国政府が本当は朝鮮戦争の再開などあるわけがないと高を括っていたからだろう。

 朝鮮対米韓で戦端が開かれた場合、初めからいきなり核ミサイルが使われることはない。朝鮮人民軍はソウルを占領し、最初の数時間は優位に戦いを進めるとみられるからだ。問題は米韓軍が体制を立て直し、反撃に転じたときだ。「朝鮮がもし滅びるときは、地球を道連れにすればいい」との父の教えを、もし金正恩が忠実に実行するならば――?

 朝鮮が開発中のミサイルは、まだ核弾頭を積んで大気圏内に再突入し、米本土を攻撃できるまでにはなっていないが、朝鮮がその能力を手に入れるのはもはや時間の問題だろう。だが、日韓を攻撃できるノドンミサイルを朝鮮はすでに手に入れている。SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)が実用化レベルにあるとの一部報道もある。その場合、大気圏内再突入の技術さえ必要ない。潜水艦で朝鮮のどこかの港を出港、潜航した潜水艦から日韓のどこかの都市に向けて核ミサイルが発射されれば、Jアラートなどの警報発動さえかなわず、多くの市民がいきなり閃光を見てそのまま終わりということさえあり得るのだ。

 いざというとき東京は果たして生き残れるのだろうか? 2020年東京五輪はこのまま無事に開催できるのだろうか? 政府や御用学者たちは「Jアラートが鳴って5分以内に地下街に逃げ込めば助かる」などと根拠のない楽観論を振りまいているが、もちろん信じてはならない。70年前の広島、長崎より核技術は格段に進歩している。朝鮮が開発しているとみられる10キロトン程度の核でも、爆心地では200メートルの巨大な火球ができるとの試算もある。あらゆるものを飲み込む火球の中心温度は最悪の場合、太陽の表面より少し低い摂氏4000~5000度にも達すると見込まれる。地下街でも数百度には達するだろう。これで生き残れるなどと考える方がどうかしている。仮にそれほどの強い威力の核でなくても同じことだ。「御用学者」たちが福島第1原発の事故当時なんと言っていたか思い出してみるといい。「プルトニウムは飲んでも安全」「100ミリシーベルト以下の被曝量で健康被害など出るはずがない」。だが6年半後の今日、194人もの子どもたちがすでに甲状腺がんを発症しているのだ。

 事態が今のまま推移すれば、筆者は、東京が朝鮮の核で滅亡する可能性が3割くらいはあると考えており、来年以降、東京へ出かける機会をできる限り減らしたいと思っている。ひょっとするとこの年末年始が、対話か戦争かの分水嶺になるかもしれないが、そんなときに朝鮮との対話を否定し「圧力強化」一辺倒の安倍首相しか持てない日本の不幸さを思わずにいられない。

 ●突破されたNPT体制

 いずれにせよ、朝鮮に核開発を思いとどまらせることはもはや不可能だ。望むと望まざるとに関わらず、朝鮮を核保有国リストに加えなければならないときが目前に迫っている。朝鮮による公然たる核武装は、もはやNPT(核不拡散防止条約)体制がまったくの虚構に過ぎないことを見せつけている。現在の核保有国以外に新たな保有国が出現しないようにするといえば聞こえはいいが、NPTは実際には「俺は核を持ってもいいがお前はダメだ」という究極の不平等条約である。それでも非核保有国は、核保有国がいつかはその愚かさに気づき、みずから核保有数を減らす努力をするものと信じて耐えてきた。だが、いつまでも核を減らさず、手放そうともしない核保有国を前に、非核保有国の中からNPTへ挑戦するものが現れた。初めはイスラエル、次いでインドやパキスタン。イランと朝鮮がそれに続こうとしている。NPT体制を崩壊させたのは核保有国の裏切りであり、挑戦者の出現はその結果に過ぎないことを、私たちは今後のためにしっかり認識しておく必要がある。

 ●核兵器禁止条約採択で巨大な前進

 一方で今年、核をめぐってきわめて大きな前進があった。核兵器禁止条約の採択だ。今年7月に国連総会で採択された条約は「核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶に関する条約」が正式名称で、2007年、コスタリカ、マレーシア両国が共同提案していたもの。2017年7月7日、122か国・地域の賛成で正式に採択された。最初の段階の開発から最終段階である使用に至るまで、すべての局面で締約国に核兵器との関わりを禁じていることが大きな特徴だ。中心となって交渉を推し進めたオーストリアのハイノッチ大使は採択後の演説で「被爆者の証言が私たち(推進側)を鼓舞してきた。この惑星を核兵器のない、より安全な場所にしていきましょう」と呼びかけた。

