6月2日付け記事「閉塞感で行き詰まったとき、ふと思い出す「幼き日」の出来事」に、思わぬ反響があった。だが、私は反響があったからといっていつも続編を書くわけではない。むしろ続編を綴るのは例外中の例外である。前回の記事で若干、書き足りないことがあったので、イメージが形になっているうちに書き加えておきたいと考えたのだ。
人は、未来に希望が持てなくなると過去を懐かしみたくなる。過去は自分がすでに通過してきた道であり、風化はしても変化することはないのに対し、未来は予測不可能で不安な存在だからだ。不変のものとして残っている過去と、予測不可能で不安な未来を比較して、より安心・確実な過去に逃げ込む。その選択を誰も責めることはできない。ましてや人類を破滅に追い込みかねない大規模な戦争が、2つ同時に進行し、そのどちらにも終わる気配さえ見えない現状で、未来に期待などできる方がおかしい。
ただ、私が一般市民と違うのはマルクス主義者であることだ。私が過去を参考にするのは、それがよりよい未来を造るうえで役立つ限りにおいてである。「人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分勝手に選んだ状況のもとで歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、あたえられた、過去からうけついだ状況のもとでつくるのである」(「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」マルクス)といわれるように、未来はいつも現在の延長線上にある。戦争と混乱が世界を覆い、未来に希望が持てないときでも、マルクス主義者は「今」すなわち「あたえられた、過去からうけついだ状況」と格闘しながら未来への道を切り開かなければならないのだ。
◇ ◇ ◇
冒頭で紹介した6/2付け記事で書いたように、私はもともと他人と同じことを、他人と同じスピードでこなすことが苦手だった。懸命に努力しても追いつけなかった。理由もわからないまま、子ども時代はもがき続けた。同年代の子どもたちが当たり前のようにできている人間関係の構築に完全に行き詰まり、おおぜいでの外遊びから完全にドロップアウトしたのが、小学校4年生の時だった。「他のクラスメートや、同年代の友達に約束されているであろう『普通の幸せな人生』は、自分にはないかもしれない」と初めて思ったのは、このときだった。
現在では発達障害の一類型であるASD(少し前までは高機能自閉症、アスペルガー症候群などと呼ばれていた)を疑わせる顕著な傾向も、この頃には出ていた。電気屋のチラシに掲載されている時計の針がすべて10時10分を指していることなど、普通の人はどうでもいいと思って気にしないことが気になり、理由が知りたくて仕方なかった。自宅の前を通る国鉄の路線で、何時何分にどんな列車が通過するかはすべて頭に入っており、通過列車を見ることで時刻を判断できたから、小学校卒業まで腕時計を着けたことがなかった。
明らかに興味・関心・記憶力を向ける対象が偏っていた。普通の人がどうでもいいと思って気にしないようなことの理由を知るために図書館に通うなどする一方で、普通の人なら備わっていて当然のことに対する注意力ーー例えば、忘れ物をしない、自分が出した物は元通り片付けるといったことへの注意力ーーは散漫で、明らかに欠けていた。人生を半世紀以上生きた今も、そうした傾向は当時とたいして変わっていない。
自分が他人と違っていて、どう頑張って努力してもマジョリティには決してなれないことを、小学校を卒業するころには悟りつつあった。自分は「普通の多数派の人たち」とは違う人生を送ることになるとの予感は、この頃からあった。すでにこの時点で一度、県の作文コンクールで佳作を取っていたが、そのことは忘れていた。自分には何ができるのだろう、何で身を立てるべきなのだろうという疑問はあったが、それを考えずにすむよう、高校は普通科に、大学でも経済学科に進んで「あえて普通に」振る舞っていた。思えばこの頃が一番人生で平穏な時期だった。
大学当時のバイト先はスーパーで、職種は倉庫係の食品担当。倉庫から食品売場への荷物出しがメインと説明され採用されたが、実際には卸売業者から納品された商品の整理もした。売場で商品の陳列をしているときにお客さんから商品の場所などを尋ねられたら応対しないわけにいかず、接客もこなした。
