語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【松田道雄】京ことば、その表層と深層

2010年03月11日 | エッセイ
 (1)京ことば、京都市民の言いまわしの背後に京都の共同体と個人との関係がある。

 (2)帰りかけた客に、内儀が玄関で、「まあええやおへんか。お茶漬け一ぜんたべといきやすな」
 客がもう一度あがりこんでご馳走になりはしないだろうから、リップ・サービスだ・・・・と笑うのは誤解がある。「京都の風習は、予告なしにきた客にたいして食事をだす義務を、市民相互に解除していた」「単純再生産をつづけてきた京都の町の生活は、食生活の徹底した計画化によって維持された」

 (3)たとえば、ある店では五の日及び十の日が酒日(さかび)で、なま魚をだし、番頭にのみ酒をつけた(「ごじゅう」)。
 質素で厳格な食生活の「ルールを自分の家でまもるだけではなく、隣人が隣人のルールをまもることも尊重するいう観念が、京都の市民のなかにはあった」
 京都の町では、共同体の意識がはやくからなくなり、「生活の単位が個人になっているのだ」

 (4)しかし、近代的な個人と呼ぶのはためらう、と松田道雄。
 近代的な個人は、共同体を打ちこわして生まれてきたものだが、「たんなるばらばらの個人ではなく、共同体を打ちこわすときに、自由な独立者として相互に協力した。その協力のなかに、個人と個人とをむすびあわせるルールがでてきた」
 「ところが、京都の場合は、共同体が細分されて個人ができたような格好である」
 一見個人はじつは小さい共同体であり、このミニ共同体独自のルールは隣のミニ共同体のルールと共通していない。それぞれ独自のルールをもつミニ共同体の「全部をふくむ共通のルールの意識は低い」

 (5)ここで、松田は孫をつれて電車にのったおばあさんの例をひく。
 座席にすわった幼児、もっているオモチャの刀で隣の人をはたくと、おばあさんは孫に、そうしてはいけない、とはいわない。隣の人の顔を見ながらいう。
 「おっちゃん、おこらはるえ」
 おばあさんのミニ共同体では、幼児がたわむれに大人をオモチャの刀ではたくことは許された遊戯だが、隣のミニ共同体で通用するかどうかはわからない。隣の人が黙認したら、それは隣のミニ共同体でも通用するルールだということになる。
 全共同体、全個人をつらぬくルールがあるところでは、「これ、ひとさまをたたいてはいけない」になるだろう。
 「だから、おばあさんが、おっちゃん、おこらはるえというのは、実は隣人に問いかけているのだ」
 隣の人が子どものいたずらを許さないルールを持しているときは、「ぼん、たたいたらいきまへんえ」という。そのときはじめて、おばあさんは孫をしかるのである。

 (6)ミニ共同体ごとにルールがちがう。魚を「ごじゅう」にだすか「さんぱち」にだすかはミニ共同体ごとにちがう。
 「生活単位が個別化していても、それが近代的な個人でない証拠に、この小さな共同体はけっして民主化していなかった。家族全部が『ごじゅう』にしか魚を食べないお店でも、旦那はんだけは、毎日ごちそうを食べていた。それを出前する仕出し屋というものが京都には特別に発達していた」

□松田道雄『京の街角から』(筑摩書房、1978)の「京の茶漬け」
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