 被爆者からも喜びの声が上がった。広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)の坪井直理事長(92)は「『核兵器のない世界』の実現という私たち被爆者の長い間の念願がやっと具体的な形に表れた」と評価。「条約が実際に効力を持つまでには困難が横たわっている」とも指摘し「被爆者はもちろんのこと、核兵器を拒絶する世界中の市民の力によって、条約の実効を目指していかなければ」と訴えた。長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会議長、川野浩一さん(77)は「122の国々が賛成したことは意義がある。条約で明確に禁止することは重みがある」と歓迎した上で「核保有国も加えて、実効性のあるものにしていくかが重要」と指摘した。

 それにしても情けないのは、条約に賛成しなかった日本政府だ。これでは「被爆者の苦しみが最もよくわかっている国は日本のはずなのに、参加しなかったのは腹立たしい」(川野さん)と言われても仕方ない。

 坪井理事長が「発効までに困難が横たわっている」と述べているのには理由がある。すべての核保有国含め、日本やドイツ、韓国など米国の「核の傘」の下にある諸国、NATO(北大西洋条約機構)加盟国が参加していないからだ。条約は世界50か国・地域が批准して90日後に発効することになっているが、現在、批准はガイアナ、タイ、バチカンの3か国にとどまっている。だが、賛成国の半数程度の批准でよいのだから、そう遠くない将来発効にこぎ着けるだろう。人類を絶滅させられる最終兵器でだれも使用などできないとわかっているのだから、核兵器だけは全面禁止にしなくてもよいなどという愚かな理屈が成り立ちうるだろうか。様々な紆余曲折を経ながらも、人類は生物化学兵器もクラスター爆弾も最後は国際条約で禁止に追い込んできた。核兵器だけが例外ではあり得ない。

 ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のノーベル平和賞受賞もこうした流れを後押しする画期的出来事だ。これまで長年核廃絶運動に取り組んできた日本の被爆者団体が受賞できず、外国の新しい団体による新しい活動が受賞したことに対し違和感を訴える声があるが、そうしたことが起こるのも、国際社会からの日本の評価の低下が背景にあるのかもしれない。

 しかし、被爆者団体やそのリーダーは、ICANの受賞に好意的だ。坪井理事長は「同じように核兵器廃絶を訴え行動してきたICANの受賞をうれしく思う。私たち被爆者はICANはじめ幅広い皆さんと共に命ある限り核兵器のない平和な世界の実現を訴え続けていきたい」とのコメントを発表した。

 世界の終末時計を30秒も進めてしまうような危険な核開発の動きと核兵器禁止を求める市民の闘い。NPT体制に挑戦しみずからも核保有国になろうと策動する国々と、その前に立ちはだかり核兵器禁止条約を生み出した被爆者・市民たち。悪いこともあったが未来へ向けた画期的出来事もあった2017年「今年の漢字」を筆者が選ぶなら、やはり「核」以外にあり得ないように思う。世界を正反対の方向へ導こうとする2つの潮流は来年も激しく衝突するに違いないが、核廃絶を確実なものにするためには、これまで交わることのなかったこの2つの潮流に誰かが橋を架けなければならない。その役割を果たすのは、核兵器と核の「平和利用」による被害の両方を経験した日本以外にないように思われるが、核廃絶への意思も能力もなく、いたずらに朝鮮との緊張激化だけを煽り立て、福島第1原発による被害を認めるどころか、避難区域を解除、自主避難者を裁判まで起こして避難先の住宅から追い出し、カネまみれの「復興」を演出することにしか興味のない安倍政権ではダメなことだけははっきりしている。来年こそ核兵器と原発の廃絶を実現するため、市民の敵・安倍首相を政権から追い出し、平和を志向する政権に変えていく。2018年に向けた筆者の決意だ。

(黒鉄好・2017年12月16日)

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核・ミサイル開発続ける北朝鮮 やっかいな隣人は何を目指しているのか

2017-10-25 20:29:08 | その他(海外・日本と世界の関係)
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2017年11月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 今年に入り、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)をめぐる情勢が困難の度を深めている。今年だけで日本上空に2度もミサイルを通過させ、米国中心の世界秩序に挑戦する姿勢をはっきりと打ち出している北朝鮮は、核・ミサイル大国の一角を占めようという野心に満ちている。日本国内では、この年内にも東京が核ミサイル攻撃で滅亡するかのような言説に戸惑った人もいるかもしれない。

 筆者は北朝鮮ウォッチャーでもある。北朝鮮にとって建国の父である金日成主席(1994年死去)の時代から、もう四半世紀もこの国のことを観察し続けてきた。今、訳知り顔でテレビに出演し、解説をしている「自称有識者」には決して引けを取らないという自負もある。今月号では、日本にとってやっかいな隣人として台頭してきたこの国が何を目指しているのか、今後どこに向かうのかを可能な限り分析することで、読者諸氏の北朝鮮理解の一助となれれば幸いである。