最も困ったのが「これ、おいしいですか」と聞いてくる客にどう答えるかだった。おいしいかどうかは主観であり、自分がおいしいと思っている商品が目の前のお客さんにとっても同じように感じるかはわからない。小学生の頃の体験から、自分はマジョリティとは違う世界を生きているとの自覚もあったから、ヘタに「おいしいです」などと答え、お客さんの口に合わなかった場合にクレームも予想された。
結局、一瞬考えた末「売れている(または売れていない)」と答えることにした。どの商品が売れているか(この業界では「売れ筋」という)はわかっていたし、売れているかどうかなら客観的な指標で、自分の味覚よりは信用できる。後でお客さんから苦情を言われても「売れているんですけどね」と言い訳もできる。この方法で接客も無難にこなした。バブル真っ盛りでみんなが未来への希望を持っており、今で言うカスタマーハラスメント(カスハラ)のようなことも受けた記憶は全くない。私自身、接客を無難にこなして自信がつき、子どもの頃あきらめていた『普通の幸せな人生』が自分にも到来するかもしれないと、ほんの一瞬だけ夢を見ることができた。私自身にとっても、日本と日本人にとっても最後のいい時代だった。
中学生の頃、両親が近所に住んでいる日本共産党員からの勧誘を断り切れずに「しんぶん赤旗」日曜版を購読していた影響で、日本共産党の政策や主義主張は知っていたが、大学に入り、自治会執行部の座をめぐって日本民主青年同盟(日本共産党の「みちびきを受ける」とされる青年組織)と共産同戦旗派が激しく争っていた。私の所属学部の執行部は戦旗派に握られており、民青の学生が「奪還したいので協力してくれないか」と依頼してきた。ちょうど、戦旗派系サークルの部室が、対立していた革マル派によって放火される事件があったことに加え、中国で天安門事件が起きた直後。「暴力的社会主義」にはうんざりしていたので協力すると回答した。
だが、私は小学生の頃から学級委員や児童会・生徒会などの仕事はもちろん、班長の経験すら持ち合わせていなかった。人と同じことをこなすのさえ無理な私に、人並み以上の働きでメンバーをまとめる仕事なんて聞いただけで気が遠くなる。「長」のつく仕事などまったく向いていなかった私に立候補の選択肢はなかった。結局、学部内でも屈指の「お祭り男」T君が民青に請われて自治会役員選に出馬。私はとりあえず裏方に徹し、なんとかT君を当選させ、学部自治会執行部から戦旗派を追い出すことには成功した。
選挙後、私も民青に勧誘されたが、渡された全学連機関紙の「祖国と学問のために」という名称が気に入らなかったため断った。国家は資本家階級の利益を守るためにあり、それゆえ「労働者に祖国はない」というのがマルクス主義国家観の基本なのに、それを学んでいる民青系全学連が機関紙に「祖国」なんて名称を冠するのは論外だと思ったからだ。
◇ ◇ ◇
子どもの頃から、私は「長」のつく役職など無縁の人生を送ってきた。それは半世紀近く経った今なおまったくといっていいほど変わらない。やはり、子どもの頃に形作られた資質はそうそう変わらないものなのだ。興味・関心・記憶力を向ける対象が偏っている自覚も幼少時からある。だからこそ私はこれまで「派閥は作らず、加わらない」「主流派には乗らない」を自分の信条としてきた。主流派なんて面倒なだけだ。権力闘争に向けられるその無駄なエネルギーを、専門分野を磨くことに費やす方がよほど自分の性に合っている。
「人事部があなたの扱いに困っているらしい」という話を、職場で人づてに聞いた。ちょうど昨年の今ごろだった。私は胃がんで胃を全摘出した経験もある上、今も月に1回、精神科に通い精神安定剤の処方も受けている。平成の時代までであればとっくに出世レースからなど外れて当然だが、安倍政権が「一億総活躍」などという変なスローガンを掲げた手前、病歴を理由に昇進の道を閉ざすことも、後に続く同じような人たちを絶望させることになるためできないらしい。
前から述べているように、私自身は昇進なんてまるで興味がないし、最強の兵隊でいることが最も自分らしい人生だと思っている。私が苛立っているのは昇進できないからではない。いつまでも踊り場に留め置かれたまま、私はもう何年も待っているのに、上の階に上る階段、下の階に降りる階段のどちらに通じるドアもまったく開く気配がない。私はいつまで踊り場に居続けなければならないのか--苛立ちの原因はそこにある。どっちでもいいから決めてくれよというのが正直な気持ちである。
落ち込んだときに私がよく聴いている曲を紹介したい。渡辺美里さんの「世界で一番遠い場所」。高校に入学した年、人生で初めて買ったCDが、この曲の入ったアルバムだった。「手に入れた自由に 淋しさを感じても Good times,bad times あきらめない いつか飛び立てる時まで」--この曲のこの歌詞に、今まで何度、励まされたかわからない。飛び立つための翼を手に入れる日が私に来るかどうかはわからないけれど。
