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余波続く「令和の米騒動」 日本の歴史的転機になるかもしれない

2024-09-24 20:12:56 | その他社会・時事

(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2024年10月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 ●反響あった前号

 前号掲載の拙稿「じわり広がる「令和の米騒動」 これは日本の「暗い未来予想図」か」には大きな反響があった。記事をレイバーネット日本に転載したところ、右翼と見られる人物からレイバーネット日本に対し、私をライターから解任するよう要求があったという。「自民党が“保守”“愛国”を標榜しながら、舞台裏では、激しく攻撃している「左翼」以上に亡国的な政策を長年にわたって続け、日本と日本の市民を破滅の崖っぷちに追い込んでいる」実態を暴露されたことが、右翼・保守陣営にとっていかに打撃だったかを余すところなく物語っている。


 フランスの経済学者ジャック・アタリ氏に関する「ウィキペディア」(インターネット百科事典)日本語版の記事には、「日本人はいずれ雑草や昆虫しか食べる物がなくなる」という氏の発言が紹介され、レイバーネット日本に掲載された拙稿が出典として脚注に掲載されるに至った。この発言は「食料自給率が低い日本がこの先、どう生き残れば良いのか」を問うNHKのインタビューに答える形で行われた。アタリ氏は、高齢化が進んでいる農家の実態に触れ、農業が失われないよう農家になりたいと思う条件を整えることや、食生活を変化させ別の食材に切り替えることを提唱。その流れの中から飛び出したのが件の発言だったが、日本社会に与えるインパクトは私の想像をはるかに超えていた。

 ●食料危機の時代の入口か?

 主食の米が手に入らないという事態が現実化し、日本にとって食料危機の時代の入口になるのではないかとする論評も、経済ジャーナリスト荻原博子さんなど一部の識者から出始めている。十数年後に振り返ったとき「いま思えば、あれが飽食の時代から飢餓の時代への最も象徴的な転換点だった」と言われることになる可能性は、それなりに出てきていると思う。


 前号の拙稿で、私は1993年の「平成の大凶作」との比較で論じた。全国の作況指数が75になるとともに、東北の太平洋側では作況ゼロとなり、米が全滅する地域も出た1993年と、作況指数が101(平年並み)の今年ではそもそも比較対象にならないとの主張も多い。

 流通段階から米が不足し、「流通業者はおろか、農家に行っても米が買えない」という状況さえ見られた1993年と今年を比較することは確かに無理筋だろう。だが、前号の拙稿で指摘したとおり、この年でさえ793万トンの生産量を上げられた米を、ここ数年来の日本では700万トン程度しか生産できていないことは紛れもない事実である。人口が当時と比べて横ばいなのに、これだけ米消費を減らしても日本で飢餓が起きていない原因として、米消費の減少分を日本人が麺類消費の増加で補ってきたこともすでに指摘したとおりである。生産をいくら減らしても、それ以上に消費が減少するため余剰となった米の一部は、近年はこども食堂やフードバンク、フードパントリーに無償で提供されてきた。先進国とは思えないレベルでこの国に存在している「貧困のため食事にも事欠く子どもたち」にとって、これらの米が命綱になってきたことは、こども食堂やフードバンク、フードパントリー運動に関わってきた人たちにとっては周知の事実だろう。

 1993年は確かに壊滅的な米の作況だったが、これには前々年、1991年に起きたピナツボ火山(フィリピン)の噴火の影響だったことが今では知られている。20世紀に地上で起きた火山噴火としては最大規模で、噴出物は成層圏にまで巻き上げられた。日照時間が減り、地球全体の気温を0.5度も押し下げる要因となった。

 「平成の大凶作」は、火山噴火という一過性の出来事によるものだったため1993年限りに終わり、1994年の作況は平年並みに回復した。それに対し「令和の米騒動」は水田農業基盤の弱体化がもたらした構造的なものであるため、影響は今後も続くものと見込まれている。危機という意味では今回のほうがはるかに深刻なのである。