 ●国家の歴史と基本原則

 朝鮮半島は、1910年以来、日本帝国主義による植民地支配にあえいだ。1945年、日本が敗戦で撤退すると、朝鮮半島は第2次世界大戦後の東西冷戦の舞台となった。日本敗戦からちょうど3年後の1948年8月15日、北緯38度線以南を領土とする大韓民国が、李承晩を「大統領」として建国宣言すると、遅れて同年9月9日、38度線以北を領土とする朝鮮民主主義人民共和国が建国を宣言、金日成が首相に就任する。

 1950年、東西冷戦を背景に、ついに朝鮮戦争の火ぶたが切って落とされる。当初は北朝鮮軍が優勢で、韓国軍を釜山周辺まで追い詰めるが、米軍を主力とする国連軍の参戦で逆に北朝鮮軍を朝鮮半島北端にまで追い詰める。しかし、1949年に成立した中華人民共和国が中国人民義勇軍を参戦させ、ソ連も武器供与で北朝鮮を援助した結果、北朝鮮軍・中国人民義勇軍が米韓軍を押し返し、戦線は38度線付近で膠着状態となる。結局、3年にわたる戦争は勝者も敗者もなく、どちらが朝鮮半島における正統な政府かの決着もつけられないまま、1953年7月27日、南北双方が板門店で休戦協定に調印した。

 この間、偶発的で小規模な軍事衝突はあったが、幸い全面戦争には至らず、休戦協定に基づく「休戦」はすでに今日まで64年間にも及んでいる。朝鮮戦争を知っている世代は若くても80歳代となり、南北ともに準戦時体制を維持しながら、国民の間から戦争の記憶が失われつつある。そんな奇妙な状態に、北朝鮮と韓国は置かれている。

 南北朝鮮は、こうした歴史的経緯から、互いに相手を「朝鮮半島の一部を不法占拠している反乱勢力」と規定し、いずれ統一することを公式の国家政策にしている。北朝鮮は韓国を「南朝鮮傀儡」「米帝追随者」と非難するなど米国の傀儡政権と見なしており、一貫して韓国との対話を拒否している。韓国との間で何かの合意に達しても、米国がノーと言えばすぐ翻してしまいかねない。そんな傀儡政権と対話などしても無駄だというのが北朝鮮の一貫した姿勢であり、北朝鮮が対話を要求する相手は一貫して米国である。

 北朝鮮は、建国以来、4つの基本原則に基づいて国家運営を行っている。「思想における主体、政治における自主、経済における自立、国防における自衛」だ。このうち自主、自立、自衛は独立国家であれば目指されて当然のものだ(むしろ、低い食糧自給率を放置し、外交上も米国追随の日本のほうが独立国家としての気概を持たない恥ずべき状態といえるだろう)。だが、「思想における主体」とはいったい何を表しているのだろうか。

 北朝鮮では、中国など他の社会主義国家と同様、党が国家を指導している。指導政党である朝鮮労働党は主体(チュチェ)思想をその指導原則とすることが党規約で定められている。主体思想とは何かと問われて正確に答えることは難しいが、1988年9月、北朝鮮建国40周年に当たって招待を受けたポーランド国営ポルテル社取材班が、北朝鮮から提供された資料に基づいて制作した「金日成のパレード 東欧の見た“赤い王朝”」の中にその答えがある。この映画では、主体思想について次のように説明している。

 『朝鮮労働党の党員の考え方や、革命のための人々のあらゆる活動は、主体思想を拠り所にしている。党の指導者に忠誠を誓う核心となるのは、革命に対する考え方、つまり主体思想である。社会主義及び共産主義の道は、指導者によって切り開かれ、党や指導者の管理の下に実現する。革命運動は党の指導者の指揮によってのみ勝利をもたらす。したがって、革命の勝利を確信するためには、党や指導者に対して、限りない忠誠を誓わなければならない』。

 主体思想は、マルクス・レーニン主義を北朝鮮に適用できるようにしたものだという俗流の解釈もある。だが少しでもマルクス主義を学習した経験を持つ人なら、これがマルクス主義とは似ても似つかないことをすぐに理解されるだろう。社会の全員が労働者階級になり、経済発展の結果「各人にはその必要に応じて」供給が行われるようになれば、国家は死滅するとしたマルクス主義に対し、主体思想では絶対的指導者が人民の上に半永久的に君臨し続けることが前提条件になっている。どう見ても、最高指導者の個人独裁を権威付け、正当化するための思想体系としか思えない。


