人生チャレンジ20000km~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

公共交通と原発を中心に社会を幅広く考える。連帯を求めて孤立を恐れず、理想に近づくため毎日をより良く生きる。

コロナ「5類移行」で見えてきた風景に思う

2023-05-24 23:42:32 | その他社会・時事
日々の雑事が忙しすぎてご挨拶が遅れてしまったが、私はこの春も異動はなかった。2013年4月に異動で引っ越してきた北海道での生活は丸10年過ぎ、とうとう11年目に突入する。こんなに長くここで暮らすことになるとは思っていなかった。

生活していく上ではせっかくのいい環境なのに、この3年間はコロナ禍で思うような対面活動はできなかった。新型コロナウィルスの感染力、重症化率ともに通常のインフルエンザより依然として高いため、法的には新型コロナウィルス対策特別措置法に基づく2類伝染病扱いのままだったが、感染拡大当初(2020年春)、緊急事態宣言が出された頃と比べて弱毒化が明らかとなり、訪日客に対する水際対策が緩和されたあたりから、実質的には「個人の判断で勝手に5類化」といってもいい状態だったから、このGW明けの5類移行と聞いても「ふーん」という感想しかないのが正直なところだ。

実際、対面活動がほぼコロナ禍以前に戻ってきている実感もあるし、私の手帳のスケジュール欄を見ても、既に夏までスケジュールはびっしり埋まっており、1日が完全休養という日は片手で数えられるくらいしかない。

ステイホーム、行動変容といわれて人が我慢していられるのもせいぜい1~2年が限度だし、重症化度合いは若い世代ほど低く、高齢者ほど高いが高齢世代では個人の健康状態によるばらつきも大きいことを考慮すると、全員に対し一律に何らかの強制に近い制限を課する措置からは、そろそろ出口戦略を探る時期だったことは確かだろう。

問題は、この3年間から我々が何を得たのか。別の言い方をすれば、何を得て、何を失ったのかだと思う。通勤ラッシュ、コンサートやイベント、インバウンドに関しては「戻ってきた」感が強いが、子どもの頃の社会科の授業で、日本は「原材料を輸入して、製品を輸出する加工貿易の国」だと教わったのも遠い昔のことになりつつある。「サービスを輸出し、モノを輸入する」経済構造に今ではすっかり変わってしまった日本は、もう「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」とお金持ちの外国人にお辞儀する以外に食い扶持がなくなりつつあるのだから、こうした分野で「戻ってきた」感が出ているのは、いいことか悪いことかは別として、やむを得ない選択なのだろう。日本人の多くが気付かないか、不都合な真実として気付かないふりをしてきたこのような経済構造の変化が、コロナ禍で白日の下にさらされることになった。

(注:インバウンドによる日本国内での買い物が「輸出」に当たることに対しては、今ひとつピンと来ない方も多いと思うが、日本からモノを買い、代金を払ってそれを外国人が自国に持ち帰ることは、それが個人によって行われる点が違うだけで、日本企業が外国にモノを送り、代金を受け取る行為と変わらないから「輸出」に当たるし、財務省の貿易統計でもちゃんと「輸出」として扱われている。外国人観光客が体験型観光(いわゆる「コト消費」)をするのも、支出と引き替えに外国人が受け取るのが形のないサービスだというだけで、やはり「輸出」に当たることに変わりはない。)

日本経済が「原材料を輸入して、製品を輸出する」から「サービスを輸出し、モノを輸入する」に変わるにつれ、多くの日本人が「以前より貧しくなった」と実感しているとしたら、それは経済学的に正しい。一般的に、付加価値(=経済活動、生産活動によって新たに生み出される富)は、製造業では大きく、サービス業では小さくなるからだ。

機械のスイッチをポンと押せば、1時間当たり何百、何千もの製品が勝手に作り出される製造業と、「いらっしゃいませ~」と大声で呼び込みをしても、来店してもらえるかはお客さん次第のサービス業では、生産性は比べものにならない。サービス産業は製造業と違い、ほとんどの業務は機械化できないので、労働コストが高くつく上、お客さんが来るかどうかはふたを開けてみるまでわからないサービス業は当たり外れも大きいからだ。「あくせく働いているのに、成果に結びつかない」「拘束時間ばかり長い割に、成果が見合わない」と多くの日本人が感じているのは、サービス産業が持つこうした特性によるところが大きい。

賃金も、物価も、成長率も、すべてが「安いニッポン」になってしまった原因が誰にあるのか。経営者は「消費者が安物しか買ってくれないから儲けが出ず、賃金を上げたいのに上げられない」と主張し、労働者は「経営者が内部留保ばかりため込んで賃金を上げないから消費が増えないのだ」と主張する。どちらも「自分は悪くない。悪いのは相手のほうだ」と責任を押しつけ合っている。

先進国になるにつれ、経済は第3次産業(=サービス業、知識産業)が主流になっていくことを、米国の経営学者・ドラッカーが指摘したのはもうずいぶん昔のことだが、日本以外の先進国はサービス業が経済の中心になっても成長し、賃金も物価も上昇していることを考えると、日本経済低迷の原因はサービス産業化とは別のところにあるといわざるを得ない。

今までは、その原因がどこにあるのか私もつかみかねていたが、コロナ禍の3年間でそれが割とはっきり姿を現してきたように思う。日本人の経済活動が、純粋な意味で「無から有を生み出す」ものになっていないからではないかというのが私の推論である。

アメリカが経済成長を続けているのは、WINDOWSやFacebook、twitterなどのように、今まで人類の誰も見たことがなかったものを、新しく作り出す--つまり「無から有を生み出す」ことに成功しているからである。逆に、中国が成功したのは、日本では半世紀近くも前に整えられたような基本的な生活基盤も十分に整っていないような途上国であったために、先進国の真似をすることが「無から有を生み出す」ことにつながり、それが富を生み出してきたからである。