 農業危機は日本に限らず世界的なものである。アタリ氏が指摘する農家の高齢化もそのひとつだが、より根本的な問題は日本でも世界でも「農業では食べられなくなっている」ことだろう。農家にも生活がある。食べられなければ農業を辞め、別の仕事に移る。そうした労働移動が世界的に進行した結果、農業人口は減った。国連食糧農業機関(FAO)のデータによれば、2000年に10億人だった世界の農業人口は、2019年に9億人と報告されている。減少といっても20年間で1割であり、たいしたことではないなどと思ってはならない。世界の農業人口の75%は家族農業を中心とした小規模経営であり、しかもそのうちの95%は5ヘクタール以下の農地面積しか持たない零細農家だと報告されているからだ。

 これらのデータは、20年で1割減った農業人口の多くが大規模経営体の労働者であったことを示唆している。農産物価格の変動は、実は大規模経営体ほど大きな影響を及ぼす。資本主義的に大規模化した農業経営体から順に破たんし、その労働者が農業から他産業に移転。同時に、大規模経営体の破たんによって農業人口の減少を上回る規模で農業生産が減少していることも示唆するデータといえる。

 農業の大部分が、子どもを育てる必要がなく自分の老後の生活さえ保障されればよい高齢者によって担われるようになっている。こうした動機で農業を続ける農家は経営規模が小さいため、たいした生産量にならない。しかし、こうした農業者が世界の食料供給を支えてきたことに私たちはもっと着目する必要がある。

 このような実態は長く隠されてきたが、その一端はコロナ禍により明らかになった。農家だけでなく、食品加工、物流などエッセンシャルワークに携わる多くの労働者が不足していた。生活必需品自体は不足していないにもかかわらず、運ぶ人がいないため出荷できない工場が続出した。日本国内でも、製紙工場には天井に届かんばかりにトイレットペーパーが積み上げられているのに、最寄りの店頭にはなく、多くの人がトイレットペーパーを求めて長い行列を作った。あふれかえるコロナ患者を収容できない医療機関の状況を見た多くの有識者が新自由主義の終わりについて語ったが、終わるべきなのは新自由主義にとどまらず、人間の生存にとって真に必要な基幹産業における労働への対価(=賃金)をきちんと測定できず、そのためこれらの基幹産業に適正な労働力の配置もできない資本主義体制そのものではないのか。

 基幹産業とは、言うまでもないが医療、福祉、教育などの公共サービス、物流を含む公共交通、そして農業を含む食料供給などである。社会的に高い意義を持つが低賃金のため、人手不足がもう何十年も続いており、打開もされてこなかった分野である。こうした産業への大規模なテコ入れをこれ以上怠るならば、21世紀は人類にとって最後の世紀になるだろう。

 ●「飢餓の世紀」は予想されていた

 21世紀が飢餓の世紀になることが予測されていたといえば、多くの読者は驚かれるかもしれない。しかしそれは事実である。1995年に日本語版の初版が発行された「飢餓の世紀」(レスター・ブラウン著)は、自然条件の制約に伴う食料生産拡大ペースの鈍化について論じたもので、奇をてらったものではない。ブラウンは、人口大国であると同時に食料消費大国である米中印の三国について論じ、そのいずれも従来の食料生産の拡大ペースを、自然条件の制約のため維持できないと結論づけた。ブラウンが同著の執筆に取りかかった1990年代を起点として40年後の2030年代――それは今から見れば6年後の未来である――には世界に飢餓が訪れると予想していたのである。気候変動による温暖化ももちろん考慮に入れられている。


 ブラウンは、周光召・中国科学院教授(当時)の研究結果から、中国が食料を自給できなくなり、最悪の場合、世界から4億トンもの穀物を輸入しなければならなくなる事態に警告を発していた。現在、世界で7億人程度(世界人口の1割弱)が飢餓に瀕しているが、世界人口の半分が飢えるような破局的事態に至らなかったのは、良い意味でブラウンの予想が外れたからである。中国による2023年の食料輸入量は1億6千万トン。決して少ない量ではないが、ブラウンの30年前の予想に比べれば半分以下にとどまっている。これによって、世界食料危機が始まる時期は幾分、先送りされることになった。