北朝鮮国旗。星は共産主義を表す


朝鮮労働党旗。左から順にハンマー(労働者)、ペン(知識人)、鎌(農民)を表す


 ●核・ミサイル開発成功は30年の「努力」の集大成

 核・ミサイル開発は、金王朝「3代目」である金正恩朝鮮労働党委員長の時代になってからのここ数年で急激に進展したとの印象を持っている人も多いだろう。実際、金日成主席は、1994年元日に行った恒例の「新年の辞」の中で「ありもしない朝鮮の核問題を声高に言い立てながら、実際に朝鮮半島に核を持ち込み、我が国を威嚇しているのは米国である」と米国を非難するとともに、核疑惑を否定している。この時代、北朝鮮が将来核・ミサイルを保有することになるとはまだ誰も思っていなかった。だが北朝鮮は、核・ミサイル開発の道を金日成主席の時代から一貫して追求してきた。そのことは、この間の北朝鮮における「公式報道」を見れば明白だ。

 政治中心のお堅い番組が多い北朝鮮の国営メディアだが、クイズやドラマなどの娯楽番組も多く放送されている。1993年11月3日、朝鮮中央テレビで放送された「小さな数学者」という番組では、中学生~高校生レベルの問題を次々に解く「天才4歳児」リ・チョルミン君が取り上げられている。天空高く打ち上がるロケットをチョルミン君が見上げるアニメーション映像からは、すでにこの時代、ミサイル開発を目指す北朝鮮政府の意向がはっきりと示されている。


1993.11.3放送 朝鮮中央テレビ番組「小さな数学者」より。天才少年がロケットを夢見る


 筆者の手元にある映像資料の中には、この他にも、全国各地から選抜された少年少女が難しい計算問題を次々に解いていくクイズ番組があるが、朝起きてから夜寝るまでの生活すべてが政治と結びついている北朝鮮では、このような番組も単なる娯楽ではない。党や政府の目に留まった天才少年少女たちは、早くから国によって科学者用宿舎を与えられ、将来の科学技術を担う研究者の卵として育てられる。チョルミン君もそうした科学者の卵のひとりなのだ。

 この番組の放送当時、4歳だったチョルミン君。政治的粛清などの嵐に遭わず、順風満帆の人生を送っていれば、今年28歳になる。科学者としてはまだ若いが、そろそろ仕事が面白くなってくる働き盛りの入口世代だ。北朝鮮における核・ミサイル開発を支えているのは彼のような人物である。北朝鮮メディアは核・ミサイル開発の相次ぐ成功を「最高尊厳」(金正恩委員長)の政治的成果として華々しく宣伝しているが、実際には、金日成主席の時代から、着々と担い手を選抜・育成しながら進められてきた遠大な計画が、ついに実を結んだものと見るべきだろう。

 ●国際的包囲の中で

 北朝鮮は、国際社会からの非難も意に介さず、今後も核・ミサイル開発を続けることを繰り返し表明している。朝鮮戦争で共に血を流して戦ったはずの中国との関係が、歴史上最悪といわれるほど冷え込む中で、逆に歴史上最高の関係といわれ、北朝鮮の事実上の「後ろ盾」となっているロシアのプーチン大統領は、「彼らはたとえ雑草を食べてでも核・ミサイルを手にするだろう」と述べている。首都の市民が、毎朝、パンを求めて国営商店に行列を作らなければならないほど疲弊した経済の一方で、世界を何十回も滅亡させられるほどの核兵器を保有するに至ったソ連を、マーガレット・サッチャー英首相(当時)は「パンより核を大切にする国」だと非難した。これに激怒したソ連国防省機関紙「クラスナヤ・ズヴェズダ(赤い星)」はサッチャーに対し、その後、彼女の象徴的キーワードとなる「鉄の女」の称号を贈った。雑草を食べなければならないほど飢えたとしても、核・ミサイル開発を続ける鉄の最高尊厳・金正恩党委員長に率いられた「不思議の国」は今後どこに向かうのだろうか。

 世界地図の中で北朝鮮を見ると、列強に包囲されている小国の姿が見えてくる。北と西に位置するロシアと中国は、軍事的にも経済的にも強国だ。南に位置する日本と韓国は経済的には強国であり、不足する軍事力を米軍駐留で埋め合わせている。主体思想で固く武装してはいても優秀といえるかどうかは保障できない労働力と劣悪な石炭くらいしか資源のない北朝鮮が、強国の包囲の中で自主・自立・自衛を掲げ、必死に生き残りをかけて戦っている。かつて国際的孤立の道を歩む日本は米国(America)、英国(British)、中国(China)、オランダ(Dutch)による「ABCD包囲陣」によって包囲され、戦争に突入していったが、今、北朝鮮指導部からは、自分たちが「ACJS包囲陣」によって包囲されているように見えているであろう。米国、中国、日本(Japan)、韓国(South Koria)による包囲網である。もし、あなたが金委員長の立場だったらどうするだろうか。2200万人といわれる北朝鮮国民、300万人の朝鮮労働党員を守るため、彼と同じように行動するのではないだろうか。