とりあえず今日は最後にこの曲を聴いて、寝ることにしよう。
世界で一番遠い場所
人は、未来に希望が持てなくなると過去を懐かしみたくなる。過去は自分がすでに通過してきた道であり、風化はしても変化することはないのに対し、未来は予測不可能で不安な存在だからだ。不変のものとして残っている過去と、予測不可能で不安な未来を比較して、より安心・確実な過去に逃げ込む。その選択を誰も責めることはできない。ましてや人類を破滅に追い込みかねない大規模な戦争が、2つ同時に進行し、そのどちらにも終わる気配さえ見えない現状で、未来に期待などできる方がおかしい。
ただ、私が一般市民と違うのはマルクス主義者であることだ。私が過去を参考にするのは、それがよりよい未来を造るうえで役立つ限りにおいてである。「人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分勝手に選んだ状況のもとで歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、あたえられた、過去からうけついだ状況のもとでつくるのである」(「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」マルクス)といわれるように、未来はいつも現在の延長線上にある。戦争と混乱が世界を覆い、未来に希望が持てないときでも、マルクス主義者は「今」すなわち「あたえられた、過去からうけついだ状況」と格闘しながら未来への道を切り開かなければならないのだ。
◇ ◇ ◇
冒頭で紹介した6/2付け記事で書いたように、私はもともと他人と同じことを、他人と同じスピードでこなすことが苦手だった。懸命に努力しても追いつけなかった。理由もわからないまま、子ども時代はもがき続けた。同年代の子どもたちが当たり前のようにできている人間関係の構築に完全に行き詰まり、おおぜいでの外遊びから完全にドロップアウトしたのが、小学校4年生の時だった。「他のクラスメートや、同年代の友達に約束されているであろう『普通の幸せな人生』は、自分にはないかもしれない」と初めて思ったのは、このときだった。
現在では発達障害の一類型であるASD(少し前までは高機能自閉症、アスペルガー症候群などと呼ばれていた)を疑わせる顕著な傾向も、この頃には出ていた。電気屋のチラシに掲載されている時計の針がすべて10時10分を指していることなど、普通の人はどうでもいいと思って気にしないことが気になり、理由が知りたくて仕方なかった。自宅の前を通る国鉄の路線で、何時何分にどんな列車が通過するかはすべて頭に入っており、通過列車を見ることで時刻を判断できたから、小学校卒業まで腕時計を着けたことがなかった。
明らかに興味・関心・記憶力を向ける対象が偏っていた。普通の人がどうでもいいと思って気にしないようなことの理由を知るために図書館に通うなどする一方で、普通の人なら備わっていて当然のことに対する注意力ーー例えば、忘れ物をしない、自分が出した物は元通り片付けるといったことへの注意力ーーは散漫で、明らかに欠けていた。人生を半世紀以上生きた今も、そうした傾向は当時とたいして変わっていない。
自分が他人と違っていて、どう頑張って努力してもマジョリティには決してなれないことを、小学校を卒業するころには悟りつつあった。自分は「普通の多数派の人たち」とは違う人生を送ることになるとの予感は、この頃からあった。すでにこの時点で一度、県の作文コンクールで佳作を取っていたが、そのことは忘れていた。自分には何ができるのだろう、何で身を立てるべきなのだろうという疑問はあったが、それを考えずにすむよう、高校は普通科に、大学でも経済学科に進んで「あえて普通に」振る舞っていた。思えばこの頃が一番人生で平穏な時期だった。
大学当時のバイト先はスーパーで、職種は倉庫係の食品担当。倉庫から食品売場への荷物出しがメインと説明され採用されたが、実際には卸売業者から納品された商品の整理もした。売場で商品の陳列をしているときにお客さんから商品の場所などを尋ねられたら応対しないわけにいかず、接客もこなした。
最も困ったのが「これ、おいしいですか」と聞いてくる客にどう答えるかだった。おいしいかどうかは主観であり、自分がおいしいと思っている商品が目の前のお客さんにとっても同じように感じるかはわからない。小学生の頃の体験から、自分はマジョリティとは違う世界を生きているとの自覚もあったから、ヘタに「おいしいです」などと答え、お客さんの口に合わなかった場合にクレームも予想された。