1990年代に「失われた30年」に突入して以降の日本人が怠けていたわけではない。むしろ世界的にも真面目な部類だったように思う。しかし不幸だったのは、日本より先を行っている国の真似をしていれば、それが「無から有を生み出す」ことに結びついていたキャッチアップ型経済ではなくなっていたにもかかわらず、アメリカのように「今まで人類の誰も見たことがなかったものを、新しく作り出す」型経済に移行できなかったことにある。

その日本の「ダメさ加減」を象徴していたのが、いま思い返せばデジタル分野だった。紙・カード式の健康保険証を廃止して、マイナ保険証に置き換えるようなものが、愚策の典型に思える。日本では、新しいものを作り出すのではなく、古いもの、それもアナログ時代に確立した、割と完成度の高いシステムをわざわざ壊して、ものになるかもわからない未知のデジタルシステムに置き換えようとするような政策ばかりだった。

「今まで人類の誰も見たことがなかったものを、新しく作り出す」経済活動は、社会の大多数に喜びをもって迎えられるが、日本では経済活動(特にデジタル化)の大部分が「既存システムの置き換え」だったために、古いシステムで食べている人たちの頑強な抵抗に遭い挫折する。ごくたまに上手くいくことがあっても、既存のシステムを壊したために経済にマイナスの影響も生じてしまい、せっかく新システムを導入しても差し引きゼロ。スクラップ・アンド・ビルドでは差し引きがプラスにはならないということに、そろそろ日本人は気付くべきだろう。

日本人はもともと既にあるもののカイゼンは得意でも無から有を生み出すイノベーションは大の苦手。おまけに「全社一丸」なんてスローガンだけは立派なものの、組織全体を統括できるリーダーがいないため、各部署がそれぞれ勝手に部分最適を追求した結果、部署ごとの足の引っ張り合いや衝突ばかり。ようやく長い時間をかけて社内調整が終わる頃には、世界は既に次のフェーズに移行している--なんて場面を何度も見てきた。やはり日本の場合、技術よりも組織運営の拙劣さが長い停滞を生んできたように思う。

そうした拙劣な組織運営のあり方を見直す。コロナ禍はその100年に一度のチャンスであるように私には思えた。このピンチではあるが同時にチャンスでもある局面を、日本は十分に生かし切っただろうか。私にはどうもそうは思えない。どうでもいい会社の飲み会に全員が「同調圧力という名の事実上の強制」によって参加させられ、いわれなくても女性は男性にお酌をするもの--そうした前時代的で差別的ですらある馬鹿げた風習、文化が「三密回避」の名目とともに廃れれば、今度こそ日本が変わるかもしれないという希望が芽生えた時期があった。だがそれも緊急事態宣言直後の一時期だけだったのだろうか。

コロナ禍で日本人が新たに手に入れたもののうち、今後も確実に残りそうなのは「オンライン会議の普及」だろう。Zoomによる会議、イベントの開催は一般的になった。市民団体の集会など、これまで遠方での開催のため参加を諦めていた人たちが参加できるようになった。コロナが弱毒化し、対面開催が復活してくるにつれ、リアル参加者のために会場設営もし、オンライン参加者のために配信機材の設置もしなければならないハイブリッド集会の開催は、成果は今まで通りで変わらないのに手間だけ2倍かかるので、多くの市民団体がオンライン配信をやめ、対面開催オンリーの形に戻したがっている。だが「せっかく遠方からでも参加できるようになったのに、やめるなんて酷い」といわれ、やめるにやめられないでいる。コロナ禍3年の既得権として、定着したまま進みそうだ。

もうひとつ、今後に資産として残りそうなのが「無駄な夜間活動の削減」だ。夜の飲食店、歓楽街が感染拡大の元凶と見なされ(本当にそうだったのかは結局判然としないが)、特に酒類提供が中心だった店の多くに以前の賑やかさは戻っていない。どうでもいい会社の飲み会や、差別的なお酌の強要などがなくなり、若い世代(特に理不尽が集中していた女性)は「せいせいしている」のが実態だろう。私の職場でも、異動や退職で職場を去る人には、送別会の代わりに記念品の贈呈が一般的になった。こうしたことは前向きな変化として今後に継承すべきだと思う。オヤジたちのどうでもいい武勇伝とか、時代は変わっているのに「俺たちの頃はそうだったんだ(=だからお前らもそうしろ、という無言の圧力)」なんて話を聞かされても、若い世代でこのブログを読んでいる人がいたら、それこそ「知らんけど」で片付けておけばいい。

先日も、日本経済新聞に「夜間経済の縮小」を憂う記事が載っていたが、日本の代表的経済紙がそんな古い感覚だからダメなのだ、と私は苦言を呈しておきたい。働き手もいないのに、CO2を吐き出すだけのコンビニの24時間営業など無駄の最たるもので、もう2度と復活しなくていい。お天道様が沈んだら寝て、上ったら起きる、でかまわないのだ。

 *   *   *

そんなわけで、北海道からの情報発信11年目に入るこのブログを、引き続きご愛顧のほど、よろしくお願いします。

なお、どうでもいいお知らせです。当ブログでは、管理人が自称する時の1人称として「当ブログ管理人は、~」という表現をしばしば使用してきましたが、今後は「私は、~」に原則、統一します。

最近、当ブログに先に書いた記事を、後日、再構成の上、紙媒体で発表し直すことが増えているためです。その際、「当ブログ管理人は、~」という表現のままで紙媒体に転載するわけにいかず、主語を「私」に書き直していたのですが、そうでなくても忙しいのに、そんなことに使う時間と労力がもったいないと考えるからです。

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