 北朝鮮の姿は、戦前の日本と一見、似ているようにも思えるが、拡張主義と侵略の野望に燃えていた戦前の「神国日本」と異なり、北朝鮮には領土拡張の野心はなく、現実的にそのようなことが可能な状況にもない。その意味で、北朝鮮問題への対処は戦前の「神国日本」への対処ほどには難しくない。核を持たなければ、我が国は米国によって滅ぼされる――金委員長が抱いているそのような強い強迫観念を捨てさせるためには「ACJS包囲陣」による包囲を解く以外に方法はない。圧力で解決できないことは「神国日本」のその後の不幸な歴史を見れば明らかだ。圧力と制裁に明け暮れる安倍政権から、包囲網を解き、対話によって危機を乗り越える英知を持った新しい政権へ、私たちも勇気を持って進まなければならない。

<読者のみなさまへ>
 朝鮮民主主義人民共和国の国名表記については、同国の公式メディアが使用している「朝鮮」を使用すべきであるが、日本の報道機関で一般的に使われている北朝鮮の表記をそのまま用いた。北朝鮮による日本人拉致問題が発覚するまで、同国と日本の報道機関との間では、北朝鮮について報道する場合、「記事の最初で『朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)』と表記すれば、2回目以降に国名が登場するときは『北朝鮮』表記を認める」との合意が成立していたが、その後、破棄された経緯がある。

<参考文献・資料>
本稿執筆に当たっては、「北朝鮮データブック」(重村智計・著、講談社現代新書、1997年)の他、映像資料については文春ノンフィクションビデオ「金賢姫 私と北朝鮮」(1994年)に収録されているものを参考とした。

(黒鉄好・2017年10月22日)

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総選挙で躍進したコービン労働党 安倍1強に呻吟する日本の市民が汲み取るべき教訓は?

2017-08-25 18:25:15 | その他(海外・日本と世界の関係)
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2017年9月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 すでに2ヶ月以上経過してしまったが、6月8日(現地時間)に投票が行われた英総選挙は、EU離脱に向け、保守党が大勝して引き続きメイ首相が主導権を維持するとの下馬評を覆し、終わってみれば保守党が下院(庶民院とも。日本の衆院に相当)で単独過半数割れを起こすという番狂わせとなった。単独では予算も法律案も通せなくなった保守党は、北アイルランドの地域政党、民主統一党(DUP)の閣外協力(注1)を得てなんとか政権を維持する見込みだという。

 キャメロン首相時代以来の「ハング・パーラメント」(どの政党も単独で過半数を握れない「宙吊り議会」)を生み出した背景に何があるのか。7月の都議選で自民を大惨敗させ、安倍1強が大きく揺らいでいるものの、自民1党支配体制にはまったく変化がなく、安倍政権に呻吟している日本の市民がコービン労働党の勝利から汲み取るべき教訓は何か。日本で年内にもあり得ると噂される「改憲一か八か総選挙」に向け、改憲阻止を確実なものにするためにも整理しておくことはきわめて重要である。

 ●英市民が手弁当で作った「野党共闘」

 「今年で英国に住んで21年目になるが、こんな選挙前の光景は見たこともない」――労働党が下馬評を覆して躍進、保守党が過半数割れを起こした選挙結果をこう評するのは、福岡市出身で1996年から英国に在住する保育士、ブレイディみかこさんだ。彼女は、選挙期間中の光景をこのように書き綴っている。

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 総選挙の3日前、息子の学校の前でPTAが労働党のチラシを配っていた。「私たちの学校を守るために労働党に投票しましょう」「保守党は私たちの市の公立校の予算を1300万ポンド削減しようとしています」と書かれていた。息子のクラスメートの母親が、「労働党よ。お願いね」とチラシを渡してくれた。

 その翌日、治療で国立病院に行くと、外の舗道で人々が労働党のチラシを配っていた。「私たちの病院を守るために労働党に投票しましょう」「これ以上の予算削減にNHSは耐えられません。緊急病棟の待ち時間は史上最長に達しています」と書かれていた。配偶者が入院したときに良くしてくれた看護師がチラシを配っていた。彼らはみなNHSのスタッフだと言っていた。

 今年で英国に住んで21年目になるが、こんな選挙前の光景は見たこともない。

 一般庶民が、(それも、これまではけっこうノンポリに見えた人々まで)それぞれの持ち場で、自分の職場や病院や子供の学校を守るために立ち上がっていた。

 ほんの7週間前、保守党に24%の差をつけられ、1970年代以来最悪の野党第一党だと言われていた労働党の大躍進を可能にしたのは彼ら地べたの人びとだ。
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 保守党の緊縮財政、そして福祉・教育・医療切り捨てに怒る英国市民が、労働党を勝たせるために地域から行動する姿を生き生きと描き出している。労働党勝利を願いながら何もせず傍観するのでなく、自分のできる範囲でできることを最大限にやりきるのは今も昔も変わらない運動の基本だ。英国市民は、その歴史上初めて自分たちの手弁当で保守党敗北、労働党躍進という選挙結果を下から作り上げたのである。