結局、一瞬考えた末「売れている(または売れていない)」と答えることにした。どの商品が売れているか(この業界では「売れ筋」という)はわかっていたし、売れているかどうかなら客観的な指標で、自分の味覚よりは信用できる。後でお客さんから苦情を言われても「売れているんですけどね」と言い訳もできる。この方法で接客も無難にこなした。バブル真っ盛りでみんなが未来への希望を持っており、今で言うカスタマーハラスメント(カスハラ)のようなことも受けた記憶は全くない。私自身、接客を無難にこなして自信がつき、子どもの頃あきらめていた『普通の幸せな人生』が自分にも到来するかもしれないと、ほんの一瞬だけ夢を見ることができた。私自身にとっても、日本と日本人にとっても最後のいい時代だった。
中学生の頃、両親が近所に住んでいる日本共産党員からの勧誘を断り切れずに「しんぶん赤旗」日曜版を購読していた影響で、日本共産党の政策や主義主張は知っていたが、大学に入り、自治会執行部の座をめぐって日本民主青年同盟(日本共産党の「みちびきを受ける」とされる青年組織)と共産同戦旗派が激しく争っていた。私の所属学部の執行部は戦旗派に握られており、民青の学生が「奪還したいので協力してくれないか」と依頼してきた。ちょうど、戦旗派系サークルの部室が、対立していた革マル派によって放火される事件があったことに加え、中国で天安門事件が起きた直後。「暴力的社会主義」にはうんざりしていたので協力すると回答した。
だが、私は小学生の頃から学級委員や児童会・生徒会などの仕事はもちろん、班長の経験すら持ち合わせていなかった。人と同じことをこなすのさえ無理な私に、人並み以上の働きでメンバーをまとめる仕事なんて聞いただけで気が遠くなる。「長」のつく仕事などまったく向いていなかった私に立候補の選択肢はなかった。結局、学部内でも屈指の「お祭り男」T君が民青に請われて自治会役員選に出馬。私はとりあえず裏方に徹し、なんとかT君を当選させ、学部自治会執行部から戦旗派を追い出すことには成功した。
選挙後、私も民青に勧誘されたが、渡された全学連機関紙の「祖国と学問のために」という名称が気に入らなかったため断った。国家は資本家階級の利益を守るためにあり、それゆえ「労働者に祖国はない」というのがマルクス主義国家観の基本なのに、それを学んでいる民青系全学連が機関紙に「祖国」なんて名称を冠するのは論外だと思ったからだ。
◇ ◇ ◇
子どもの頃から、私は「長」のつく役職など無縁の人生を送ってきた。それは半世紀近く経った今なおまったくといっていいほど変わらない。やはり、子どもの頃に形作られた資質はそうそう変わらないものなのだ。興味・関心・記憶力を向ける対象が偏っている自覚も幼少時からある。だからこそ私はこれまで「派閥は作らず、加わらない」「主流派には乗らない」を自分の信条としてきた。主流派なんて面倒なだけだ。権力闘争に向けられるその無駄なエネルギーを、専門分野を磨くことに費やす方がよほど自分の性に合っている。
「人事部があなたの扱いに困っているらしい」という話を、職場で人づてに聞いた。ちょうど昨年の今ごろだった。私は胃がんで胃を全摘出した経験もある上、今も月に1回、精神科に通い精神安定剤の処方も受けている。平成の時代までであればとっくに出世レースからなど外れて当然だが、安倍政権が「一億総活躍」などという変なスローガンを掲げた手前、病歴を理由に昇進の道を閉ざすことも、後に続く同じような人たちを絶望させることになるためできないらしい。
前から述べているように、私自身は昇進なんてまるで興味がないし、最強の兵隊でいることが最も自分らしい人生だと思っている。私が苛立っているのは昇進できないからではない。いつまでも踊り場に留め置かれたまま、私はもう何年も待っているのに、上の階に上る階段、下の階に降りる階段のどちらに通じるドアもまったく開く気配がない。私はいつまで踊り場に居続けなければならないのか--苛立ちの原因はそこにある。どっちでもいいから決めてくれよというのが正直な気持ちである。
落ち込んだときに私がよく聴いている曲を紹介したい。渡辺美里さんの「世界で一番遠い場所」。高校に入学した年、人生で初めて買ったCDが、この曲の入ったアルバムだった。「手に入れた自由に 淋しさを感じても Good times,bad times あきらめない いつか飛び立てる時まで」--この曲のこの歌詞に、今まで何度、励まされたかわからない。飛び立つための翼を手に入れる日が私に来るかどうかはわからないけれど。
とりあえず今日は最後にこの曲を聴いて、寝ることにしよう。