 それでも世界の食料需給は逼迫基調にある。ブラウンが予想もしていなかった新たな食料需給逼迫要因も生まれている。ブラウンが「飢餓の世紀」の執筆を始めた1990年代は、ソ連が解体し、旧ソ連諸国が「独立国家共同体」(CIS)という緩やかな国家連合に再編され再出発したばかりの時期にあたる。かつて同じソ連だった兄弟国家同士が、世界の一大食料生産基盤となっている肥沃な大地の上で戦う事態など想定していなかったに違いない。ウクライナ戦争が今後も長く続けば、中国が作ってくれた「良い意味での誤算によるモラトリアム(猶予)期間」は終わり、世界の食料危機の時代が再び早まることもあり得るのである。

 兆候もすでに出ている。アフリカのナミビアやジンバブエでは、長引く干ばつのため食料が不足し、ゾウ200頭を処分、食料にすることを発表している。ジンバブエ当局は、国内人口の半分が飢餓に直面する可能性があると理由を説明する。

 ●求められる農政の方向性とは?

 エッセンシャルワークといわれる産業分野への適正な労働力の配置も、そこで働く労働者への適正な賃金の支払いもできない資本主義体制は、それが可能な新たな経済体制に席を譲らなければならない。しかしそれが今日明日のレベルで不可能であれば、当面は市場の失敗を踏まえた政府の出番とならざるを得ない。


 令和の米騒動に対し、農林水産省には驚くほど危機感がない。農水省職員の「現場無知」は昔からで、今に始まったことではないが、最近はますます酷くなっている。2010年代に入り、農水省に集中的にかけられた定員削減攻撃のため、農林統計担当職員数は2011年の2365人から、2018年には613人と、わずか7年で4分の1に減らされた。たったこれだけの人数で何ができるというのだろうか。

 実際、食糧事務所と並んで、かつて農水省の中でも花形といわれた統計情報部、地方統計事務所はなくなり、今は農政局の一部署になってしまっている。以前であれば、農政局統計情報部の職員が直接、農家に出向き「今年の作柄はどうですか」などと膝詰めで話しながら、要望を聞き、政策に反映させていたが、組織もなくなり人員も4分の1になった今の農林統計の現場にそのような力はない。そもそも昨年度産米の作況指数「101」(平年並み)自体、きちんとした調査やデータ分析に基づき、実態を反映している数値なのか。そこから検証しなければならないほど、農林統計業務の弱体化は深刻な状況にある。

 減反政策は、少なくとも表向きは廃止されたことになっているが、「生産目安数量」が地方自治体を通じて農業現場に降ろされていることは前号拙稿ですでに述べた。前号での分析を踏まえ、さしあたり、現状の農政で真っ先に改めなければならないのは価格維持政策である。農家が持続可能な水準で農産物価格を設定するなら、農産物価格は大幅に上がることになり、ただでさえ物価高にあえぐ消費者を直撃することになる。一方、消費者が満足する現行水準での価格が続くなら、農家の持続的経営は到底不可能だ。今の制度は、農家の利益と消費者の利益がトレードオフになっており、両方を満足させることはできないからである。

 この問題はかなり前から認識されており、かつては一度、メスが入れられようとした時期もある。2009年に成立した民主党政権は、価格維持政策を取りやめ、豊作によって農産物価格が暴落し、農家の手取り収入が下がった場合、国が農家に直接補償を行う「農業者戸別所得補償制度」を導入した。農産物価格の維持のため、作りたくても我慢しなければならなかった過去の農政からの決別であり、意欲的に生産した結果「豊作貧乏」になっても国から減収分が補償されるこの制度は、足下では農家に好評だった。