 労働党躍進の背景に「英国版野党共闘」の存在があったことも重要だ。公式に労働党との選挙協力を表明し、自分たちの候補を取り下げたのは緑の党だけだが、この他にも自由民主党、女性の平等党、ナショナル・ヘルス・アクション党の活動家たちが水面下で労働党に協力した。自由民主党は1980年代まで社民党との間で自由=社民連合と呼ばれる政党連合を結成していた。その母体となった自由党は、英国に議会制度ができた当時の2大政党、ホイッグ党(民党)の流れを汲む中道政党だ。ナショナル・ヘルス・アクション党とは初めて耳にする名前だが、“National Hearth Action”のことだとすれば、直訳で「国民皆保険のための行動」党という意味になる。NHS(英国版国民皆保険制度)改悪反対だけを目的とした単一争点政党(いわゆるシングル・イシュー政党)だろう。いずれにせよ、こうした「保守党的でない」諸勢力が、労働党の下で公然と、または水面下で緩やかに連携したことも労働党の前進に寄与したことは間違いない。

 もともと、労働党首へのコービンの就任はいくつもの偶然の連続の賜物だった。ストップ戦争連合議長を務めるコービンの運動家としての力量は折り紙付きだが、政治家としての力量には疑問符が付けられていた。労働党政権当時、閣僚など政府要職の経験もなければ党役員経験もほとんどない。党内最左派で、鉄道の再国有化(注2)などを訴えるその公約は前時代的で実現不可能な夢物語と思われていた。数十年来の古い労働党支持者の間でさえ、コービンが首相になる姿は想像できないという声が多かった。要するにコービンの公約や主義主張は「永遠の野党」のものだという評価が大勢だったのだ。

 ●国民を脅して自滅したメイ首相、希望を与えて成功したコービン

 NHSは第2次大戦終了直後の労働党政権が作り出したものだという(ケン・ローチ監督映画『1945年の精神』より)。第2次大戦における英国勝利の立役者だったウィンストン・チャーチルは選挙敗北で労働党のアトリーに政権を譲っていた。ソ連の第2次大戦勝利による社会主義国家の拡大に危機感を抱いた英国は、アトリー政権下で大企業の国有化を進め、福祉国家路線を歩き始めていた。誰が言い出したのかわからないが、当時、英国でこんなジョークが流行したという話がある。

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 アトリー首相と野党・保守党のチャーチル党首が大規模産業国有化政策をめぐって激しい議論を闘わせた後、国会は一時休憩に入った。先にトイレに入ったアトリーが、出入口から見て最も手前の便器で用を足しているとき、チャーチルが入ってきた。彼は、出入口から見て一番奥、アトリーから見て最も遠い位置にある便器で用を足し始める。

 「どうしたんだい、ウィンストン。なんだか俺を避けているみたいじゃないか」

 アトリーがそう言うと、チャーチルが答える。

 「ああ。お前は大きいものを見ると、何でも国有化しようとするからな」
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 いかにもイギリスらしく、品位にやや欠けるものの、ウィットに富んだジョークと言えよう。NHSは、このような世界情勢を背景に、大きな政府路線を掲げる労働党政権によって確立した制度なのだ。その後、新自由主義を掲げて首相になったマーガレット・サッチャーも、国民の健康を保持することが国力の増強にも寄与することを理解し、NHSだけは民営化などを一切、行わなかったという(マイケル・ムーア監督映画『シッコ』より)。

 しかし、メイ首相はサッチャーですら手を付けなかったこの領域に今回、無謀にも手を出した。国民投票によるEU離脱決定後、「いま必要なのは、社会のすべての人々のために機能する経済」だと表明したはずの自分の発言をも投げ捨て、高齢者の医療費を死後、彼らの持ち家を処分させることで支払わせようとする制度の創設を公約に掲げた。労働党は、この保守党の公約を「認知症税」制度だと批判。慌てたメイ首相は、この公約は批判されているような認知症税などではなく、高齢者が「生きている間は自宅に住める人道的な制度」だと、安倍首相も真っ青の珍妙きわまる説明をしたが、賢明な英国民には通じなかった。「認知症税」制度創設の公約は結局、撤回に追い込まれた。

 口下手で自分のスピーチ能力に自信のないメイ首相は、コービンとの党首討論に出席しなかった。一方、コービンはNHSや教育、福祉への大規模な財政支出の拡大、鉄道の再国有化などを訴え、テレビ討論でこう述べた――「我々のマニフェストは未来への投資、若者たちへの投資についてのものです。これを法制化して実行できることを誇りに思います」。コービンの目はいつになく生き生きとしていた。

