語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『老人と海』

2010年03月01日 | 小説・戯曲
 メキシコ湾流の流れる海の漁師、サンチャゴ老人は84日間一匹も釣れない日々が続いていた。最初の40日間はマノーリン少年が同行していたが、両親は老人に見切りをつけ、少年を別の舟に乗りこませた。
 不漁85日目の正午の頃、ついに大魚が餌にかかった。老人の舟よりも2フィートは長い。体重は1,500ポンドを超える。老人との闘いがはじまった。一日たったが、マカジキはへばらない。老人の闘いは、自分の肉体の限界との闘いともなった。海へ乗りだしてから三度目の太陽が昇った。ついに仕とめ、舟の脇にくくりつけた。老人は疲労困憊していたが、意気は高かった。あとは家路につくのみ。
 好事魔多し。新たな敵が出現した。苦闘の果てに得た獲物を横からかっさらおうとする盗人、鮫である。「いま、老人の頭は澄みきっていた。全身に決意がみなぎっている。が、希望はほとんど持っていなかった」
 死にもの狂いで防ぐ。銛で一匹屠った。オールに付けたナイフで、また一匹たおした。だが、鮫は次から次に際限もなく、執拗に襲いかかってくる。午後10時頃、ハバナの灯が見えた。老人の手に武器は残っていなかったが、襲撃はまだ続く。夜中を過ぎて、舟は小さな港に着いた。
 翌朝、漁師たちが獲物の残骸をとり巻いて感嘆した。全長18フィートはあったはずだ。
 寝床に横たわる老人に、ふたたび一緒に漁したい、と少年は告げた。老人を愛する少年は、両親を説得する根拠を見つけたのである・・・・。

 日本近海にイワシが減少し、世界的にマグロが絶滅危機に面している。不漁に直面する老人の嘆きは世界各国の漁民の嘆きでもある。ここに本書の普遍性がある。
 しかし、老人の属性を漁師に限定しなくともよい。本書には、固有名詞がほとんど出てこない。主人公も終始老人と呼ばれるのみで、その名サンチャゴは付け足しのように二度ほど記されるにすぎない。老人が住まう土地の名すら、定かではない。主人公の所属が具体的でない反面、その行動は即物的であり、目にあざやかに見えるようだ。ここから、事が漁業にとどまらない広がり、ふくらみ、象徴性が生じる。
 たとえば、老人をヘミングウェイ、マカジキをヘミングウェイの作品、鮫を批評家と見立てる。老人(ヘミングウェイ)が釣り上げた獲物(作品)を、寄ってたかって鮫(批評家)が喰い荒らすのだ。
 あるいは、読者は読者で、自分の体験と照合させることができる。老人に味方しない海、すなわち自分の志に味方しない状況、そこに生じる孤独感と無力感・・・・誰しも人生の一時期にこうした体験があるのではないか。本書を読みながら、雄々しく闘いつづける老人を自分に重ね合わせることもできるだろうし、あるいは闘いたかった思いを老人に仮託することもできる。
 本書は、ある状況を細かく描くことによって別の状況を想起させる、という点で、アルベール・カミュ『ペスト』や大岡昇平『俘虜記』に通じる。

□アーネスト・ヘミングウェイ(福田恆存訳)『老人と海』(新潮文庫、1966、1983改版)
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