 だが2012年、自民党が政権復帰し安倍政権が成立すると廃止され、元の価格維持政策に逆戻りしてしまった。農業者戸別所得補償制度がそのまま残っていれば、「令和の米騒動」は起きていなかったと思われるだけに残念だ。「悪夢の民主党政権」などと安倍元首相は盛んに旧民主党攻撃を繰り返したが、悪夢は一体どちらなのか。こうした制度を作った旧民主党政権の実績はもっと正当に評価されるべきだ。

 令和の米騒動を通じて、価格維持政策よりも農業者戸別所得補償制度のほうが優位であることが示された。ただちに農業者戸別所得補償制度を再導入し、農業経営の安定性、持続性と意欲的生産の保障を通じた安定供給の確保に踏み切る必要がある。

 この場合、農業者への所得保障に税金が使われることになるが、日本以外の諸外国では「食料は軍備と同じ価値を持つ」が常識である。市民を危険にさらす防衛費や国土破壊の象徴である原発に使うカネが何兆円もあるのに、食料安全保障にカネを回さず、市民が主食を買えない事態が起きても放置し続ける自民党こそ最低最悪の反日売国政党であり、左翼を「反日」などと非難する資格はない。

 ●「赤上げて赤上げないで、白下げないで白下げろ?」

 令和の米騒動の背景に、8月8日、宮崎県日向灘沖で起きたマグニチュード7、震度6強の地震をきっかけに発表された「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」の影響を挙げる向きもある。だがこれに関しては、私は、影響は限定的だったと判断する。


 ただ、タイミングとしては最悪だった。仮にこの地震の発生がもう1か月遅ければ、すでに新米が出回り始めていたであろうし、逆にもう1か月早ければ、新米の流通開始まであと2か月近くもあるから、政府は迷うことなく備蓄米放出に踏み切れたであろう。このタイミングの悪さを混乱の背景要因のひとつに挙げる程度なら差し支えないと考える。

 情けないのは政府の対応が後手に回り、しかもちぐはぐだったことだ。南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)が発表された直後は「大地震に備え、生活物資を備蓄しておきましょう」と呼びかけながら、米不足が始まると一転して「無駄な買い占めは控えましょう」と真逆の呼びかけを行った。「赤上げて赤上げないで、白下げないで白下げろ」と言われているようで、これでは混乱が起きないほうがおかしい。

 9月に入り、店頭には徐々に米が戻り始めているが、以前であれば2000円でお釣りが来ていた5kg入り白米1袋が3000円を超えているところも出ていると聞く。鳥インフルエンザの大流行によって鶏が大量に処分された結果、一時は完全に店頭から姿を消し、数か月後に戻ってきたときには価格が倍になっていた鶏卵の前例もあるだけに、今後しばらく価格は戻らないかもしれない。

 「今までが安すぎただけで、これが適正価格だ」とする見方も一定程度正しい。そもそも日本の消費者は米がどれほど安いかご存じだろうか。食管制度時代の古いデータではあるが、茶碗1杯のご飯が標準米で25円、コシヒカリ級のブランド米でもわずか45円に過ぎない。「これが高いとおっしゃるならば、もう勝手になさいと申し上げるしかない」――2022年に死去した農民作家・山下惣一氏の著書の「あとがき」として、作家・井上ひさし氏はこのような言葉を贈っている。

 「令和の米騒動」は日本と日本人の生存基盤の脆弱性を印象づけるまたとない機会だった。農家のためにも消費者のためにもならない農政はもとより、米の複雑な流通実態、政府の情報発信のあり方、デフレに慣れきった結果としての「安ければいい」という消費者意識に至るまで、今まで私たちが常識と考えていたことのすべてをこの際、ゼロベースで見直さなければならない。

<参考資料・文献>
・「飢餓の世紀」(レスター・ブラウン著、1995年、ダイヤモンド社)
・「今、米について。」(山下惣一著、1991年、講談社文庫)
世界の農業が抱える問題と国際報道
ゾウを国民の食料に 飢餓差し迫るジンバブエ

(2024年9月22日)


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