 テレビ討論で、客席に陣取っていた中小企業経営者から「長年の労働党支持者だったが、もう支持するのをやめる。あなたは法人税を26%に引き上げて何をしたいのか」と問われたコービンは、「逆に聞きたいが、あなたは公立学校の一クラスの人数が増え、ぎゅうぎゅう詰めになっているのを見てうれしいですか。子どもたちが、お腹を空かせて学校に行かなければならないのを見てうれしいですか」と反論。「2010年まで法人税は28%だった。保守党政権が減らした法人税を労働党は元に戻すだけだ。この国は富める者と貧しい者とに分断されている。あなたが長年の労働党支持者というなら考えてみてください。我々がどうやって福祉国家やNHSを作ったのか。それは終戦直後の労働党政権が未来に投資する勇気を持ったからです。労働党に任せてくれるなら、我々は再び同じことをやります」と述べ喝采を浴びた。別のメディアとのインタビューで「あなたが強く主張してきた王室廃止などの公約が、なぜ労働党のマニフェストに入っていないのか」と問われたとき、「それは僕が独裁者ではないからです」と答えたことも、党内民主主義を尊重する姿勢を有権者に印象づける上で大きく寄与した。

 労働党の躍進の背景にはこのような大きな流れがあった。政権交代が当たり前の欧米諸国では、どんなに躍進しても政権を奪取できなければ勝利とは評価されない。その意味で、今回の選挙結果は「コービン労働党の半分だけの勝利」と言えるだろう。

 ●日本の市民と野党が汲み取るべき教訓

 時代の主役は依然としてテレビであるものの、インターネットが力を付けつつある現在、説明能力こそが政治家の命運を左右する傾向はますます強まっている。米大統領選におけるドナルド・トランプ勝利は荒唐無稽なことのように思われているが、良い悪いは別として、自分のやりたいこと、目指しているもの、日々思い、考えていることを自分の言葉で発信できる指導者が有利になるのが最近の傾向だ。ヒラリー・クリントンにはトランプが持つような、ある種の明快さがなかったことが敗因のように思われる。

 日本で野党が存在感を発揮できない最大の理由も「卓越した説明能力を持つリーダーの不在」が挙げられる。筆者が各種の集会に参加していて実感するが、野党党首や国会議員たちのスピーチ能力も、話している内容も、日本では市民団体のメンバーとそれほど大きく変わらない。単なる「○○反対、阻止」だけでなく、コービンがそうしたように、自分たちならどうするか、明確なビジョンを語る政治家を登場させなければならない。

 「脅しより希望が勝つ」(英「ガーディアン」紙ライター、ゾーイ・ウィリアムズ)は、この選挙から得られる2つ目の教訓だ。日本の野党は「もし共謀罪が導入されたら今よりもっと悪くなる」と有権者を脅すのは得意だが、「私たちに任せてくれたらこういうふうなバラ色の未来が待っている」という話は過去、ほとんどしてこなかった。労働党が今回やったように、私たちが新自由主義をやめて人々の生活にかかわる部分に税金を投入していくことでバラ色の未来が待っている」ということをもっとアピールすることが、今後の闘いの上で必要だ。希望なきところに未来はない。

 日英の大きな違いがひとつある。英国の労働党は過去に何度も政権を担当した実績を持つが、一党優位政党制が最も極端な形で続く日本では野党の政権担当期間はごくわずかで特筆するような実績も上げていない。日本共産党のように一度も政権担当の経験がない野党も存在する。コービンのように、過去の政権担当時の実績を売りにすることはできないし、何かのビジョンをアピール的に掲げたとしても「どうやって実現するのか」と厳しく問われるだけであろう。

 しかし恐れることはない。政権獲得の見通しが当面ないからこそできることもある。実現可能性を気にせず、思い切り理想主義的で、絵空事のような公約を掲げればよいのだ。万年野党こそ自分たちの有利なポジションを利用すべきだろう。うまくいけば、与党が自分たちの公約にこだわりすぎて失敗したときに、少し現実主義的な案に揉み直して丸呑みしてくれるかもしれないからだ。政権交代ができなくても、それは政策の転換を勝ち取ることにつながる。ただし、政策の転換を勝ち取るには今の自公政権は強力すぎる。もう少し彼らの力を弱めることが必要だ。理想のビジョンを掲げつつ、自公に対する徹底的な批判を並行して展開しなければならない。

 教訓の3つ目は「最も大切なのはいつの時代も経済政策」ということだ。経済というと、市民セクターの人々はすぐに「カネ儲けの話なら願い下げだ」「資本主義反対」と脊髄反射的に拒否することも多い。だがこの場合の経済とは、労働党の言葉を借りれば「ブレッド&バター問題」(直訳すれば「パンとバター問題」)。要するに貧困層を含め、すべての人々を満足に食べさせるための経済政策という意味であり最重要課題だ。市民派、左派と呼ばれる人たちはこれまで、あまりにこの問題を軽視しすぎたように思われる。反原発、基地反対、確かにそれはすばらしいが、人間は腹が減っては戦はできないし、空腹に耐えて反原発デモに来いと呼びかけたところで、「まずは飯を食ってからだ」で話が終わってしまう。経済学者・松尾匡は、左派こそ反緊縮を掲げ、どんどんお札や国債を刷ってカネを作り、政府支出を拡大して社会的弱者のために使えと主張している(「この経済政策が民主主義を救う~安倍政権に勝てる対案」に詳しい)。

 国債は、買いたい人、買うための経済的余裕がある人だけが買い、経済的余裕のない人は買う必要がない。その意味で、国債発行による借金は、貧困層からも容赦なくむしり取る消費税に比べ、はるかに公平でかつ能力に応じた負担といえる。国の借金は増えるが、医療・教育・福祉などの「未来への投資」は必ず健康な国民、優秀な労働者の増加を通じて社会的利益として戻ってくるであろう。

 教訓の4つ目は、左派、リベラルの旗をしっかり立て、野党共闘を構築することである。左派的な態度を明確にしない曖昧な立場のマニフェストでは、緑の党、自由民主党、女性の平等党、ナショナル・ヘルス・アクション党との公然たる、あるいは水面下の協力体制は成立しなかっただろう。弱者救済、反緊縮、そして鉄道などの社会資本は民営から国営へ。保守党に対し、オルタナティブとなるような左派、リベラルのしっかりした旗の下における野党共闘だったからこそ、コービン労働党は英国国民の心を捉えたのだ。

 日本でも野党共闘の動きは「市民連合」を軸に進められつつある。だが、民進党の政策を基本にし、「一緒に闘いたければお前たちが我々に歩み寄れ」という姿勢では掛け声倒れに終わるだろう。そもそも民進党の基本政策は新自由主義、緊縮財政でコービン労働党とも、日本の市民が求めているものとも相容れないし、経済以外の政策を見ても自民党と大差ない。英国のような「左派的野党共闘」となるにはあまりに右寄り過ぎ、この旗の下で結集するには他の野党(とりわけ日本共産党)にとって失うものが多すぎる。それこそが野党共闘の阻害要因になっていることを、いい加減、民進党は自覚すべきだ。左右対立で党内のとりまとめができないなら、思い切って右派に離党を促し、残った者だけで左派、リベラルの旗をしっかり立てる。その旗の下に「自公政権的でない」市民と野党を束ねる。そのような地道な行動なくして、真の野党共闘は構築できないと知るべきだ。

 ともに立憲君主制であり、議院内閣制であり、島国であり、小選挙区制であり、民意を2大政党に吸収させたいと願いながら実現せず、未来より過去にノスタルジーを抱いている。こうしてみると、日英両国はあまりに似ていて兄弟のようだ。これだけ似ているのだから、英総選挙の結果から教訓を引き出すという筆者の本稿における作業も、きっと日本政治の閉塞状況を打破する上で役に立つものと信じたい。

<参考資料・文献>

コービン労働党が奇跡の猛追。「21世紀の左派のマニフェスト」とは?(ブレイディみかこ氏の2017.5.31付け記事)

●コービン労働党まさかの躍進。その背後には地べたの人々の運動(ブレイディみかこ氏の2017.6.9付け記事)

注1)閣外協力とは、一般的に、政権内に閣僚を送り込まず、与党と政策協定を結び、国会で政府提出議案に賛成するなどして閣外からほぼ全面的に政権に協力することをいう。日本ではなじみのない言葉だが、与野党対決法案を含め、自公政権が提出した議案のほとんどに賛成している日本維新の会は、自公両党と政策協定こそ結んでいないものの、欧米諸国の定義に従えば実質的な閣外協力「与党」と評して差し支えないであろう。

注2)英国の鉄道は、日本にならって分割民営化されたが、「上」(列車運行部門)と「下」(設備保有部門)合わせて100社以上に分割されるというでたらめなものだった。2000年、保線の不備から線路が砕け列車が脱線、4人が死亡した「ハットフィールド事故」をきっかけに、英政府は民営化の失敗を宣言。「下」部門のレールトラック社(営利組織)を「ネットワークレイル社」(非営利組織)に改めた。「下」の非営利事業化はすでに実現していることから、コービンの言う再国有化とは、上下を共に国有国営に戻す「再国鉄化」を意味するものと受け止められている。

(黒鉄好・2017年8月20日)

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